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パリのサンテ刑務所(片貝 憲二)2012年3月

独房に「SAGAWA」の名札が…

1981年6月中旬、フランスを震撼させる殺人事件が発生した。パリ近郊、ブローニュの森の池のほとりでバラバラ死体の一部が発見されたのである。


旬日を経ずして一人の日本人留学生が事件の容疑者として逮捕された。パリ第3大学大学院に学ぶ佐川一政(さがわ・いっせい)元容疑者(当時32歳)である。


同じ大学に学ぶオランダ人女性、ルネ・ハルテヴェルトさん(25歳)を自分のアパートに招き、銃で殺害したのち屍姦し、あろうことか遺体を食べていたのである。


このニュースはパリ人肉事件として報道され、30年たった今でも人々の記憶に残されている。当時フランスは大統領選挙のさ中、ジスカールデスタンの保守政権に代わってミッテラン率いる社会党が50年ぶりに社会主義政権を樹立するのではないかと予想され、世情が湧きかえっていた。その熱気を吹き飛ばしたのが日本人留学生によるこの人肉事件であった。


●欲望のカニバリズム


佐川元容疑者は1949年4月26日に神戸市で生まれ、鎌倉の公立中、高校を経て和光大学人文学部を卒業、77年からパリに留学していた。父親は一部上場会社の社長である。超未熟児で誕生したため、成人してからも平均男性より二回りも小柄で肉体的なコンプレックスがあった。留学してからは白人女性に憧れる気持ちがひときわ強くなったようである。豊かな仕送りを受けていたので多くの娼婦をアパートに連れ込んでは「この女を食べたい」と妄想を抱いていた。


同級生のルネさんとは5月に知り合い、何度かドイツ語のレッスンを受けていたが、6月11日、彼女を高級住宅街といわれるパリ16区のアパートに招き惨劇を繰り広げたのである。捜査の過程で「どうしても白人女性の肉体を食べたかった。実際に食べてみたらとてもうまかった」と常識では考えられない供述をしていることが分かった。この自供からも分かる通り、彼におけるカニバリズム(食人主義)は飢餓という極限状態からくるものではなく、殺してでも食べたいという欲望そのものなのである。


大統領選挙も終わり、7月14日のパリ祭では恒例の軍事パレードが行われ、ミッテラン新大統領が初お目見えした。その2日後の16日、事件発生から1カ月経って、我々フジテレビパリ支局は彼が収監されているサンテ刑務所を取材した。同行した金井史雄カメラマンはこの年の4月、私と共にパリ特派員として赴任したばかり、フジのカメラマン歴20年のベテランである。それに支局助手でフランス語の達者な佐々木将君、さらに東京の小川宏ショーから事件の取材に乗り込んできた石光章ディレクターも加わった。


●フランスの司法制度を知りたい


サンテ刑務所はパリの下町14区にあり、1865年に建てられた古い刑務所である。「人肉事件の佐川を取材したい」といっても認められないことは百も承知なので、表向きは「フランスの司法制度と刑務所の実態」を取材したい、とダメもとで法務省に申請した。どういう風の吹き回しかこの申請が認められたのだ。


刑務所内はとにかく古くさくて暗かった。ネズミが走り回っていそうな雰囲気である。しかしながら刑務所側は日本のテレビ局にフランスの刑務所の実態をすべて取材させようと極めて丁寧に案内してくれた。一通り取材した後、案内役の看守長が我々をある独房の前に案内した。入り口の名札には「SAGAWA」と記されていた。


「君たちの本当の狙いはここなんだろう」と言って彼は片目をつぶった。いかにもフランス人らしい。独房の広さは畳にすると5畳程度。古びたベッドと小机、片隅にむき出しの便器、突きあたりに鉄格子のはまった窓があった。


驚いたことに壁には被害者のルネさんの大きな顔写真や事件を報じた新聞記事の切り抜きが所狭しと貼られていた。この写真と記事をどういう心理状態で見ていたのだろう。所側によれば獄中の彼はよく食べ、よく眠り、本を読む“殺人犯にしてはおとなしい囚人”だそうだ。しかし、看守長が見せてくれた1冊の大学ノート。そこには鉛筆画で多数の女性の裸体が綿密に描かれていた。乳房をはじめここにはとても書けない部分画だ。彼はどうも女体パラノイアらしい。


独房の取材が終わって中廊下に出たその時、看守長が「あれが佐川だ」と指さした。「だけど撮影はダメだぞ!」と看守長は念を押した。


ほの暗い廊下の向こうに看守に連れられた小男がいた。私が目配せをするまでもなく、金井カメラマンは手に提げたENGカメラのスイッチをひそかにONにしていた。完全な隠し撮りである。ピントも合わせられない。果たして映っているか!? 


右上の写真はその時の映像から取ったものである。やや焦点がぼけているが、小柄な体型がよく映し出されている。このスクープ映像は翌日、フジテレビから全国に放映された。


●帰国、マスコミの寵児に


この後、彼はフランスで精神鑑定を受けた結果、“心神喪失状態での犯行”と判断され、殺人の罪を問われることなく不起訴処分となった。この処分にルネさんの両親は猛烈に抗議をしたが、受け入れられなかった。そして84年、日本に帰国していったんは精神病院に入院したものの刑事責任を問われることなく自由の身となった。大手を振って日本国内を歩き始めたのだ。


さらに86年頃から驚くべき変貌を遂げる。マスコミで有名人になり、事件を含めた小説を多数出版し、テレビ番組やビデオにも数多く出演した。89年の宮崎勤事件以後はピークに達した。大金も手にしたようだ。


私と金井カメラマンは85年に一緒に帰国したが、その頃の彼をテレビなどで見かけるにつけ、一体この国はどうなっているのかと不思議でならなかった。このような残忍な人間が社会的制裁を受けることもなくマスコミをにぎわしているのはなぜか。自分がマスコミの世界にいながらどうしようもなく割り切れない印象が残ったものである。


しかしながら、21世紀に入るとさすがに命運も尽きてきたようだ。手厚い保護者であった両親が相次いで死去し、マスコミも相手にしなくなった。就活をしてもどこの会社も受け入れてくれない。一時は生活保護も受けるようになった。今は東京近郊でアパートの家賃滞納に追いまくられながらひっそりと暮らしている様子だ。60歳を過ぎて遅まきながら犯した罪にふさわしい制裁を受けていることは間違いない。



この原稿の最後に金井史雄カメラマンについて触れておきたい。金井氏とはパリ特派員の4年間、本当によく仕事をした。ニュースを追って二人でフランスとヨーロッパを駆け巡っていたと言っても過言ではない。両家共に家族も一緒に赴任したのだが「バカンスはパパ抜きで」といった状態がよく続いたものだ。金井カメラマンなくして私のパリ特派員生活は語れない。公私ともによく助けていただいたが、残念なことに彼は2010年11月、急性心不全により71歳でこの世を去った。心からご冥福を祈りたい。



かたがい けんじ 1939年生まれ 64年フジテレビ入社 81年パリ支局長 87年人事部長 局長 92年FCI・NY副社長 95年役員待遇国際局長 02年フジサンケイ人材センター代表取締役社長 現在同社相談役


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