公益社団法人日本記者クラブ 50年史

公益社団法人日本記者クラブ 50年史

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創立50周年を迎えて

理事長 原田 亮介
理事長 原田 亮介

日本記者クラブは大阪万博の前年の1969年11月1日に産声を上げた。万博で世界中から来日する要人との記者会見を自前の施設や組織で開きたい、という先人の熱意がプレスクラブの実現に結集したのである。

この年、6月には1968年の国民所得統計が発表され、国民総生産(GNP)が50兆円台に乗り、ドル換算で初めて西独を抜き、世界第2位になったことが伝えられた。7月には米国のアポロ11号が月面着陸に成功し、アームストロング船長が「1人の人間には小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」と述べた。日本国内の衛星中継の視聴率は68%にも達した。

大学紛争で東大入試が中止になり、全米にベトナム戦争への反対運動が広がる騒然とした年でもある。ただ経済成長や科学技術の先行きについて、日本の多くの人がまだ明るい未来を描ける時代だったのではないか。

50年たったいまはどうか。経済成長を支えるはずの自由貿易は米中の覇権を巡る対立のなかで存続を脅かされている。デジタル化とグローバル化が貧しかった国々の経済をカエル跳びのように豊かにした半面、先進国は低成長に悩み、民主主義の基盤が揺らいでいる。日本も例外ではない。

先が見えない時代だからこそ、報道の役割と責任は大きい。先人の積み重ねた伝統を大事にしつつ、新しい時代に挑戦することが当クラブの使命だと思い定めている。

(2019年11月1日)

  • 創立前史―クラブができるまで
  • 創成期―初めての記者会見開催
  • About JNPC
  • 創立前史―クラブができるまで

    創立前史―クラブができるまで

    1959年10月、東京での第12回新聞大会で、本田親男・日本新聞協会会長は「欧米では小さな都市にまでプレスクラブがある。世界に誇る大発行部数を持つ日本の新聞界にはひとつもない」と発言し、「日本にナショナル・プレスクラブを」との提言を行った。

    当時の日本でプレスクラブといえば、敗戦直後の1945年10月、米欧の記者が設立した日本外国特派員協会があった。来日した外国の要人は、日本政府が招待した国賓であっても、外国特派員協会が主催する会見に招かれ、日本人記者は「準会員」として参加を認められるという「占領時代の遺制」が60年代後半まで続いていた。
    これに対し、日本の報道界でも批判の声が高まり、さらに1970年の大阪万博を控え、世界各地から多くの要人が来日することになり、報道界だけでなく、外務省はじめ政府筋からも、「日本独自のプレスクラブ創立」の声があがりはじめた。
    これを受け、新聞協会では69年春ごろから、編集委員会で日本独自のプレスクラブ設立の検討を開始した。日本新聞協会編集員会の原四郎氏(読売新聞社)は、「同じ時期に、保利茂・内閣官房長官から、ナショナル・プレスクラブ設立を急ぐように要請する電話があった。さらに、外務省記者クラブ加盟の記者たちからも、同じ要請が新聞協会事務局にあった」と書き残している。

    1969年7月17日の新聞協会理事会はプレスクラブ設立方針を承認し、「プレスクラブ設立準備委員会」の設置を決定。7月31日に準備委員会の第1回会合が開かれ、「将来的にはプレスビルを作りたいが、それまでは既設ビルの一室を占有して本拠地とし、国賓クラスの会見はホテルを借りる」ことを確認した。9月29日の準備委員会第2回会合では、名称と規約が決まった。
    名称は、「日本プレスクラブ」が最適との意見が多かったが、同名の組織がすでに存在していたため、「日本記者クラブ」となった。
    規約では、「内外の重要ニュースソースとの接触を多角化し、プレス相互の交流を緊密化することにより、プレス各機関の報道活動を促進し、報道の社会的機能の向上発展をはかることを目的とする」と定めた。
    また会員制度に関しては、海外のプレスクラブの大半は個人会員制だが、日本記者クラブは日本の報道界の実情を考慮して、法人会員と個人会員の二元体制をとり、新聞社、通信社、放送局などメディア各社から成る法人会員が運営の責任をとる体制となった。
    本田会長の提言から10年の歳月がたっていたが、設立方針が固まってからは驚くべき速さで進展し、わずか3カ月で誕生にこぎつけた。10月1日付で、日本新聞協会・萬直次会長、日本民間放送連盟・今道潤三会長、NHK・前田義徳会長の3名が発起人となり、入会案内がそれぞれの加盟社に送られた。

    創立総会は、1969年10月31日に尾崎記念会館(千代田区)で開催された。総会では規約承認のあと、18社から理事が選出された。引き続き、理事の互選で、初代理事長に原四郎・読売新聞社常務取締役編集局長を選出した。原理事長は、初代事務局長に前田雄二・日本新聞協会事務局次長を指名した。
    事務所もなく、クラブルームも持たない状況だったが、日本報道界の念願だった「ナショナル・プレスクラブ」である日本記者クラブが翌11月1日に正式に発足した。創立当初の会員社は137社、会員数は839人。
    11月13日には、政財官など各界の代表600名を招待して、丸の内の東京会館で創立披露レセプションが華々しく催された。

  • 創成期―初めての記者会見開催

    創成期―初めての記者会見開催

    1969年11月に日本記者クラブは産声をあげたが、公式日程にのぼってわずか3カ月での設立だったため、まずは基盤となる組織作りが急務だった。設立準備の事務のほとんどは日本新聞協会事務局が肩代わりしており、クラブ事務局もクラブ設立当初、新聞協会の一隅を利用していた。事務局の陣容は、初代事務局長の前田雄二氏が日本新聞協会事務局次長と兼務、専任職員も新聞協会から春原昭彦氏が総務部長として出向、そのほか女性職員2人を加えたメンバーでスタートした。組織面では11月の理事会で、総務委員会、企画委員会、会員委員会の3委員会を設置、このうち活動の中核となる企画委員会は同月の第1回会合で、「国賓、公賓を招くほかニュース性のあるゲストを招く」との基本方針を決定した。

    記念すべき第1回の記者会見は、70年1月13日にエドガー・フォール元フランス首相を迎えて、「プレス・ランチョン」のスタイルで、ホテル・ニューオータニで行われた。当時は中国政府の承認問題が世界的な関心を呼んでおり、フランスの中国との外交関係樹立に大きな役割を果たした同氏に、中国関連の質問が多くとんだ。司会は、原四郎初代理事長が務めた。
    日本記者クラブ誕生で、それまで外国要人会見の受け皿であった日本外国特派員協会との調整が必要になった。同協会と協議の結果、70年3月に、(1)国賓などの重要人物を双方がゲストとして希望する場合、当該本人の意向がなければ、外務省など日程作成当事者に一任する(2)その場合、日本記者クラブが優先される―などの基本合意に達した。
    70年3月10日、帝国ホテル新本館開設と同時に同館4階「松の間」を借りてクラブルームが初めて誕生した。すぐに手狭になり、同年6月には2倍の面積(220平米)の同ホテル東館に移転、ここではラウンジを必要に応じて会見室に転用した。当初は2~3年後にプレスセンタービルを建設し移転するはずだったが、敷地の選定、建築資材高騰などでビル建設が延び、結局、6年半ほど帝国ホテルに居を構えることになった。この間、帝国ホテルにはクラブ運営に関して、多大の協力をいただいた。

    初年度の会見は、大阪万博で来日した各国要人が多く、EC(欧州共同体)ピエール・アルメル議長(ベルギー外相)、ウ・タント国連事務、スチュアート英外相、バーガット・インド外相などが相次いで会見、万博以外でもリー・クアン・ユー・シンガポール首相などが登場した。異色ゲストとしては、米国の人気コメディアン、ダニー・ケイさん(国連ユニセフ大使)や人類初の宇宙遊泳者であるソ連の宇宙飛行士レオーノフ大佐の会見も行われた。
    政府閣僚では、4月10日に佐藤栄作首相が首相として初ゲストになり、昼食会に臨んだ。その後、宮沢喜一通産相、愛知揆一外相など閣僚も次々に登壇して、「ニュースの発信基地」としての日本記者クラブの知名度を高めた。また10月の新聞週間には「マスコミを語る」と題し、各社の中堅記者5人と千葉雄次郎・新聞学界会長などが出席する討論会が開かれ、社の壁を越えた日本記者クラブらしい活動として注目された。このほか、映画試写会(70年1月)、会報創刊(同年3月)など今日につながる活動も始まった。
    クラブルームでは、コーヒーやお酒も用意され、会見以外にも記者同士の相互交流の場として、次第にプレスクラブらしい雰囲気が醸成されていった。

  • About JNPC

    About JNPC

    For many years after World War II, the Japanese media lacked an umbrella organization suited to hosting news conferences by visiting heads of state and other foreign dignitaries; instead, almost all such events were held at the Foreign Correspondents' Club of Japan. As Japan grew into an economic powerhouse during the 1960s, and many foreign VIPs were expected to visit Japan for the Japan World Exposition, Osaka 1970, the Japanese media rallied around the idea of having their own national press club where they could host news conferences and other forums for important visitors.

    So it was that on November 1, 1969, the Japan National Press Club (JNPC) was established under the auspices of the Japan Newspaper Publishers & Editors Association, the Japan Commercial Broadcasters Association, and Japan Broadcasting Corporation (NHK).

    While the majority of press clubs around the world offer only individual memberships, JNPC has adopted a dual system of individual and corporate memberships tailored to the actual circumstances of the Japanese news industry, with corporate members taking responsibility for the Club's operations. As of October 2019, on the eve of JNPC's 50th anniversary, membership consisted of 133 organizations and 1,233 individuals.

    Over the years, JNPC has welcomed countless distinguished visitors from abroad. US President Gerald Ford, Vice Premier Deng Xiaoping of China, President François Mitterrand of France, British Prime Minister Margaret Thatcher, South African President Nelson Mandela, Soviet President Mikhail Gorbachev, and a succession of UN secretaries general are among the world leaders who have addressed our members while in office. Other honored guests include American Space Shuttle astronauts, charismatic business leader Lee Iacocca, broadcast journalist Walter Cronkite, and economist Thomas Piketty.

    Of course, we have also provided a podium for domestic newsmakers, from political leaders, including prime ministers and other top officials, to influential figures in Japanese business, culture, and sports. JNPC currently hosts some 200 news conferences and similar forums annually, and our guest book grows more diverse all the time.

    In addition to these events, JNPC sponsors a number of professional programs for journalists, including domestic and overseas "press tours" oriented to current topics and newsgathering workshops for starting and mid-level journalists. Moreover, JNPC serves as a witness to history as well as a key hub for dissemination of the news as we offer free online access to our massive archive of news-conference recordings (sound and video) going back to the Club's founding.

  • 「記者の家」のこれから
  • 「3.11」機に前例踏襲から脱皮
  • 質問力を育てる場に
  • 「記者の家」のこれから

    「記者の家」のこれから

    元専務理事 岩崎玄道

    尾崎記念会館での日本記者クラブ創立総会(1969年10月31日)から50年になる。事務局で40年余り仕事をした人間だけに、感慨深い。ナショナル・プレスクラブの育成、発展に尽力され、多くはすでに鬼籍に入られた懐かしい人々の相貌がまぶたに浮かぶ。まずはご指導いただいた、こうした方々にお伝えしよう。「日本記者クラブ、齢五十、ボクも後期高齢者になりました」と。

    誕生から90年代までの歴史は、既刊の10年史、20年史、30年史にこと細かに記録されている。50周年に際して、これらをPDF化して、クラブのHPで読めるようにするという。いつでも思いついた時に簡単に、先人たちが何を考え、どういう条件下で、どう行動したかを知ることができる。特に事務局の新しいスタッフにはよく読んでもらいたい。幸いクラブ設立の準備段階から草創期のことに精通している春原昭彦氏も、フォード米大統領昼食会や昭和天皇・皇后会見、プレスセンターへのクラブ移転などで苦労した桂敬一氏も、個人会員で健在だ。お二人はクラブの生みの親である日本新聞協会から、事務局へ出向した経験を持つ。職員有志で話を聞くといい。

    ふり返ってみれば、このクラブは新聞、テレビの隆盛と日本経済の拡張期を背景に、驚くべき高度成長をした。内外要人の会見を積み重ね、早い段階で社会的評価が確定するが、さらにそれを決定的にしたのが90年2月2日の五党党首公開討論会の開催だった。討論会の後、クラブは10階ホールの専用利用をめざした。対前年度予算規模で30%を超える会費改定を行い、(株)日本プレスセンターの協力を得て、92年4月にそれを実現した。会員の増加が続き、各社が大幅な負担増に応じてくれたおかげで、クラブ財政も健全なものになる。産声をあげてから20年余りでのことだ。この土台の上に、その後はあったといえよう。

    これから先の50年には、さらなる環境激変が待ちかまえているが、それを乗り切っていく際、執行部とそれを支える会員にとっても、先輩たちの足跡とその思いは、心の支えにもエネルギー源にもなることだろう。

    鄧小平副首相の会見(1978年10月25日)の後、中国の要人が続々とクラブで会見した時期がある。そのころ、人民日報の社長さんがクラブを表敬訪問した。政府から一切の財政支援を受けずに、ほとんどを会員社である報道機関と会員個人の会費で運営していると説明すると、筆をとって記念帳に「記者の家」と書いてくれた。冷戦終結後、唯一の超大国になった米国が経済のグローバル化を進めるなかで、中国だけでなく、ASEAN諸国も、インドも、アジア諸国は著しい経済発展をとげた。

    しかし、どうであろうか。これらの国々の民主主義や報道の自由の現状は。これらの点での、日本の先行を否定する人はいないだろう。中国は大国化したが、国際基準からみて妥当な「記者の家」を持っているだろうか。もちろん、それぞれの国にはそれぞれの事情もあるので、日本がモデルになれるかどうかは分からない。それでも明治以降、政治の民主化と報道の自由を模索してきた日本の姿と現状は、アジア諸国に何らかの参考になるのではないだろうか。いや、そうなるように、私たちは意識して行動しなければならないのではないだろうか。そういう思考の枠組みの中でも、日本記者クラブという存在を考えるべきであろうと、私は思っている。

    一会員として、近年、残念に思うこともないではないが、最後にうれしかったことを書く。15年ぶりに首相に返り咲いたマレーシアのマハティールさんが、原田亮介理事長が司会をした会見(2018年6月11日)で、前政権批判の文脈のなかではあるが、「フリー・プレス」という言葉を発したのだ。抑圧的な法律を改めて、いわゆる自由民主主義とはいえないかもしれないが、マレーシアなりのリベラリズムのなかで、報道の自由と国民の政府批判の自由を確保していくと表明した。来日したアジアの首脳の口から、こういう話を聞いたのは、私はこれが初めてだった。

    (いわさき・はるみち)

  • 「3.11」機に前例踏襲から脱皮

    「3.11」機に前例踏襲から脱皮

    前専務理事 中井良則

    私が日本記者クラブ事務局で仕事をしたのは2009年4月から2016年5月までの7年間だった。この間の最大の出来事は何か、と聞かれれば、多くの人と同じ答えになる。東日本大震災だ。いまから振り返ると、日本記者クラブが自分たちの存在理由を確認し、新たな段階に進むためバージョンアップするきっかけになった。

    だれでもあの時、どこにいて何をしていたか覚えているだろう。2011年3月11日。プレスセンタービル9階も大きく揺れた。テレビが倒れそうになって事務局の若い同僚が押さえる。「このビルは安全です」と館内放送が繰り返し流れる。窓から日比谷公園を見下ろすと、付近の建物から避難した人びとが寒そうに立ち尽くしている。そんな光景を覚えている。
    「これはとんでもないことになる」と息をのんだのは、押し寄せる津波をヘリコプターから中継するテレビを見た時だった。そして、東電福島原発の事故が伝えられる。日本という国はどうなるのか。この社会は持ちこたえるのか。不安と動揺の中で、予定されていた記者会見や試写会を中止したり延期するぐらいしかやることがない。この非常事態に即応して記者会見を企画すべきか、と思いながらも、ニュースの激動に流されるばかりで、手がつかなかった。

    ■再始動は天野IAEA事務局長会見
    そんな時、外務省から電話があった。「国際原子力機関(IAEA)の天野之弥事務局長が来日するので、クラブで緊急の記者会見をできないか」。それも電話の翌日、震災から一週間後の3月18日の夜に、という内容だ。「やります。来てください」と即答した。震災前のクラブなら「そんな急にいわれても」とためらうところだ。だが、こちらが会見の企画に動き出す前に、ゲストの方から会見したいといってきた。天野さんの会見には180人が出席し満員だった。通訳も入り、外国メディアも多かった。
    世の中がクラブを必要としている。いつまでも呆然としている場合ではない、と活を入れられた気がした。
    記者会見を担当する企画委員会と相談し「3.11大震災」と題したシリーズ会見を始めた。3.11に関連するテーマなら、どんな人でも話を聞こう、話す場を提供しようとウィングを広げた。被災地の議員、福島県双葉郡の町村長、原発立地県の知事から建築学会、感染症学会、生命保険協会、被団協(日本原水爆被害者団体協議会)といった全国組織、さらに復興構想会議への要望・提言、緊急医療の教訓までさまざまな立場の人を招いた。このシリーズに限らず、記者会見の回数は増えた。多くは震災がテーマだった。

    ■クラブの役割を再確認
    日本中の記者が未曽有の大事件報道に取り組んでいる時に、日本記者クラブも関わりたい。会見の設備が整い会員社の記者も集まりやすいのに、傍観しているだけでは、悔いが残る、という気持ちもあった。
    ありがたかったのは、どのゲストも話す内容を綿密に用意し、それぞれのテーマを熱心に語り、質問をはぐらかすことなく丁寧に説明してくれたことだ。全国に発信できる場として日本記者クラブを信頼し、会見の時間を大切に生かそうとしている。クラブというジャーナリズム組織が日本社会で果たす役割がまだまだある、と励みになった。
    クラブはフル回転となった。1日に2回、3回の会見をこなし、同じ時間帯で二つの会見を並行して開いた。会員に案内を出した翌日の会見も続出した。それまで、案内を出してから1週間か2週間あとに会見を行い、回数もせいぜい2、3日に1回、というのが「伝統」だった。危機に臨んで前例踏襲は破れる。2011年度の会見や試写会も含めたプレス行事は216回と急増した。

    ■会報、取材団もフル回転
    毎月のクラブ会報を作る会報委員会も3.11に取り組んだ。大震災と東電福島原発事故を全国の記者がどう報道したのかを、記録に残そうとした。発災直後の写真特集(2011年4月号)、OBの科学記者による原発報道座談会(2011年6月号)、被災地4紙編集局長の座談会「闘う地元紙」(2011年7月号)などの大型企画はいま読んでも大事な証言だ。4年、5年たち東京の新聞やテレビから震災のニュースが次第に消えても、会報は「被災地通信」のページを絶やさなかった。
    被災地や福島原発へ取材団を何回も派遣した。全国紙やキー局なら記者も行けるし、東電や取材先もそれなりに便宜を図ってくれそうだ。だが、全国各地の記者にとって出張取材できる機会はそれほどない。現場を歩いて自分の目で確かめる手助けになれば、と企画した。

    記者会見などプレス行事が年間200回を上回る「フル稼働」はいまも続く。「ジャーナリズムの反対語はマンネリズムだ」という。日本記者クラブが日本の報道を活気づけ、引っ張っていくことを願う。

    (なかい・よしのり)

  • 質問力を育てる場に

    質問力を育てる場に

    専務理事・事務局長 土生修一

    会見ゲストの多様化、会見数の増加、会見以外の活動強化~直近10年間の日本記者クラブの活動の特徴として、この3つをあげたい。

    まずゲストの多様化。「訪日外国要人を迎えるメディア自前の会見施設」が当クラブ創立の大きな目的だったが、その後、ゲスト枠はニュースの当事者や解説者に拡がり、多様化がますます進んでいる。
    例えば、2018年度の会見出席者数順位は、1位「シリアで人質になり解放されたジャーナリスト安田純平さん」、2位「危険タックルで問題となった日大アメフト選手」、3位「サッカー日本代表監督を解任されたハリルホジッチさん」だった。創立当時には考えられなかった顔ぶれだ。

    次に会見数の増加。創立1年目の会見件数は52回、70年代半ばから100件台になり、2011年の東日本大震災を契機に200件台が常態化した。クラブ主催のプレス向け行事(記者会見、昼食会、記者ゼミ、取材団)のこれまでの最高件数は2015年度の252回となっている。
    これからも質量とも「ニュースの発信基地」としての機能を果たしていきたい。

    会見以外の活動も知ってもらいたい。最近では現役記者を対象にした研修に手ごたえを感じている。2013年度に始まった「記者ゼミ」は、各社の第一線記者たちにベテラン記者やメディア専門家が社の壁を越え、取材の心構えからノウハウまでを伝授する実践講座。各社の横断組織である当クラブならではの事業だ。テーマはIT活用法から調査報道、経済取材まで、年間テーマを決めほぼ毎月、実施している。「ゼミ」終了後も参加者有志で「自主ゼミ」として継続しているものもある。また、毎年夏の「記者研修会」も全国各地から100人前後の中堅、若手記者が参加している。
    今や「分断の時代」と言われるが、当クラブは「記者」職を連帯の絆に、各社の記者が社の壁を越えて協力し切磋琢磨できる場所であり続けたい。
    連帯といえば、当クラブには記者経験者からなる800人以上の個人会員がいる。複数の競争会社の社員たちが定年後に一緒に所属するクラブなんて、他の業種では考えられない。これも「記者」稼業の連帯感あってこそ。個人会員は現役記者と一緒に会見に出席し、質問もできる。記者経験者の皆さん、もう一度、記者に戻りませんか。
      
    当クラブは、「発信基地」とともに、「歴史の証言者」としての顔もある。半世紀の歴史で、おそらく会見数は5000回を超えている。創立当初からの録音、録画データが膨大に蓄積されている。鄧小平、ゴルバチョフ、サッチャーなど大物会見の録音は、音声アーカイブで公開している。2009年から始めた会見録画も、原則無編集でYouTubeを通じ無料公開している。さらに今回、当クラブの10年ごとの記念誌もPDF化して、ホームページにアップした。先行き不透明な時代こそ、「温故」が羅針盤になる。積極的に活用していただきたい。

    最後に課題をあげてみたい。
    ネット時代になり、会見場からパソコンで直接、原稿や発言メモを編集局に送れるようになった。この影響で会見中、パソコン作業に集中している記者が目立つ。これでは、ゲストをうならせる鋭い質問を考える余裕はない。
    プロの記者集団とニュースの当事者との「真剣勝負」のなかから、ニュースの核心に迫る言葉が飛び出し、それが大きく報道される。どうすれば、そんなワクワクするライブ感ある会見をたくさん実現できるのか。これは大きな課題だ。記者同士が質問力を競う報道文化が当クラブの会見を通じて育っていけば、とも夢想している。
    会見が持つ「ナマの魅力」をこれからも伝えていきたい。

    (はぶ・しゅういち)

  • 党首討論が映すリーダーの姿
  • 「普通の国」の発信拠点として
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    党首討論が映すリーダーの姿

    読売新聞特別編集委員 橋本五郎

    企画委員として21年にわたって、国政選挙や政党の代表選挙を前にした討論に代表質問者として参加しました。代表質問にあたって一番心がけたことは、国民がもっとも疑問に思っていることをズバリ、厳しく聞かなければならないということです。ただその場合、言葉はあくまでも丁寧で品よく、そして少々のユーモアがあればと思ってきました。

    実際に丁々発止のやり取りができたかどうかについては疑問なしとしませんが、私にとって記憶に残るものはいくつもあります。安倍首相が外務省出身の田中均さんをフェイスブックで批判したことをめぐってのやり取りはこんな具合でした(2013年7月、参院選)。

    橋本 安倍さん、大宰相になろうとしたら、人から批判されたからといって、いちいち反論するのではなく、もっと大きな政治、沈潜された哲学に基づいて国民に訴えることが大切なのではないですか。老婆心ながら、まずこのことについてお伺いします。

    安倍 橋本さんからのお言葉ですから、しっかり胸に刻んでいきたいと思います。ただ、私は私事で反論したことは1回もありません。国の根幹に関わるような政策で間違っていたら間違っていると言うのは政治家としての義務だと思ってきました。橋本さんがおっしゃったように、総理大臣としてそんなことに神経を集中するよりも、もっと大きなことを考えながらやっていくべきだなあというのは、まさにおっしゃる通りだと思ったところでございます。

    あれから随分月日が経っていますが、人が変わるのはなかなか難しいものだということを実感しています。

    自民党総裁選で福田康夫さんと麻生太郎さんが争ったときです(07年9月)。世論調査では圧倒的に福田さんが優位でした。そこで麻生さんに聞きました。「麻生さんの支持率は福田さんの半分です。女性の支持はさらに低くなります。なぜだかわかりますか」。麻生さんは憤然として答えました。「それじゃなんですか。私が女性にもてないということですか!」

    参院選挙を前に9人の党首が並んだときのことです(16年6月)。真ん中に安倍さんがいて、生活の党と山本太郎となかまたち代表の小沢一郎さんは端っこでした。とっさに聞きました。「小沢さん、隔世の感があります。あの小沢さんが端っことは。どうしてそんなに零落してしまったのですか」。小沢さんはムッとした表情で答えました。「零落などしていません!!」

    共産党の志位委員長にはどうしても聞かなければならないことがありました。共産党は自衛隊違憲論を唱えている唯一の政党です。違憲ということはこの世に存在してはいけないということです。ならば東日本大震災や御嶽山の噴火などで自衛隊が救出に向かうとき、なぜ共産党は「行ってはいけません」と阻止しないのか。私にとって極めて本質的な疑問でした。志位さんの答えは簡単に言うと、違憲論は変わらないが、国民が認めている間は認めていいというものでした(16年6月、参院選)。いまや天皇制についても当面容認論になっています。なし崩しに変わったようにも思われるのです。

    自分が年をとったせいかもしれませんが、福田赳夫、大平正芳、中曽根康弘らの記者会見などには、時に哲学的な匂いもあったとしみじみ思います。しかし、リーダーの小粒化を嘆くのも一方的かもしれません。私たち記者側がどれだけ核心を衝いた聞き方をしているのか、そのためにどれだけ爪を研いでいるのかも問われていることを忘れてはいけないからです。

    (はしもと・ごろう)

  • 「普通の国」の発信拠点として

    「普通の国」の発信拠点として

    元南ドイツ新聞特派員・日本記者クラブ功労会員 ゲプハルト・ヒールシャー
     
    日本記者クラブの会員になったのは1979年でした。来日して2年間フリードリヒ・エーベルト財団の東京事務所に勤めた後、フリーの記者になり20社ほどのメディアに記事を書いていましたが、1971年に南ドイツ新聞の記者になりました。2001年に退職するまで30年、日本のほか朝鮮半島と台湾を担当して政治、労働問題をテーマに取材してきました。こんなに長い勤務経験者は他にはいませんね。

    当時は日本語が話せる記者はサム・ジェームソンさん(ロサンゼルス・タイムズ特派員・故人)くらいで、ほとんどいませんでした。欧米の記者が「日本は変な国」と言うのは、日本語ができないからです。現地の言葉を、書けないまでも読んだり聞いたりできることは、取材するうえで絶対に必要です。英語圏にいる特派員が英語が分からないなんて考えられないのと同じです。

    そのジェームソンさんが日本外国特派員協会の会長だったとき、私は副会長として記者クラブ制度についての交渉役と人事担当を務めました。田中首相の時代でしたが、官邸クラブと交渉してお正月の首相会見に入れてもらうことができました。クラブのメンバーになるのではなく、通訳はつけないで日本語だけという条件でした。その後、宮内庁などにも同じアプローチをして、入れてもらえることになりました。日本記者クラブの会員になったのも、そういった取材範囲を広げていった延長線上にあったと思います。また、日本記者クラブができて、海外のスピーカーが外国特派員協会でなく日本記者クラブで会見をするようになったのも会員になった理由のひとつでした。

    日本記者クラブでは、合計12年間、企画委員を務めさせてもらいました。たくさん記者会見の司会をしましたし、総選挙での党首討論会や、自民党、民主党などの代表選討論会でも代表質問団に入れてもらいました。中でも、コール独首相の会見(1996年11月1日)では、同席する予定のスポークスマンが勝手にメインテーブルの席順を決めようとしたので、「それはクラブ側が決めることだ」と言って司会の私が首相の隣に座りました。どうやら自分が首相の隣に座りたかったようでしたね。私は独社民党支持でしたのでコール首相の政治的志向とは違っていましたが、やはり司会を務められたのは光栄なことでした。司会をしたわけではありませんが、東ドイツのホーネッカー国家評議会議長(1981年5月28日)も印象に残っています。私の生まれた東プロイセンは、戦後ロシアとポーランドの領土になったのですが、あの頃東ドイツのリーダーの話を聞くことができたのは貴重な経験でした。

    最後に司会をしたのは、昭和天皇についての著作が話題になっていたハーバート・ビックス一橋大学教授の会見(2001年3月19日)でした。会見では質問が途切れなくて、私の判断で時間を延ばして、1時間半の予定が結局倍以上になってしまいました。

    30年に渡る特派員時代の資料が仕事部屋いっぱいにありました。日本記者クラブの会報もすべて取ってあったのですが、処分してしまいました。2トントラックで3台になりました。今は、残した資料をまとめるためにコンピューターに入れているところです。そのうち本にしたいと思っています。

    日本記者クラブは私に対して好意的に、普通に接してくれました。企画委員を務めることができたのも光栄でしたが、そのうえ2001年には功労会員にまでしてもらいました。日本記者クラブは、マスメディアが世界に向けて「日本は普通の国だ」というメッセージを発信するうえで重要な役割を果たしてきたと思います。その活動をぜひ今後も続けてください。(談)

    (Gebhard Hielscher)

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    プロが選ぶベストプロ

    日本記者クラブは毎年、報道・評論活動などを通じて顕著な業績をあげ、ジャーナリズムの信用と権威を高めた日本記者クラブ会員および法人会員社に属するジャーナリスト個人に日本記者クラブ賞を贈っている。同賞はスクープ賞ではなく、特に最近数年間の業績が顕著であることが重視される。1972年に日本新聞学会(現・日本マス・コミュニケーション学会)の元会長、千葉雄次郎氏が自著『知る権利』の出版を記念してクラブへ贈った寄託金を基金として創設された。

    毎年、1月末の締め切りで会員から受賞候補を募集し、日本記者クラブ賞推薦委員会、同選考委員会を経て理事会が受賞者を決定している。毎年、5月に開かれる定時社員総会の後に贈賞式が行われ、受賞者には賞状と記念品が贈られる。また後日、会員を対象にした「日本記者クラブ賞受賞記念講演会」を開き、受賞者に講演をしてもらっているが、これは一般の方々にも公開している。

    1974年に朝刊コラムが評価されて松浦直治氏(長崎新聞社論説室顧問)が受賞して以来、2019年に長期にわたる優れた政治報道が評価された芹川洋一氏(日本経済新聞社論説フェロー)に贈られるまで、54人が受賞している。

    日本記者クラブ賞の創設40年に当たる2012年度には、より開かれた賞をめざして「特別賞」が新設された。記者クラブ賞と同様に、ジャーナリズムの向上と発展につながる特筆すべき業績や活動を顕彰するものだが、授賞の対象は原則としてクラブ会員以外の内外のジャーナリストや、団体・組織などのジャーナリズム活動とし、日本記者クラブ賞と区別している。

    2012年に福島第一原子力発電所の水素爆発をいち早く報道した福島中央テレビ報道制作局と、東日本大震災で新聞の印刷ができなくなり、手書きの壁新聞で情報を伝えた石巻日日新聞社が受賞してから、2019年に主に戦争をテーマに良質のドキュメンタリーを制作してきたディレクター・金本麻理子氏と、東日本大震災で多数の児童が犠牲になった宮城県・大川小学校の悲劇を、長期間の徹底した聞き取り取材によって執筆した『津波の霊たち』などが評価されたザ・タイムズ東京支局長のリチャード・ロイド・パリー氏が受賞するまで10件の受賞者が出ている。

    (写真=2019年度日本記者クラブ賞贈賞式。左からロイド・パリー氏、芹川氏、金本氏)

  • 忘れえぬ2つの会見
  • 回り始めた「土曜記者ゼミ」の輪
  • 年初行事 毎年華やかに
  • 忘れえぬ2つの会見

    忘れえぬ2つの会見

    サイマル・インターナショナル顧問・会議通訳者 長井鞠子

    通訳者にとって、日本記者クラブでの会見の通訳業務は最も厳しい、難しい仕事の一つである。日本の記者達に、自分はこんな考えでやって来たのだ、と本人が語ることは、すなわち、その人の思考・業績が日本でどう日本人に伝わるか、そのものでもあり、通訳者の責任は重大である。

    私にとって最初の記者会見は誰のだったのか、全く忘却の彼方であるが、きっと、緊張しまくっていたに違いない。今回、50周年記念に拙文を掲載するにあたり、思い起こしてみたい。私にとって思い出深い会見はどれだったろうか、と。

    二つ思いつく。
    パレスチナ自治政府のアラファト議長の会見(1989年10月4日)と『昭和天皇(原題:Hirohito and the making of modern Japan)』という本を書いてピューリッツァー賞を受賞した一橋大学のハーバート・ビックス教授の会見(2001年3月19日)である。

    アラファト議長の会見は一回だけではなく、何年かにわたり複数回あったと記憶しているが、一度は、戦闘の雰囲気を漲らせた警護の人が二人、きっと上着の中に拳銃を忍ばせているに違いない、という感じで議長の後ろに立ち、ということは逐次通訳で隣に座る私の後ろでもあり、なんとも不気味というかムズムズする感覚を覚えたものだ。最後に通訳した時は、特に警護の人はいなかったが、議長の英語の発音が所々不明で、ん? なんて言った?的な所が多々あり、隣に座ってはいるものの、私はさらに彼ににじり寄り、聞き取りに集中しようとした。

    「パレスチナ、イスラエル、米国はこの問題の解決のために何をすべきか」みたいな質問が出て、答えとして彼の発言した言葉が「@#〆※?&※々?」。えっ!? ナニ! サポリョーン、みたいに聞こえたけど、なんて言った?

    にじり寄っている私は彼の手元のメモの文字が読めた! Sanpo Ichiryou Zon,と! 三方一両損だ! 彼は続けて、日本の古典落語の噺になぞらえて、パレスチナ、イスラエル、米国がそれぞれ一両損をするつもりであれば、解決は可能だろう、と。彼のメモが読めていなかったら私は絶句したに違いない。

    この経験以来、私は事情が許す限り、イケメンであろうとそうでなかろうと、逐次通訳の時は出来る限り、話者にすり寄るようにしているのだ!

    もう一つの忘れ得ぬ会見。
    歴史学者として、昭和天皇の研究、就中、戦後の退位の可能性を含めて戦中戦後の天皇について著した大著『昭和天皇』の著者として会見に臨んだビックス教授の通訳である。今に比べ、もっと戦争と昭和天皇について語られることの少なかった当時、相当の関心を呼んだ会見であった。その内容について論評する立場にはないが、覚えているのは、戦前の天皇制に関する言葉の訳に苦労した事。統帥権、御名御璽、内奏、枢密院、輔弼…。ご本人は英語だから、こういう日本語が最初に出ては来ないが、彼が使う英語の歴史用語をキチンとした天皇制用語にしないとカッコ悪いと思い、通常の会見では、単語を調べて臨むにしてもせいぜい十語位だろうが、この時の準備は幾つ調べてもキリがなく大変だった。もう一つの記憶は会見が延びに延びた事。普通、会見は60分から90分であるのに、この日は多分3時間超になったはず。質問が途切れない! 米国人学者の分析が面白かった、という事もあろうが、日本人の記者達にとって、公の場で、真正面から昭和天皇の事を議論する機会はあまりないのかなぁ、と思ったものだ。

    今でも記者クラブの通訳は緊張するが、時代の波頭にいる様々な人物の謦咳に接する事ができるのは通訳者としての役得だ、冥利に尽きる、と有り難く思っている。

    (ながい・まりこ)

  • 回り始めた「土曜記者ゼミ」の輪

    回り始めた「土曜記者ゼミ」の輪

    土曜記者ゼミコーディネーター 橋場義之
     
    「こんな贅沢、ありですかー!」 日本記者クラブの2つの土曜記者ゼミ「調査報道編」「IT編」。受講後、多くの記者たちがこんな感想を漏らす。それもそのはず。どちらの講座も、社内の先輩や同僚からすら簡単には教えてもらえないノウハウを、講師の現役記者が、競争相手である他社の記者に惜しげもなく教えるのだから。

    なぜか。今のままでは日本のジャーナリズムを担ってきた新聞社・放送局は生き残れない、記者もまた生き延びられない―そんな共通の危機意識があるからだ。実際、大学生を始め多くの若者は新聞を読まない、テレビを見ない。彼らの手にする情報ツールはスマホが圧倒的だ。既存マスコミへの不信感も根強い。そんな彼らにどんなニュースを、どう表現していけば“刺さ”り、信頼を取り戻せるのか―。「ノウハウは共有、勝負はその先で。そうすればジャーナリズムの質の向上につながる」という同じ思いのベテラン記者たちが、所属社の垣根を超えて、ボランティアで2つの講座のプログラム作りに参加してくれている。

    現役記者を対象に開催している土曜記者ゼミは、毎年テーマを変えて行っている通常の記者ゼミの発展形として生まれた。通常の記者ゼミは平日開催で、日常業務に追われる一線記者が出席するには負担は大きい。仕事から一応解放される土曜の午後なら参加しやすいだろう。講師陣も、通常は外部の著名人や専門家が主だが、土曜記者ゼミは、在京・地方を問わず、優れた実践や技能を身につけた同じ記者たち、が特徴だ。社を超えたクラブならではの仲間意識・連帯感が芽生え、両講座とも毎回30~40人の受講生で熱気が溢れる。できたつながりから自社の研修会の講師に招くなど、交流の輪も広がっている。

    例えば、調査報道編。講師陣は、優れたスクープで知られる記者たち。顔を見たこともなく、挨拶して質問することさえ叶わなかった“憧れの記者”たちでもある。そんな講師が自分の調査報道の経験を元に、ネタの入手方法やきっかけの掴み方、裏付け取材のテクニックまでを“種明かし”してくれる。毎年受講生の顔ぶれは入れ替わる。受講した記者が、学んだノウハウを現場で実践して独自のニュースをものにすると、今度は自分が講師となって自分の経験を紹介する。受講生が講師に、その受講生がまた…好循環が生まれてきた。

    IT編は少し様子が違う。プログラム作りと講師は必ずしも著名な記者たちではない。ITは近年のテクノロジーだけに、各社とも専門家はまだまだ少ない。技術者や大学でITを学んだ若者の入社も限られている。社内教育も遅れている―そんな各社事情の中、ITに興味を持って自ら勉強を積み重ねてきた記者たちが集まってくれた。

    プログラムは、「すぐに取材に役立つツール」「エクセルを使いこなす」などの入門編から「データ分析」「データのビジュアライゼーション」など。統計などデータのデジタル化が進んだとはいえ、取材現場でのデータの取り扱いはまだまだアナログ流作法がまかり通っている。普段使っているパソコンにあるソフトはもちろん、最新のツールも紹介して、いかにデジタル・スタイルに慣れ、使いこなすかが目標だ。データを扱う際のセキュリティーも大事だ。時には先端を行く外部講師も招くが、講師陣は海外の研修大会に自ら参加して講義に反映させている。ITの教科書は溢れるほどあるが、手にとって勉強する時間はないし、民間の勉強会の参加料は数十万円もかかる。土曜記者ゼミはそれをわかりやすく、無料で教えてくれる。

    多くの記者にとってITはなじみが薄いし、敷居も高そうだ。だが、講師の教える手順に沿って最後の実行キーを打てば、データがグラフ化できる、データをプロットした地図が浮かび上がる、ツイッター上のつぶやきがどんどん自動的に集まってくる。「できたー!」。そんな歓声が毎回のように一斉に上がる。

    (はしば・よしゆき)

  • 年初行事 毎年華やかに

    年初行事 毎年華やかに

    年初の恒例行事となっている新年互礼会員懇親会は1972年、まだクラブルームが帝国ホテル東館にあった時代に始まった。第1回目の参加者は130名で、「通常、会見への参加を目的にクラブに集まる記者たちも、この夜はゆっくり歓談を交わし、和やかな正月ムードだった」と当時の日本記者クラブ会報は書いている。

    76年夏にクラブルームが現在の日本プレスセンタービルに移転してからは、クラブ宴会場(現・会見場)、10階ホールを会場に開催されるようになった。各国の駐日大使や政治家、前年に登壇したクラブゲストを招くのも特色で、300人近くが集まる大新年会になることもしばしばだったという。

    会員各社から景品提供の協力を受け、開始当初から2012年まで行われていた福引も目玉イベントのひとつ。記者の必須道具・ICレコーダーや万年筆などにまじって、帝国ホテルのペア食事券や羽毛布団、コシヒカリ10キロといった家族が喜びそうなプレゼントも多く、会場は大いに盛り上がった。開催日に東京で22センチの積雪を記録した年(84年)や、湾岸戦争の開戦と重なった(91年)ことなどもあったが、現在に至るまで毎年開かれ、参加者同士の交流を深める場となっている。

    新年互礼会とあわせて注目されるのが「予想アンケート」である。1年間に起きる出来事にまつわる10の問題(過去には12問の年も)を企画委員会が考案して年頭に発表、1月末を締め切りに会員からの投票を募り、翌年の互礼会で最高得点者を表彰している。ちなみに2019年の問題は――

    (1)12月31日現在のわが国の首相は誰か
    (2)衆参同日選挙が実施(される・されない)
    (3)新元号に使われると思う漢字を一文字だけ書いてください
    (4)日経平均株価の終値が18,000円を割る日が(ある・ない)
    (5)消費税の引き上げが予定通り10月に(行われる・行われない)
    (6)日朝首脳会談が開催(される・されない)
    (7)米下院がトランプ大統領の弾劾訴追を(する・しない)
    (8)将棋の藤井聡太七段が8大タイトルのいずれかを獲得(する・しない)
     ※8大タイトルは竜王、名人、王位、王座、棋王、王将、棋聖、叡王を指す
    (9)ラグビーワールドカップで、日本代表が決勝トーナメントに進出(する・しない)
    (10)陸上男子100メートルで日本記録(9秒98)が更新(される・されない)

    最高得点者に贈られる表彰状は「優秀なジャーナリストの資格のひとつは『先を見通す能力』にあります しかし未来が容易に予見できないのもまた事実であります」との書き出しで、その先見の明をたたえている。「年末時点での首相」は毎年恒例の問題だが、過去47年のアンケートで正答率が最も低かったのは93年の「1993年12月1日現在、わが国の総理の座にいるのは誰か」で(答えは細川護熙さん)、投票者490人のうち正解を書いたのはなんと2人。正答率0.4%は現在もなお塗り替えられていない記録である。

    予想アンケートの生みの親で自らも最高得点者となった元企画委員長の堀田一郎さん(元中日新聞常務取締役)が、75年のクラブ会報に寄せたエピソードを一部引いてみる。

    年末も押し詰まるなか、新年企画をどうするかと頭を悩ませていたときのこと。激動の時代だから来年がどうなるかなんて誰にもわからない。わからないからこそ、網かなにかで来年を捕まえ固定して、来年がどうなるかを予想する座興をやってみたら面白いのではないか――。

    堀田さんは続けて、予想アンケートが「これから発展し、全問正解者が現れ、米英ソなど外国の記者クラブと共通のアンケートで予測しあうこと」「日本記者クラブの『新年を平和でよい年と願う善意、事件に立ち向かう挑戦の意欲、幅の広いヤジ馬根性、チラッと光る専門的な眼力』などのシンボルとして2社面1段くらいのニュースになること」の2つが夢だとしたためている。

    全問正解者はその後少しずつ現れはじめ、読売新聞の「よみうり寸評」でアンケートが取り上げられるなど「ニュースになること」の夢も叶った。残すは姉妹クラブとの予想大会のみだが、はたして。