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ミャンマー軍政(清本 修身)2010年11月

パゴダと政治の大きなパラドックス 霧消したスー・チー女史との対話路線
ヒマラヤ山脈の雪解け水を運び、ミャンマーを南北に2000キロ以上にわたって縦断するイラワジ川は、昔も今も変わらぬこの国の経済の大動脈である。この国のほとんどの主要都市は、この川の沿岸に生まれ、数々の王朝の舞台ともなって、歴史の変転を目撃してきた。

このイラワジ川で、欧州を走るあの有名な豪華列車「オリエント・エクスプレス」を運営する英国の会社が、中部の古都マンダレーとパガンを結ぶ観光船を運航している。12年前、筆者はこの船旅を楽しんだことがある。ミャンマーはその以前のバンコク駐在時代に数回、取材訪問したことがあったが、この時ほどミャンマーという国を「体感」したことはない。

早朝、街を練り歩く赤茶色の衣をまとった托鉢僧の列。多くの市民は恭しく米飯や果物などのお布施をする。川の岸辺で水遊びする子どもたち、洗濯をする女性たち。どの光景も静謐さとゆったりとした時間の流れの中で繰り広げられる。

圧巻はパガンの仏教遺跡である。11─13世紀のパガン王朝時代に建造されたという寺院やパゴダ(仏塔)が数十キロ平方の荒涼とした大地に、2千以上立っている。その威容に目を奪われる。旧首都ヤンゴンにある、金箔と宝石で装飾された有名なシェダゴンパゴダにも決して劣らない華麗さである。

こうした街の風景はミャンマーのどこでも見られるのだから、この国の国民の敬虔な宗教心は誰の目にも明らかである。かつてこの国を訪問した英作家サマーセット・モームはその国民の篤い宗教心を「魂の暗闇に差し込む希望」と表現したが、過去50年近く事実上の軍政にあるこの国に政治の「明るい光」が差し込むのはいつになるのだろうか、と考え込んでしまう。

そんな思いを抱きながら、今月7日の二十年ぶりの総選挙を眺めているが、軍政は手綱を緩める意志はなさそうである。選挙は、アウン・サン・スー・チー女史率いる国民民主同盟(NLD)の圧勝に終わった1990年の総選挙以来のものだが、選挙のために制定された新憲法では、軍政の翼賛政党が有利になるように配慮され、軍人の特別枠議席も設けられるなど、軍政を恒久化しようとする気配が強い。民主化の光明はまったく見えない。

●対話調停役・高僧との出会い

国際社会の批判をよそに孤高の歩みを止めないのはなぜなのか。どうして軍政はそれほど政治支配に揺ぎない自信があるのか。──私はいつもこの謎解きに悩まされてきたが、近年、隣の大国・中国と友好関係を深めることによって大きな防護壁を築きあげたことや、仲間のASEAN(東南アジア諸国連合)の内政不干渉原則によっても圧力を避けてきたことが、最大の要因であると考えている。

それにしても、「その時、歴史は」風に考えて思い出すのは、やはり90年代半ば、一時的に盛り上がった軍政とスー・チー女史との対話ムードであり、なぜそれが最終的に失敗したかという疑問である。当時、軍政のナンバー3ながら最大の実力者とされた改革派のキン・ニュン第一書記(治安担当、後失脚)と単独会見(94年)したが、同氏は「彼女は決してわれわれの敵ではない。建国の父アウン・サンの娘であり、敬愛さえしている」と語った。この後、軍政とスー・チー女史の直接対話が数回続き、英国バーミンガム在住のミャンマー人高僧イェワタ師が調停役となって、翌年夏ごろには、彼女の全面的釈放まで事態は進展するかに見えた。

この時期、私は二度、師に会った。一度目は師が日本を訪問した時で、二度目はバーミンガムの師の自宅でだった。日本では、太平洋戦争中、反英闘争の指導者として、アウン・サンらいわゆる「30人の志士」の軍事訓練を計画した旧日本軍の「南機関」関係者で、横浜に住んでいたS老人の家に案内した。老人は当時すでに80歳代半ばで、病弱から言葉も自由でない状態だったが、一枚の写真を見せてくれた。写真にはこの老人とアウン・サン、幼いスー・チーさんが一緒に映っていた。師はそれを見ながら、スー・チー女史が元気であることを伝え、「対話を成功させたい」と静かに抱負を語っていた。

二度目は数カ月後、バーミンガムでの再会だったが、この時も対話の具体的な中身はほとんど明らかにせず、「スー・チー女史がもう少し柔軟にならなければ、軍政は決して妥協はしないだろう」とやや醒めた意見を述べていた。

●僧侶への銃弾の“お布施”

しかし、当時すでに女史の自宅軟禁が5年以上経っていたので、私は何らかの形で事態は打開すると内心確信していたのだが、その期待もあっけなく消えてしまった。私の“甘い期待”の一つの理由は、圧倒的な仏教国のこの国で、国民の信頼と敬愛を集める高僧の権威は、軍政も無視できないだろうと考えたからである。残念ながら、その後、軍政の反体制勢力への弾圧はむしろ強化されていった。

2007年の僧侶たちの一斉蜂起も軍の武力介入で封殺されてしまった。軍は僧侶の抗議デモに水平射撃をした。軍首脳の論理では、蜂起した僧侶たちは「仏教に有害な行動をとった破戒僧」ということになるのだろう。が、僧侶たちは軍から「銃弾のお布施」を受けたことになる。

仏教がこの国の政治文化の歴史に深く根を張っていることを考えれば、軍政はますます政治権力の大きなパラドックスに直面しているように見える。ただ、こうした観察もあまり有効でないのかも知れない。軍政はこれまでも反体制派の僧院、僧侶を徹底的に弾圧してきた。

軍政は社会の異端分子の摘発に厳しい監視の目を張り巡らせているが、これに関してバンコク駐在時代の現地取材で、やや驚いた体験がある。雇っていた現地人助手と一緒に、多くの失業者や浮浪者らしき人々も混じってにぎわうヤンゴン市内の市場を歩いていたら、一人の若者が近寄ってきた。浮浪者のように見えたが、私の助手に何やら語りかけてきた。「知り合いか?」と尋ねると、助手は「私が雇っている情報提供者です」と答え、「多くの失業者らは政府に雇われ、一日中、町のなかをぶらつき、不穏な動きを察知するため、市民たちのいろいろな話を聞き、政府にそれを報告しているのです。私も彼らから情報をとっている」と教えてくれた。まさか失業対策としてスパイもどきの仕事をあてがっているわけでもないのだろうが、軍政の抑圧体制はなかなかきめ細かな装置を組み込んでいる。

●オーウェル小説の寓意

今回の総選挙後も、経済の大幅な改善でもない限り、多くの国民の生活意識、社会の一般的ムードはあまり変わらないのかもしれない。こうした国民意識について考える際、個人的にいつも参考にしてきたのは、英植民地時代の1930年代に書かれた英作家ジョージ・オーウェルの小説『ビルマの日々』だ。この小説はオーウェルが植民地政府の警察官として過ごしたビルマでの生活体験を基にした彼の処女作だが、その中に、巧みな処世術で地方の治安判事補に出世し、汚職の限りを尽くし金持ちになった中年男と、従順で敬虔な妻との間で交わされるこんな会話が出てくる。
(妻)「あなたはもうたくさんの悪事をしてお金も十分できたでしょう。そろそろ功徳を積むため、何か喜捨でもしたらいかがですか」

(夫)「お前は何もわかっておらん。まだまだ先は長い。いつかパゴダでも建てりゃ、すべてが償われるんじゃろ」

この中年男の心境を軍政首脳のそれになぞらえるつもりは毛頭ないが、やや大胆に言えば、会話の寓意はどこか今日の政治状況を暗示しているようにも思える。パゴダは今も昔も変わらない国民意識の求心力の役割を果たしている。そういえば、軍政は数年前、ヤンゴンから内陸のネピドーに首都移転したが、そこでもシェダゴンパゴダに匹敵するような壮大なパゴダが建設されている。


 きよもと・おさみ会員 1942年生まれ 67年読売新聞入社 ベイルート リオデジャネイロ特派員 アジア総局長(バンコク)欧州総局長(ロンドン) 論説副委員長など 退社後 立命館大学教授 
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