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「書生」の話 人情家の話 人事の話(川北 隆雄)2015年10月

私は入社11年目に東京本社(東京新聞)経済部記者になった。以来、同デスク、編集委員、論説委員と、立場は違っても、経済記者として過ごした。その過程での、いくつかのエピソードを紹介しよう。

 

◆今里邸で「書生」を見た

 

1985年のこと。経済問題で最大の話題だったのは、電電公社(現NTT)の民営化である。通産省(現経産省)の担当だった私は、電電民営化を取材するために、監督官庁である郵政省(現総務省)を受け持つことになった。

 

当時の郵政記者クラブは、私にとって「ワンダーランド」だった。まず某社に、当時83歳の昭和天皇の「ご学友」と噂された老記者がいた。足取りはおぼつかなかったものの、頭はしっかりされていた。また、新聞社の縦割りでは、経済部は少数派で、主体は社会部か政治部、そのほかいわゆる「波取り記者」がいた。波取りとは、「電波を取る」で、つまり、郵政省からテレビ局設立の割り当てを獲得することを意味する。

 

新聞、通信社とNHKの記者はクラブの正規メンバーだが、民放各社は同省の監督下にあるということで正規メンバーではなく、「出入り業者」の扱いだった。窓もない物置のような部屋をあてがわれ、取材にも不便を来していた。このため、ある民放テレビの記者は系列の新聞社に出向した形でクラブの正規メンバーになり、情報収集に励んでいた。

 

電電民営化を取材するために私が定めたターゲットは、「財界官房長官」の異名を取っていた今里広記日本精工相談役だった。今里さんは、政財界での顔の広さやまとめ役としての手腕、電気通信審議会初代会長の見識を買われて、NTT設立委員会委員長を務めていたのだ。私は同年3月中はほぼ毎夜、渋谷区松濤の今里邸を訪れた。敷地1000坪(3300平米)の超豪邸だった。今里さんに狙いを定めたのは各社も同じで、郵政省担当の経済部記者が顔を突き合わせることになった。

 

ただ、各社横並びの「夜討ち」取材であり、老練な今里さんの口からは、これといった情報は取れず、NTT関連のニュースは別ルートに頼らざるを得なかった。

 

それでも、今里さんに今でも強烈な印象を抱いているのは、そこで「書生」を目の当たりにしたからである。今里邸で各社の記者が集まると、本人が銀座辺りから帰ってくるまで、客間に通してくれる。そこへ、絣の着物に袴姿の青年がお茶や菓子を運んできてくれたのだ。立ち居振る舞いがピタッと決まっていた。まさに「書生」そのものだった。書生は、その時点でも過去の遺物で、映画やテレビドラマでしかお目にかかれないと思っていたので、明治時代にタイムスリップしたようだった。

 

今里さんは「郷里(長崎県)の若者で、見どころがあるのを選んで、行儀作法を教えながら、学校にやらしているんだ」と話していた。さすがに明治生まれの財界人だった。

 

同年4月、NTTが発足すると、記者団が今里さんを食事会に招いて慰労することになった。しかし、実現することはなかった。5月末、NTT誕生を見届けるように、今里さんが亡くなったからである。77歳、やや若死にだった。われわれの「夜討ち」攻勢が死期を早めたのでなければ、と、合掌するばかりだった。

 

◆ガンちゃん「幻の一勝負」

 

私はその後、大蔵省(現財務省)の記者クラブである財政研究会に移った。財政を取材してみると、「予算は国家の骨格である」という格言の意味がよく分かった。

 

88年のことである。同省は前年に売上税導入に失敗したばかりだというのに、今度は消費税の導入を目指していた。79年に失敗した「一般消費税(仮称)」から数えて3度目の大型付加価値税への挑戦である。

 

ただ、税の具体的で細かい点まで詰めるのは、同省ではなく、自民党税制調査会である。当時は山中貞則元通産相が会長で、「党税調のドン」として権勢を振るっていた。その下で、党税調幹部として実務を仕切っていたのが、山下元利元防衛庁長官だった。山下さんは田中派分裂の結果、わずか5人の二階堂グループに属していたのだが、大蔵省で主税局税制一課長などを務めた知識・経験を買われていた。

 

党税調が同年4月に、「新型間接税」(消費税)を翌年に導入することを決めてから、7月にその内容を具体化した消費税法案などを決定するまでが、短いようで長い消費税取材合戦だった。私は南青山の山下邸に日参した。税は経済問題であるとともに政治マターでもあるから、各社とも政治、経済両部の記者が来ていた。山下さんの家人が料理やビール、ウイスキーの水割りなどを出してくれた。琵琶湖の名物、鮒ずしを振る舞われたこともある。山下さんの選挙区である滋賀県の支持者が送ってくれたのだそうだ。

 

連日、大勢の記者が詰めかけるので、特ダネ情報はつかめない。しかし、ある土曜日の夜、山下邸を訪ねたら、たまたま他には1人もいなかった。そこで、消費税の非課税分野についての情報を教えてもらい、もちろん記事にした。

 

しかし、それよりも強く印象に残っているのは、その際、山下さんが漏らした「この土地を売れば15億円にはなるそうだ。それで、もう一勝負できますな」という言葉だった。常に柔和だった「ガンちゃん」の双眸は一瞬、黒ぶち眼鏡の奥から強い光を放った。かつて「田中派のプリンス」とうたわれながら、派閥分裂で少数グループに転落したため断たれた総理・総裁の夢を、まだあきらめていなかったのかもしれない。

 

私は心中秘かに山下さんの「一勝負」を楽しみにしていた。しかし、山下さんの夢が叶うことはなく、政治の師・田中角栄元首相の死の3カ月後、94年3月、後を追うように亡くなった。享年73。家が貧しいため旧制中学を中退し、専検(後の大検、現高認に相当)を経て一高、東大を卒業した「苦労人エリート」の山下さんは人情家で、世間から批判されていた元首相に対する恩義を忘れず、最後まで慕っていたようだ。

 

消費税に話を戻せば、88年12月に消費税法は成立、翌年4月から施行された。

 

◆「影の官房長」の情報力

 

大蔵省がらみでは、もう1つ記憶に残ることがある。人事取材に目覚めたことだ。

 

それまでにもいくつかの官庁を担当したが、人事取材にはあまり熱心ではなかった。官庁取材で大事なのは、人事ではなく政策だという意識からだった。毎年5月の連休明け辺りに各社が経済面に2、3回連載する「霞が関人事予測」(現在はどの社もやっていない)の記事も、関係者以外の多くの読者は関心を持たないことも、理由だった。

 

しかし、大蔵省で半ば惰性で人事取材をしていたら、やたら人事情報に強い課長級のX氏に行き当たった。「影の官房長」と自称するX氏は、目の前で関係者に電話をかけまくり、事務次官から国税庁長官、財務官、各局長などの人事情報をあっという間に集めて、ジグソーパズルの全ピースを埋めたのだ。しかも、1ルートだけではなく、ダブルチェック、トリプルチェックで……。どの官庁にも自称人事通はいるものだが、X氏は特別だった。

 

その情報を持って各局、各課を回ると、課長や企画官、課長補佐ら中堅幹部は興味津々で話し相手になった。直ちに彼らから見返りの情報を得られたわけではないものの、彼らの私に対する態度が違ってきた。一目置くようになったのである。役人は人事が全てだから、人事情報には格別の興味があるのだ。

 

それ以降、私は人事取材に力を入れるようになった。

 

X氏は同期のトップクラスで、事務次官候補の1人といわれていたが、トラブルに巻き込まれ、退官せざるを得なくなった。人事情報だけではなく、財政の面でも非常に才能のある人だったのだが……。

 

かわきた・たかお
1948年生まれ 72年中日新聞入社 経済部 同デスク 編集委員 論説委員などを経て 2013年退社 その間 政府税制調査会専門委員を務める 現在 専修大学経済学部非常勤講師
 著書に『「失敗」の経済政策史』『財界の正体』『日本国はいくら借金できるのか?』『経済論戦』など多数

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