ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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四半世紀前の中国(園田 矢)2011年8月

期待と節度のあったころ

北京に赴任したのが1986年8月。ちょうど四半世紀前のことになる。改革開放政策が動き出し、街の風景がモノクロームからカラーの時代に入りつつあった。社会の変化はそれ以上だった。


●北京晩報記者の取材をカメラに


ビキニ着用が解禁になった。女性ボディービル大会を前に当局が決断したのだ。中国の人たちは概して肉体の過度の露出を嫌う。だが、案に相違して、新聞論調はビキニ礼賛で埋まった。ビキニは「美を追求する天性の発露であり、古い封建思想への挑戦だ」というのである。


支局開設のため頻繁に出かけた上海では美容整形ブームだった。二重瞼が16元(当時の1元は約40円)、隆鼻術は25元という手ごろな値段が受けて専門病院は門前市をなしていた。共産党政権下では、顔を整形するのは京劇や映画の俳優だけというのが不文律だった。それを庶民が享受できるようになったのは、美の追求は人間の本性という「思想」の賜物だった。


われわれテレビメディアもそうした開放的な空気の恩恵にあずかった。取材拒否にあうことはまずなかった。庶民に一番人気のあった夕刊紙「北京晩報」も、快く取材に応じてくれた。


「いやぁ、おもしろいね」と総編集長の韓天雨はにこにこした。


「新聞記者を取材しようなんてことを考えた人間は中国にはいなかった。わたしは新しいことが好きだ。自由にやってくれ」


かれはその場で若い記者2人を呼びつけ、こう申し渡した。


「今日から君たちに日本のテレビクルーが張り付く。気にせずにいつも通りの取材活動を行え」


当時、記者の足はオートバイ。どんな狭い横丁にも猛スピードで突っ込んでいく。追いかけるだけで一苦労だったが、おかげで、北京で開店第1号の私営ダンスホールやドイツ式英才教育を導入した幼稚園といった「新生事物」に出会えた。新聞社の奥の院で睨みをきかす「検閲官」にもインタビューできた。


取材を終えた晩、若い記者たちと居酒屋で、街ダネこそジャーナリズムの原点だ、などと怪気炎をあげたのをいまでも懐かしく思い出す。さまざまな矛盾も噴き出し始めてはいたが、だれもが日々の変化を肯定しているように見えた。


●人民服で伝えた胡耀邦更迭


だが、それは長くは続かなかった。87年1月に共産党総書記の胡耀邦が失脚し、事態は改まった。その象徴が人民服姿のアナウンサーだった。胡耀邦更迭の政治局会議コミュニケを伝える中国中央テレビ(中央電視台)のアナウンサーが、テレビ画面ではすでに見かけなくなっていた人民服を着用したのだ。そのいきさつについて中央テレビの首脳はあっけらかんとこんな打ち明け話をした。


政治局のコミュニケは1月16日の夕刻に飛び込んできた。夜7時のメーンニュースの冒頭で伝えなければならない。この日のニュース担当は女性だったが、テレビ局の首脳は重要ニュースを男性に読ませることにした。「女性が天の半分を支える」という言葉はともかく、男性アナウンサーに非常呼集がかかった。だが、すでに退勤時間を過ぎ、局内にいたのは張宏民1人だけ。しかも、この日は出演の予定がなくセーター姿で出勤していた。背広を家に取りに戻る時間はない。やむなく他人の人民服を借用してのスタジオ入りとなった──。


多分、その通りだったのだろう。しかし、そのような話を鵜呑みにするほど中国の人びとは甘くない。会合や宴会に出てくる指導者たちの人民服着用が急増した。われわれ外国メディアへの対応がよそよそしくなった。取材活動にも支障が出た。奥地の長城取材が「軍事機密」を理由に突然断られた。厳冬のハルビン駅撮影も、その前日になって「冬はやはり撮影に適しない」という理由でキャンセルされた。


●昭和天皇死去報道に見えたもの


胡耀邦が解職され、「ブルジョワ自由化」が否定された以上、それに従う以外にない。人びとの変化への期待が消えることはなかったが、政治がまだ明確に機能している時代だった。それは、その2年後、昭和天皇崩御の際も変わることはなかった。


「日本の裕仁天皇は現地時間のけさ6時33分、皇居で病気のため死去した」


89年1月7日、10秒にも満たなかったが、北京放送は午前7時(日本時間同8時)の全国向けニュースの最終項目に崩御のフラッシュを突っ込んだ。朝のラジオのニュースは収録による再放送の繰り返しだが、この日は録音テープを止めて速報したのだ。


しかし、ラジオの異例の速報で始まった崩御の報道だったが、その後、急速に慎重さを強めていく。テレビの第一報は中央テレビの昼のニュース「午間新聞」。「発展する遼寧省経済」をトップに18項目が放送されたが、天皇崩御は最後から3番目。時間的にもわずか36秒で、「ワールドカップ・スキー」の45秒にも及ばなかった。


地味な扱いだけでなく、中国のメディアは天皇に関して判で押したような伝え方をした。


「かれの在位期間中に日本は中国侵略戦争と太平洋戦争を起こした」 テレビも新聞も、最後まで、天皇についてこれ以上の表現を用いることはなかった。戦争を起こした主語は日本だが、そうかと言って、天皇も関係がないわけではない──。この微妙な言いまわしは熟慮の結果だったろうし、むろん、メディアの側が考え出したものではなかった。


「国交正常化後、裕仁天皇は中国の指導者に対し、過去の不幸な歴史について反省の意を表明した」


中国外務省の出した談話も抑えた表現だった。中日友好協会会長の孫平化は、天皇の戦争責任に関する日本人記者の質問を、「いまはそのようなことを論ずる時ではない」とはねつけた。北京の日本大使館を政府代表として弔問したのは、国家主席や首相ではなく、筆頭副首相の姚依林だった。


友好国の象徴の死に対し、礼を失するようなことはしない。しかし、これまでの行きがかり上、満腔の哀悼の意を表するわけにもいかぬ。これが崩御に対する中国当局の対応だった。


●人々の期待も政治も節度も変化


中国における天皇のイメージの核心は、言うまでもなく、戦争との関わりである。日中友好21世紀委員会の中国側座長で知日派の張香山は、わたしのたっての質問に対し、天皇は過去の戦争について一定の責任を負うべきであった、しかし、これは過ぎ去ったことであり、日本は2度と他国に疑われるようなことをしないでほしい、と述べた。


言葉を選びながらの婉曲的な言い方ではあったが、これが共産党政権のこだわりであり、メディアに沈黙を強いた理由だった。良好な両国関係があってのことだったが、政治が機能し、その政治には節度があった、と言えるだろう。


それ以後の中国の変貌ぶりについては記すまでもないが、大国化の過程で失ったものは決して少なくない。そのひとつが人びとの期待感だろう。既得権益層と貧困層が固定化されてしまった状況のもとで、変革を求める80年代のあの高揚感はもはやない。


政治も節度を喪失してしまったように見える。尖閣諸島での漁船衝突事件をめぐる中国外交の激昂ぶりは常軌を逸していたし、劉暁波のノーベル平和賞受賞に対する異様な反発は国際社会を唖然とさせた。そこには節度のカケラも感じられない。大国としての威信はともかく、揺らぐ政治的正統性の問題や限界にきた情報統制など、背景にさまざまな事情があることは理解できる。しかし、取材者としては、将来への夢があり、政治に節度のあったころがやはり懐かしい。(文中敬称略)


そのだ・ただし 1942年生まれ65年日本放送協会入社 北京支局長 国際部長 「ニュース21」編集長兼アンカーマン アメリカ総局長などを務め99年退社 東海大学教授 宮城大学客員教授などを経て現在フリーランス

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