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日米の争いの谷間に傷つく 忘れえぬ“玉砕”の影にいた人々(鈴木 顕介)2011年2月

「あなたは戦争が終わって初めて会う日本人です」─過ぎし大戦で日本とアメリカは太平洋を土俵に激しい戦火を交えた。土俵にたまたまいたアリのように、踏みにじられ、忘れられた人がいる。日米の戦争に何のかかわりもない、そんな人へ思いをはせたことがあるだろうか。


太平洋の赤道に間近いマーシャル諸島のクェゼリン環礁。北のはずれをよぎるアリューシャン列島西端のアッツ島。ともに日本軍守備隊全滅の地である。訪れた二つの島での戦いに巻き込まれた人との、忘れえぬ出会いと語らいをお伝えしたい。


●35年ぶりの日本語


1979(昭和54)年11月、私はミクロネシアの島々を歩いていた。スペイン、ドイツ、日本、アメリカによる長い支配から独立する産みの苦しみのただ中。島々の昔と今を訪ね、人々の独立への思いを聞く新年企画の取材だった。


目的地の一つがマーシャル諸島クェゼリン環礁のイバイ島。世界最大の環礁は当時米軍の弾道ミサイル実験の着弾地点、入域許可に手間取りやっとたどり着いた。機密保持のため全環礁の住民をこの島に押し込め、基地労働力としていた。現金収入がほかの島人も引き寄せた。長さ1・5㌔、幅300㍍ほどの島に8千人が暮らす。南の島のイメージには程遠いスラムの島だった。


国連信託統治に「戦略的」を冠して、勝手に島を使うアメリカ統治の実態を探る。ビキニ水爆実験で死の灰を浴び、全島民が被曝したロンゲラップ島の生き残り住民に会う。島を訪ねたのは、告発が狙いだった。


ひしめく軒を分けるようにして、生存者がいるという一軒に案内された。6畳ほどの一間、壁に何枚かの写真が掲げてある。この家の主の妻がロンゲラップ出身、被曝犠牲者の親族の写真と見た。これはいい取材ができる─と思う間に奥から主人が現れた。


「あなたは戦争が終わって初めて会う日本人です」─巧みな日本語である。この島の争奪で日本軍守備隊がわずか4日の戦闘で全滅したのは1944(昭和19)年2月。日本とのつながりが切れてから35年もの月日が経っている。


第1次大戦後日本はミクロネシアの島々を、国際連盟委任統治領「南洋群島」として、事実上の植民地とした。皇民化の徹底を図り日本語を教えた。皇民化の優等生だったのでは。南洋の歴史が頭をかすめた。


ジョセフ・エベルさん(当時55)は、屈託なく久しぶりの日本語で話し続けた。ふと話を途切らせた。 


「これ見てください」。両手を差し出した。笑顔が消えていた。左人差し指が付け根から、右小指の第2関節から先がない。クェゼリンの戦闘の時エベルさんは日本軍作業員として島にいた。身を隠していた塹壕に手投げ弾が投げ込まれた。この傷のほかに弾片が3つ左大腿部に入ったままだという。


●神に預けた恨み


エベルさんはアメリカの基地となった島のPXで働き、課長にまでなった。歌の上手なエベルさんは島の歌舞団の団長でもあった。ほかの島々にも遠征する楽しい日々を語った。しかし、会う前の年の3月突然、足に激痛が走った。重いものが持てなくなった。体に残った弾片が動いて神経に触れたためらしい。働けない。仕事はやめざるを得なかった。


今の生活の支えは、アメリカ支給の食糧と、半年に一回入る米軍に接収された土地の地代8百㌦だけ。戦傷の補償を3千㌦アメリカに請求したら8百㌦をくれた。日米両国政府がミクロネシア協定で全域の戦争被害者の一括補償とした1千万㌦のお裾分けである。日本政府はそれですべてが終わったとする。


太平洋の島々では、植民地化と並んだ米英仏の布教でほとんどの人がクリスチャン。エベルさんも熱心な信者、教会の聖歌隊を指揮する。


部屋の壁の写真は死の灰を浴びて死んだ妻の父と2人の兄だった。その隣に賛美歌の歌詞を書いた大きな紙が張ってある。クリスマスも近い。今夜は聖歌隊の練習日だと言った。


村長さんが面倒を見てくれた雑貨屋の2階がその夜の宿、ベッドからエベルさんの開け放った家の中が丸見えである。疲れで床に就いた耳元に賛美歌の音が流れてくる。


「もう誰も恨みません。神様だけが知っています」。長い話の終わりにエベルさんが言った。すがすがしい歌声にこの言葉が重なる。いつまでもいつまでも眠りに落ちなかった。


なぜ戦場に残っていたのか。そこは突っ込んで聞かなかった。戦争が終わりすべてを知ったとき、エベルさんは何を考えただろうか。「日本は何もしてくれない。誰も助けてくれない」。話の途中で彼はつぶやいた。


日米の戦争の谷間で、日本の側にいたため本来何のかかわりもない戦いで傷ついた。その恨みは深い。どこにそれをぶつけるのか。苦悩の果てに行き着いたのが、すべてを神に預けた心の平和であった。


●強制連行で愛娘失う


アッツ島にいたアリュート女性パラスコビア・ライトさん(当時39)に会ったのは、これよりずっと前の1964(昭和39)年8月だった。


アッツ島を、戦後初の遺族慰霊調査団に同行して訪ねた。「玉砕」という美名を初めて使って、守備隊の全滅を伝えた激戦の地である。


海外取材予算が厳しい中、帰りに夏物企画「アリューシャン」の取材もとなった。連邦政府先住民局にアンカレッジで先住民アリュートに会いたいと頼んでおいた。これがパラスコビアさんとの出会い。英語ができる娘のヘレンが一緒だった。


「あなたは戦争が終わって初めて会う日本人です」─まず口を突いて出たのがこの言葉だった。驚きは島にアリュート村があり、そこにいた女性に会っただけではなかった。


日本軍は1942(昭和17)年6月に島を占領した。島にいたのは42人のアリュートと初老の白人夫婦だけだった。村は日本軍が最後に拠った島の北東チチャゴフ湾に面していた。米軍の猛攻で跡形もなく、訪れた私たちは知る由もなかった。


日本軍は8月末アッツの東で、同時に占領したキスカ島に一旦部隊を集結する。アッツ島を無人にするため、アリュートと白人の女性は、キスカ経由で北海道小樽に連行された。白人男性は占領した日に死を遂げていた。計画はすぐに変更され、別の部隊が10月末に再上陸、翌年5月の米軍侵攻を迎えた。


小樽に強制連行されたアリュートたちは、慣れない環境と結核の流行に食料の欠乏もあって、次々に亡くなった。戦争が終わった時25人が生き残っていた。パラスコビアさんは当時結婚したばかり、1歳にならない初子の娘もここで死んだ。解放されても彼らは帰島を許されなかった。米ソ冷戦で米軍は防衛上アリューシャン列島の西半分を無人としたからだ。彼女は先夫とは死別、再婚してアンカレッジにいたのだ。


戦争は村の仲間を奪い、故郷は永遠に消えた。日米からの補償は何もなかった。胸に秘めた悲しい記憶を一気に吐き出すように話は続いた。


「全ての日本人になりかわって、あなたの受けた痛みに心からお詫びします」。最後に私は彼女に頭を垂れた。


イバイ島のエベルさんにも同じ言葉を残した。



私は東京大空襲の猛炎を生き延び、黒い炭となり累々と横たわるむくろを見た。口にこそしないが恨みと憤りは消えずに心の奥深く残る。アメリカは10万人の無差別殺りくを罪としない。それだけに思いは一層強い。 


私には何の資格も、権限もない。だが、あの言葉なしに二人とは別れられなかった。


すずき・けんすけ会員 1931年生まれ 56年共同通信入社 ニューヨーク メキシコ ワシントン シドニー支局 編集局次長 秘書室長 社長室アジア太平洋通信社機構事務局長 東洋女子短期大学教授 日本大学国際関係学部講師

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