取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
”帝王”カラヤンは ファルコンになって舞い戻る(富永 壮彦)2008年8月
「カラヤンさんはナチ党員だったと聞いています。党員番号を教えていただけませんか」
1960年代の初め、カラヤンがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を率い何度目かの来日をしたときの記者会見である。
会場は一瞬静まりかえり、カラヤンの表情は厳しくなった。「ナチ」のひとことが聞きとれないわけがない。通訳が戸惑い、司会者が引き取った。
「質問は音楽に関することに限らせていただきます」
●天は二物を与えず?
あのとき、アメリカでの嫌な思い出が、カラヤンの脳裏をよぎったのではあるまいか。
1955年、カラヤンはベルリン・フィルを率いてアメリカ・デビューをした。ニューヨーク・カーネギーホールでの演奏会。カラヤンがステージに現れるや、客席から「ゴー・ホーム・ナチ野郎!」の声が飛んだが、カラヤンは予定通り二度のコンサートを指揮して帰国した。
カラヤンがナチに入党したのは1935年、ドイツ北西部の古都アーヘンの音楽総監督になったときだった。市長に呼び出され、就任の条件としてナチ入党を示されてのことだった。
1946年には、ナチ協力の嫌疑がかけられ、非ナチ化の手続きが終わっていないこともあって、指揮活動禁止処分にあっている。処分は半年ぐらいで解けたが、ザルツブルク音楽祭から招待があり行ってみると、ほかの指揮者がモーツァルトの「フィガロの結婚」とリヒャルト・シュトラウスの「ばらの騎士」を指揮することになっており、カラヤンにはステージの床下のプロンプター・ボックスから歌手にサインを送る役しか残されていなかった。
のちにこの音楽祭も“支配”するようになった“帝王”カラヤンも、このような扱いを受けた時期があったのである。
さきの記者会見は、その後穏やかに進行した。今後期待できる若手指揮者は、との問いに「メータ、オザワ(小澤征爾)、アバド」と答えるなど、カラヤンは、何事もなかったかのように応答していた。
この会見で、私はカラヤンの声を初めて聞いた。あの、完全につくり上げられた、優雅ともいえるステージからは想像もできないようなしわがれ声だった。天は二物を与えずか。ヘルベルト・フォン・カラヤンの名をもらい、わが家のヒマラヤ杉に住みついている特別声の悪いカラスに「ヘルベルト」と名をつけた。
●来日11回“帝王”ブーム
カラヤンが初めて来日したのは1954年。単独でやって来てNHK交響楽団を指揮した。このときを含め計11回来日している。私は、初めての頃の、颯爽とした、まだ目をつむって指揮することのないカラヤンに好感をもっていた。
1956年にベルリン・フィルと来日したときには、札幌から福岡まで全国各地で公演した。その模様をNHKテレビが繰り返し放送した。日本でのカラヤン人気が急上昇しピークへ向かったのは、あの頃であったろう。カラヤンは、それまでクラシック音楽を聴いたことのない家庭の茶の間にまで入ってきた。
あるおばあちゃんの話がある。テレビの前に座っているおばあちゃんが、かたわらの孫に言う。
「あれがカラヤンていうおじさんだよ。あの人を見習いなさい。目が見えないのに、こんなにたくさんの楽隊さんを、棒一本で操っているでしょ」
茶の間だけではない。夜、酒場をのぞくと、割り箸をタクトに、目をつむってカラヤンの真似をする酔客を見かけた。
レコード店では、飛び込んできた男が「カラヤンのレコードください」。店員が「カラヤンが指揮したなんという曲をお求めですか」と聞くと、「えーと…」と言葉に詰まってしまう。こんな光景があちこちであったと聞いた。
ともかくテレビの視聴率は上がり、レコードは売れた。LP、CDを含めカラヤンの演奏したディスクは、生前だけでも世界で一億枚は売れたといわれる。そのうち日本で売れたのは、どのくらいであろうか。
●7回も録音した「悲愴」
カラヤンはかつて、こう言ったことがある。
「コンサートに来る人は、たかが数千人ぐらいに過ぎない。私は、全世界の何十億もの聴衆を相手にしているのだ」
自らオーディオ、ビデオのプロダクションを経営し、録音、録画に精出したカラヤンの自負であろう。そこには、クラシック音楽の大衆化への意気込みが感じられると同時に、“商業主義”ともいわれた商売熱心さもみえる。そういえば、CDを「上着のポケットに入るような大きさで」と発案したのもカラヤンであった。
録音への並々ならぬ意欲ということで、思い当たることがある。
カラヤンは、ベルリン・フィルのほかにウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、フィルハーモニア管弦楽団などを指揮して、1939年から1984年までの間に、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」を7回も録音している。
音楽記者は、せっせとコンサートに通わなければならないが、ディスクを聴くのも欠かせない仕事である。私も、朝晩の自宅にいる時間を使って、LP、CDを含め月に100枚は聴くという生活を何年も続けた。そんななかで、同じ演奏家による同じ曲に何度も出会えば、またかという気持ちにもなる。
カラヤンは手抜きをしない。念には念を入れて同じ作品を繰り返し録音している。しかし、細部にこだわり、念入りに仕上げ過ぎることは、中身が虚しくなる危険につながることだと知ったのは、カラヤンの「悲愴」との出会いによってであった。
●マリア・カラスの最晩年
カラヤンの11回の来日公演を次々と聴きながら、並行して私はさまざまな音楽体験をした。忘れ難いもののひとつが、カラヤンがベルリン・フィルと6度目の来日をした1973年、名ソプラノ、マリア・カラスが、テノールのジョゼッペ・ディ・ステファノとともに来日し、横浜で開いたリサイタルである。これがただ一度の来日で、カラスは4年後に亡くなった。
すでに声には期待できない状態だったが、カラスが県民ホールのそでから優雅このうえなく歩み出したとたん、満場の聴衆の目と心が、その歩みに吸い込まれた。自然に、美しく流れるときのなかで、私はカラスを聴くのではなく、見ていた。見るのではなく、感じていた。沈黙のあとに、快く重いものが残る。これが本物のスターの最晩年だと思った。
●霊魂再来説を信じる
一方カラヤンは1975年、9時間におよぶ椎間板の手術を生き抜いたが、もうあまり時間がないことを悟ったような発言をするようになっていった。
「いまの私は、私の生涯があと何年かで終わるであろうことを知っている。私は少しも死を恐れない。言うまでもなく、私は霊魂再来説を信じている」
「私は、ファルコン(タカ、ハヤブサ)になってこの世に舞い戻って来るという説に、なんら異議をとなえるつもりはない」
1989年の、ややあっけないとも言える死のあと、カラヤンは何度かファルコンになって、この世に舞い戻ってきている。
一度は1995年、カラヤンの演奏からアダージョの部分を集めたオムニバス盤CD「アダージョ・カラヤン」の爆発的売れ行きとカラヤン再発見の動き。
もう一度は今年、生誕100年に合わせて起きている再評価である。カラヤンはこれからも、ファルコンになって舞い戻るだろう。
とみなが・たけひこ会員 1933年生まれ 58年共同通信社入社 90年退社 大半を文化部で音楽を担当し 現在も音楽評論家として活躍 音楽記者歴は50年を数える