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40歳の日中平和友好条約  交渉の最終局面を現地取材(近藤 龍夫)2018年10月

 その日、北京は朝から雨だった。園田直外相を乗せた日航特別機が夕暮れ迫る北京空港に着いたとき、雨足はひとしお激しく、出迎えた黄華外相、韓念龍外務次官はバスで特別機の下まで行き、傘をさしてタラップを上り、機内で園田外相を迎えた。

 

 当時の北京空港は中央に三階建てほどの体育館のような建物がある質素なものだった。雨の中、やっとの思いで空港控室にたどりついた園田、黄両外相は報道陣の前で改めて固い握手を交わし、黄外相は満面に笑みを浮かべ園田外相を温かく迎えた。

 

 ◆両外相の握手、ポラロイドで撮影

 

 あのころ、いまのようなデジタルカメラがあるわけでなく、フィルム現像の手間をはぶき、すぐに電送できるポラロイドカメラが最新鋭の武器だった。そのポラロイドで両外相の握手の瞬間を間近で撮ったのだが、うまく撮れているか分からない。だから「再来一張(もう一枚)」と声をかけシャッターを切ったが、それでも不安なので、「再来一張」と再び声を張り上げると、黄外相が「你是導演嗎(君は映画監督か)」と笑いながら応じてくれた。余裕のある応対に大物外相の片鱗をみた。その写真は翌日の朝刊一面を飾った。

 

 1978年8月8日、日中平和友好条約締結の最後の政治折衝が始まる前日のことである。

 

 日中平和友好条約は78年8月、北京で調印し、同年10月、批准書を交換し発効した。あれから40年。日中を取り巻く国際環境も、それぞれの国内情勢も変化し、当時の熱気を帯びた日中関係は遠い昔の話となり、いまや条約の存在、その意義そのものが薄れてしまったように思う。だが、私にとっては忘れることのできない条約なのである。

 

 「反覇権条項」の扱いをめぐって難航した交渉が大詰めを迎えた78年7月、私は北京支局に赴任し、いきなり西も東も分からない北京の街を駆けずり回りながら取材に汗をかいたからである。

 

 ◆「反覇権条項」めぐり攻防

 

 72年の日中国交正常化に際し、平和友好条約締結交渉を始めることで合意したのだが、実際に交渉に入ったのは75年1月。それから調印までに3年7カ月を要した。当初、交渉に入ればすぐにも締結できるものとみられていたが、「反覇権条項」をめぐって、双方の立場、思惑に隔たりがあり、妥協点を探り出すのに時間がかかった。

 

 当時、中ソ関係は険悪な状況にあり、中国はソ連を念頭に「反覇権条項」を条約に入れることで、日本を味方に組み入れた外交姿勢をとりたかった。一方、全方位外交を進める日本は対ソ外交で北方領土問題や漁業交渉を抱えていただけに、中国と一緒になって「反覇権」を唱えるわけにはいかなかった。

 

 しかし、77年秋ごろから、復活した鄧小平副首相が内外政策を動かすようになり、急速に締結への機運が高まった。日本でも福田内閣が前向きの動きを取り始めた。その結果、78年7月、北京で事務レベルの最終交渉が始まった。日本は佐藤正二中国大使、中国は韓念龍外務次官をそれぞれ首席代表に「反覇権条項」をめぐる最後の攻防を繰り広げた。

 

 交渉は15回に及んだが、佐藤大使はその都度、進捗状況を駐在記者に説明してくれた。ただ、困ったことに大使はしばしば囲碁の打つ手になぞらえて説明するものだから、碁のできない私は理解に苦しみ、たびたび記者仲間に助けを求めた。そして最終的には園田外相が訪中し、政治決着をはかる運びとなったのだ。

 

 8月8日北京入りした園田外相は翌日、黄外相と10日には鄧小平副首相と会談し、条約を最終的にまとめた。懸案の「反覇権条項」は条約に入れるが、いわゆる「第三国条項」を書き加えることで決着し、12日の調印式へと駒を進めた。人民大会堂で行われた調印式には華国鋒主席、鄧小平副首相も出席、両首脳が並んでみつめるその前で、園田、黄両外相が条約に署名し、歴史に新しいページを開いた。

 

 ◆熱気を帯びた鄧小平の訪日

 

 日中関係はこの条約締結によって戦後、最良のときを迎えた。条約の批准書交換のため鄧小平副首相、廖承志中日友好協会会長、黄華外相、韓念龍外務次官ら条約締結に携わったそうそうたるメンバーが10月22日、それぞれ夫人同伴で訪日した。当時、要人の外国訪問に夫人同伴はきわめて珍しく、これをきっかけに新しい外交スタイルを打ち出したい意気込みの表れでもあった。

 

 代表団出発の日、慣例にしたがって党の最高幹部の面々が北京・西郊空港に集まり見送った。その居並ぶ幹部の隊列とは少し離れたところにかわいい女の子を抱いた女性の姿が目に入りシャッターを切った。もしかしたら鄧小平副首相の娘さんと孫ではないか。そう思い居合わせた中国外務省職員に尋ねた。要人の家族のことなど外国人に話してはならない時代だ。職員はだまっていたが肯定的な仕草をしたようだったので、早速、支局で現像し東京へ電送した。次女の鄧楠さんとその子どもだった。さすがに実力者の大事な旅立ち。家族も見送りに来ることができたのだ。卓琳夫人以外の鄧家の人の写真が紙面に出たのは初めてだった。

 

 鄧訪日の模様は、連日、衛星中継で中国の茶の間に伝えられた。中央テレビ局は美人アナウンサーを派遣し、夜7時からのニュース番組で訪日の詳細を伝えたほか、1週間にわたって日本関係の特別番組を放映した。ホテルの従業員たちはテレビ中継の時間になると仕事そっちのけにテレビの前に集まった。日本では各家庭に冷蔵庫、テレビ、洗濯機のあるのに驚き、新幹線のスピードの速さ、自動車にあふれる東京の街並みに、「あれでは自転車は乗れないね」とつぶやきながら、近代化した日本の光景に強い刺激を受けた。いまは外貨準備高世界一の金持ち中国だが、当時は十数億㌦しかない貧乏国だった。天皇と鄧小平会見も反響を呼んだ。この鄧訪日が後の改革開放政策推進の起爆剤ともなった。

 

 条約発効後、日中関係は教科書問題など摩擦も生じたものの、飛躍的に発展し、胡耀邦時代には三千人もの日本の若者が招待され、友好関係を盛り上げた。しかし、江沢民時代の日本軍国主義復活批判あたりから関係は下り坂となり、小泉首相の靖国参拝問題、野田内閣の尖閣諸島国有化問題などで関係は大きく後退し、中国全土で反日運動が展開されるまでに悪化した。

 

 ◆友好条約の意義再考を

 

 いま、二期目の習近平体制になって関係修復の動きが強まりつつあるが、歴史認識、領土問題などでまだすっきりした関係改善には至っていない。平和友好条約は文字通り、恒久的な平和友好関係の発展をうたい「両国はアジア太平洋地域、その他において覇権を求めるべきでなく、覇権を確立しようとする他のいかなる国、国の集団の試みにも反対する」と明記している。

 

 だが、大国化した中国の南シナ海での領土、軍事基地拡張の動きが、周辺国に脅威を与え、尖閣諸島での中国公船の日本領海侵犯が緊張を高めている。一方、自衛隊は南シナ海で軍事訓練を行うまでになった。

 

 あの時、鄧小平副首相は園田外相に「中国が覇権を求めるなら世界人民は中国人民とともに、中国に反対しなければならない。反覇権条項は中国自身への拘束である」と言ったという。

 

 40年の節目に日中双方で改めてこの条約の存在と意義を再考し、これからの関係構築に真剣に取り組むべきではないだろうか。

 

こんどう・たつお

1934年生まれ 63年朝日新聞社入社 香港支局長 北京支局長 外報部長 東京編集局次長などを経て 英文朝日社長 敬愛大学教授 千葉敬愛学園理事長を歴任 著書に『国際都市香港』『現代中国をつくった人々』(共著)など

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