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9・11から15年 今思うこと(谷村 啓)2016年2月

昨年11月にパリで発生した同時テロは言うまでもなく、世界各地で頻繁に起きる悲惨なテロのニュースに接するたびに、15年前の「9・11 アメリカ同時多発テロ」を強烈に思い出す。

 

1999年にNHKアメリカ総局長としてニューヨークに赴任し、20世紀後半に最強となったアメリカの最後の輝きを見たのだった。しかし、大統領選の混乱の直後に幕を開けた21世紀は、2001年9月11日の同時多発テロをきっかけに、アメリカが急速に輝きを失う時期でもあった。

 

9・11からイラク開戦までの1年半、限られた態勢で、無我夢中でニュース取材、番組制作、日本への放送に明け暮れた。あの日、あの時、目の前の事象、出来事に翻弄され、立ち止まって考える余裕もなく仕事をしたという充足感の半面、もっと広く、深く、長い目で取材、制作ができなかったかという不完全燃焼感は今も消えない。思い出すままに記す。

 

◆何が人の生死を分けるのか

 

WTC(ワールドトレードセンター)には北館と南館の2本の高層ビルがあった。9月11日午前8時46分、テロリストの最初の飛行機が北館に突っ込み、火災が起きた。

 

南館にあった富士銀行ニューヨーク支店では、支店長以下みんなで避難しようということになり、エレベーターでいったん、下へ降りた。途中のエレベーター乗り換えホールで、館内スピーカーから「北館は火災ですが、南館は大丈夫です」というアナウンスがあった。そこで、どうしようかとなった時、アメリカ人行員たちは「北館の火災はテロに間違いない。私たちはこのまま降ります」と言った。

 

支店長はじめ日本人行員12人は「オフィスに戻って、東京に連絡をして、鍵を掛けてくる。皆さんは、このまま降りてください」と言って、そこで上下に別れた。支店長たちが、オフィスに戻った直後に2機目が突っ込み、大変残念なことに12人は犠牲になった。1機目突入からわずか17分後の午前9時3分だった。

 

なぜ、支店長たちはオフィスに戻ったのか? 私たちの取材に対してアメリカ人の部長は「8年前に同じWTCの地下で起きた爆破テロを身をもって覚えているので、とっさに今度もテロだと確信した。それに、情報がない中、館内放送で流れた〝南館は大丈夫〟というアナウンスが、支店長たちの判断を狂わせたのかもしれない」と話してくれた。

 

◆飛行機を降りた乗客がいた

 

9月11日の早朝、ボストンの投資銀行のディーラーが、出張のためボストン空港のロサンゼルス行きアメリカン航空11便の待合所にいた。そこで彼は、異常に興奮した5人のアラブの若者が、肩を叩き合ったり大声で喋っているのを見て、強い違和感を感じた。やがて搭乗時間になり機内に乗り込むと、それまであれほど騒いでいた5人が、とても深刻な顔して通路際の席にバラバラに座っていた。それを見た瞬間、彼は踵を返して飛行機から降りてしまった。

 

それから1時間余りたった頃、彼が乗るはずだった飛行機がニューヨークのWTCに突っ込んだというニュースが空港にも流れた。「どうして自分だけ飛行機を降りてしまったのか。なぜ、周りの人や関係者に、おかしいということを伝えなかったのか」と強い自責の念にかられたという。後日、このディーラーに取材を試みたが、直接、彼の口から話を聞くことはできなかった。

 

話は変わるが、災害や事件、事故に際してのテレビインタビューは、相手の映像と音声が不可欠なだけに難しい取材になる。その意味で、東日本大震災の後、NHKが放送を続けている被災者の証言を集めた「あの日 わたしは」は、後世に教訓を伝える貴重な番組の積み重ねだと思う。

 

◆揺れるアメリカ社会の実相 どこまで伝えられたか

 

9・11の後、アメリカの世論は戦争に大きく振り子が振れた。歴史上初めてアメリカ本土が攻撃されたとの思い。9・11の1カ月後にアフガニスタンでの戦争が始まり、家々はもちろん、車でもどこでも星条旗がはためき、人々は集まれば「ゴッド・ブレス・アメリカ」を歌い、「ユナイテッド・ウィ・スタンド」のスローガンを掲げた。郊外の住宅街では星条旗と共に黄色いリボンを付ける家も少なくなかった。予備役編入で、昨日までオフィスで一緒だった仲間が兵役に就くことも珍しくなかった。

 

突然、戦時下の日々の感があった。加えて、不可解な「炭疽菌事件」やニューヨークのケネディ空港近くで起きたアメリカン航空の原因不明の墜落事故。こうしたことが醸成するアメリカ社会の、またいつテロがという不安な空気や気持ちが、振り子を大きく振ったと思う。

 

その一方で、戦争反対の動きはあったし、9・11の犠牲者の家族のグループが取り組んだ戦争に反対する動きもニュースにし、番組にもした。しかし、今思うと、9・11の後、アメリカ社会の振り子の振れ方を現象、事象、局面では伝えたものの、なぜそこまで振れるのか、背景にあるアメリカ社会の空気や人々の気持ち、問われた問題を、日本の視聴者に十分伝えることができたかどうか。

 

今、複雑化と混乱を極める中東問題やIS問題、ヨーロッパでの難民問題等々を見るとき、あるいは現在進行形のアメリカ大統領選を見るとき、民族対立、宗教対立、人種問題が希薄な日本、難民受け入れがごくわずかな日本を基準に問題を捉えることは難しい。

 

だからこそ海外からの報道は、起きた事件や現象面だけでなく、その背景にある、国、地域、社会、人々の空気や暮らし、歴史、文化までを日本の読者、視聴者に伝えることが報道の使命だとあらためて思う。

 

◆アメリカ主導のイラク開戦と国連

 

アフガニスタンでの戦争が始まってからちょうど1年後の2002年10月、アメリカはイラク査察の安保理決議を出した。意外にもイラクは査察を受け入れたが、結局、大量破壊兵器は見つからなかった。にもかかわらずアメリカは、イラクには大量破壊兵器が存在すると主張(後に、これは全くの虚偽の情報に米英がだまされたことが判明し大問題になる)。最終的に2003年3月に米英は、安保理の承認が得られないまま、有志連合の形で、一方的にイラク開戦に踏み切った。

 

ここに至る3カ月余り、国連安保理では、イラク攻撃急先鋒の米、英、それにスペイン(非常任理事国)と反対派のフランス、ロシア、それにドイツ(非常任理事国)が鋭く対立。間に挟まれたチリ、メキシコなど中間派の非常任理事国は、賛成派から激しく腕を引っ張られたが、反対の姿勢を崩さなかった。

 

当時、ニューヨークのフォード財団で研究生活を送っていた緒方貞子氏は「国連にもアメリカ一国支配から脱却しようという変化が起き、近い将来、国連が変わるかもしれない」と話した。だが、今日に至るまで安保理改革の動きは、国連ミレニアム総会の頃の盛り上がりはなく、イラク攻撃を主導したアメリカは、泥沼の戦争にはまり、アメリカ一強の自信は崩れたとはいえ、国連は依然、米、露、中の一国主義に左右されている。

 

今年、5年ぶりに非常任理事国になった日本は、集団的自衛権=日米同盟強化に振り子が振れているように見える中、集団的安全保障=国連による平和維持や地球規模の問題解決のための多国間の枠組みを強化する方向に振り子を戻す取り組みも求められているのではないか。

 

最後に思い出したことをひとつ。あの日、2001年9月11日は、国連本部で秋の国連総会を前に、恒例の「平和の鐘(日本が寄贈したもの)」をつくセレモニーが午前中、予定されていて、私は取材でちょうどアパートを出る時だった。

 

たにむら・すすむ
1971年NHK入局 報道局経済部記者 ロンドン特派員などを経て 99年アメリカ総局長 その後 米法人テレビジャパン社長 (公財)放送文化基金専務理事 現在(株)エミュース・インターナショナル顧問

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