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米中国交樹立に賭けた近代化 日本は露払い役だった(松尾 好治)2013年12月

中国が文化大革命による混乱と破壊から立ち直り、近代化を目指す上で重大な転機になったのは1978年である。米中国交樹立がこの年12月16日に発表され、これを待っていたかのように同22日、中国共産党第11期三中全会で改革開放への大転換を決めたのだ。私は当時、共同通信北京支局長として歴史的なビッグニュースに立ち会った。


そのころ中国は、はた目にも気の毒なほど内外ともに極めて厳しい状況に置かれていた。イデオロギー最優先の文革派の影響力はなお根強く残り、経済は疲弊し、国民生活はどん底状態にあった。外を向けばソ連との対立関係が一層激化、中ソ国境には百万のソ連軍が展開し、中国は〝北極熊〟(中国人はソ連をそう形容していた)の威嚇におびえていた。


中国はぎりぎりの瀬戸際まで追い込まれ、国家存亡の危機と言っても決して大げさな表現ではなかった。ある高級幹部は「とにかく走らなければならない」と切迫した胸中を漏らしていた。


◆国交樹立近し―まで迫ったが


待ったなしの経済建設に専心できるようにするには、まず外からの脅威を取り除かなければならない。米中両国は対ソ戦略上、共通の利害関係に着目し、72年2月の上海コミュニケで両国関係正常化に向かうことで一致したが、一挙に国交を樹立するには双方とも難問があまりにも多く、日中関係の正常化が先行したのである。


日中国交正常化(72年9月29日)、これに続く日中平和友好条約締結(78年8月12日)は、中国の経済建設をバックアップするとともに、ソ連に対するけん制効果が生じ、アメリカとの国交樹立までの間をつなぐ露払いの役を演じたと言ってよい。日中平和友好条約の締結は、ホワイトハウスが戦略的観点から当時の福田首相の背中を強く押したことが決め手になった。いよいよ次の一手の番だ。


78年秋ごろから米中間の人事、経済交流が急進展し始めた。シュレシンジャー・エネルギー長官、バーグランド農務長官が相次いで訪中、米政府主導で交流の基礎固めをし、米金融界首脳、上院議員グループも中国とのパイプづくりに乗り出した。これらの動きが国交樹立の環境整備になることは明らかだった。


ところで、米中国交樹立の前に横たわる難問の解決のめどは付きつつあるのか。中国側の要求は米台間の国交断絶、米台条約の廃棄、在台米軍の撤退で、いずれも米議会内に根を張る台湾ロビーの抵抗を抑えるのは並大抵ではない。アメリカの内情に精通した日本の専門家は早くから「台湾不可侵の約束を中国から取りつけない限り、米国は国交樹立に踏み切れないだろう」と読んでいた。アメリカにしてみれば、台湾における既存権益は何としても保護する立場に変わりはない。中国側が果たして台湾を武力解放しないことをどこまで約束できるのか。国交樹立は相当先というのがなお大方の見方だった。


78年11月29日のことである。長年の願望だった日本訪問が10月に実現した鄧小平副首相は、訪中した竹入義勝公明党委員長と会見し、いきなりこう切り出した。「もう1つの願望はワシントンに行くことです。実現するかどうかは、米国次第です。かつて私は中日条約の締結は(決断しさえすれば)1秒間で済むと言った。中米問題は倍にしても2秒で済む」。さらに鄧副首相は、アメリカが既に米台相互防衛条約の廃棄を了承していることを明らかにしたのだ。


私は鄧小平発言から、米中交渉は煮詰まり、後はカーター米大統領の決断待ちの段階に達していると確信し、この日、鄧発言を紹介しつつ「米中正常化の時期はかなり近い将来、実現しそうな気配が感じられてきた」という原稿を本社に送った。


この原稿に対して翌々日、共同加盟社の1社から電話で「飛ばし過ぎでは」と詰問されたのだが、私は「当方の判断は絶対正しい。鄧さんは1月に訪米するかもしれないではないか」と反論した。北京の若い西側外交官の間にも国交樹立は案外早いのでは、という見方が生まれていた。


◆意表突いた電撃的発表


北京の米連絡事務所にも当たって感触を探ってみる必要があると思っていた矢先の12月16日朝7時(現地時間)ごろ東京本社から電話があり、日本時間午前11時にカーター大統領がテレビ生中継で会見し、重要発表する予定、米中問題、たぶん鄧小平副首相の訪米問題だろうとのうわさがワシントンで広がっているという。


あちこち関係先に電話しても確かなところは不明。8時20分ごろ駐北京日本記者団の幹事連絡で、9時45分、人民大会堂北門に集合してほしいとの外交部連絡を伝えてきた。担当者は「誰が会うかは行けば分かるだろう」と言っているとか。米中関係であることは間違いないが、国交樹立かどうかは分からない。


会見場の人民大会堂西大広間に着いてみると、やはり国交樹立という情報が伝わっていた。大方の意表を突いてそこまでいったのかというのがその時の実感だ。午前9時56分、華国鋒主席が黄華外相、章文晋外務次官を従えて拍手をしながら登場、内外記者団も儀礼上、起立して拍手しながら迎える。まず米中共同コミュニケ、次いで中国政府声明の順で華主席が強い山西なまりで読み上げ、79年1月1日を期してアメリカと外交関係を樹立することを発表した。台湾が中国の一部であることを強調した政府声明は、同時に鄧副首相がアメリカ政府の招請で1月に訪米することをうたっていた。


中国指導者の人民大会堂での内外記者会見は65年9月、中華民国臨時総統の李宗仁が帰国した際に陳毅外相が主宰した前例があるだけだ。短時間の質疑応答の後、会見は午前10時32分に終わり、息せき切って支局に戻り、支局員の辺見秀逸君(後の芥川賞受賞作家・辺見庸)と共に夕刊用、ほっと一息つく間もなく次は朝刊用の送稿、テレビ特別番組のカバーと大車輪の作業はまさに修羅場。


興奮したという自覚はなかったが、そうざらにはない世界的な大ニュースに遭遇したという、何となく締め付けられるような圧迫感を覚えたのは事実で、歴史の大きな流れを肌身で感じた1日ではあった。


北京支局として米中国交正常化は近いという線を強く出していたので、できればもう少し詰めておきたかったところだが、もう後の祭りである。


◆改革開放へのお膳立てそろう


驚いたことに、人民日報がこの日、米中国交樹立を報じた赤刷りの号外を発行した。それまでの中国では全く予想だにできなかったことである。中国がアメリカとの関係正常化をいかに重視し、近代化路線への転換をそれに賭けていたかが分かる。米中間では、中国は台湾を武力解放しないことで双方の暗黙の了解が成り立っていたとみてよい。


日中国交正常化に次ぐ米中国交樹立は、当時中国が脅威にさらされていたソ連の拡張主義に対する決定的な抑止力になり、中国としてほぼ安定した国際環境を整えることに成功した。こうして内外環境のお膳立てがおおよそ出そろったところで、中国はこのチャンスを逃すべからずとばかり改革開放へ踏み切った。改革開放には実は初めから、日本とアメリカが深く関わり合っていたのである。


*松尾会員の「改革開放の号砲」(会員ジャーナル 私の取材余話)はこちらからご覧いただけます。


まつお・よしはる

1935年生まれ 60年共同通信入社 経済部 日銀キャップ ワシントン特派員 北京支局長 経済部長 整理部長 論説副委員長 95年退社後 05年まで梅村学園松阪大学教授 現代中国論 マスコミ論を担当

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