2025年06月04日 14:00 〜 15:30 10階ホール
「戦後80年を問う」(9) 但木敬一・元検事総長

会見メモ

元検事総長の但木敬一さんは前半後半の2部に分け話を進めた。

前半では但木家という「一庶民が日米にどう関係しているのか」。1868年の戊辰戦争により仙台藩の出の但木家は家禄を没収された。祖父は米国・ハワイに活路を求め移住。その長男である父と、弟の叔父は、ともにハワイで生まれながら日米で分かれて育ち、太平洋戦争により「兄弟が互いに敵国として相打つ状況になった」。

後半では、検事を志すに至った経緯と、日米構造協議から外国弁護士導入論議を経て司法制度改革に至った流れを説明した。作家の司馬遼太郎が『この国のかたち』に記した言葉を引用しながら「日本で根本的な変革ができるのは、外国に変革を迫られたとき」と述べ、「司法が本当に変わったのは外弁法。法曹三者が話し合う土俵ができた」。

質疑応答で、検察をどう変えればいいのかを問われた但木さんは「検察は軍隊組織ではない。一気呵成に変えることは難しい。方向性を示し、皆が自分なりのやり方で追い求めることでしかできない」。取り調べはどうあるべきかとの質問には「あらゆる事件に共通する取り調べの仕方というのは難しい」と述べるにとどめた。

 

司会 井田香奈子 日本記者クラブ企画委員(朝日新聞社)


会見リポート

「外圧ないと変わらない国」

竹田 昌弘 (共同通信社編集委員兼論説委員)

 「戦後80年を問う」だから検察の戦後史が語られるかと思いきや、戊辰戦争で「負け組」となった先祖が斬首され、祖父はハワイへ渡った話から始まったので、戸惑った人は多かったに違いない。筆者を含めてたくさんの記者をけむに巻いた、かつての姿を彷彿させた。

 長男の父だけ11歳のとき、ハワイから帰国。但木さんは1943年に巣鴨で生まれ、母の実家を頼って疎開した川越で戦後も暮らした。将来は医師や自衛官を考えたが、目や身長の問題で難しく、無辜の民を救う弁護士を目指した。しかし、司法試験合格後の修習で実際の刑事弁護を見ると、そんなことはおいそれとできないことが分かり、「無実の人を起訴しない検事」になったという。

 広島地検などに勤務後、法務省司法法制調査部(現司法法制部)へ。日米構造協議で非関税障壁と言われた「弁護士」について米国と交渉し、一定の条件を満たす外国人弁護士に法律事務の一部を認める制度(87年施行)の導入を担った。この制度は長年対立してきた法曹三者(最高裁、法務省・検察庁、日弁連)が話し合って物事を進める前例となり、その経験が2000年代に法曹三者が協力して取り組む司法制度改革につながった。

 「外国の圧力がないと、この国は抜本的に変わらない。敗戦であっという間に山の中まで民主主義国になったでしょう」。日米に分かれた但木家から始まった「戦後80年」で言いたかったのはこれだった。

 質問は①取り調べをはじめ問題が相次ぐ検察の在り方②人質司法③黒川検事長の定年延長問題―など。言葉を選びながら①軍隊ではないので、個々の検察官が一つの方向性を追求していくしかない②人質司法はやめた方がいいが、検察官には真実を解明する義務もある③法務官僚のときも「検察官の独立」が付いて回り、それに反することは許されない―と答えていた。


ゲスト / Guest

  • 但木敬一 / Keiichi TADAKI

    元検事総長

研究テーマ:戦後80年を問う

研究会回数:9

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