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日中条約の回想(本田 来介)2010年10月

厳しかった取材競争 総裁選へ大・福の反目
日中平和友好条約の締結交渉が、その終盤を迎えようとしていた1978年4月初旬。読売政治部の野党クラブキャップをしていた私は、当時の渡邉恒雄政治部長から「抜かれたら即刻クビだからな」という“超激励”と共に、外務省クラブのキャップを命じられた。

前任者の部外転出に伴う突然の異動で、私はそれから4カ月間、歴史的な同条約交渉の取材に参加した。短期間ではあったが、私にとっては貴重な取材経験となった。そこで、厳しかった取材競争や交渉の裏側で見せた大平自民党幹事長と福田首相の反目などを中心に、当時を回想してみた。

日中条約の締結は、日中国交正常化以来6年越しの懸案であった。両国の取り組みが遅れたのは、日本では“田中金脈”以降の政局混乱、中国では文化大革命の後遺症という双方の国情のためである。

だが日本では、福田内閣2年目で、外相には「日中条約に政治生命をかける」と公言する園田直が就任。中国では華国鋒体制下で、“不死身の鄧小平”が副首相として三度目の政治的復活を果たしていた。機は熟していたのである。

しかし、国益がからむだけに交渉はすんなりとは運ばない。ソ連覇権主義反対を国是とする中国は、「反覇権」を日中条約にも盛り込むよう強く要求、「全方位外交」の福田内閣はこれを拒んでしばらくこう着状態となった。

もっとも、私が取材に参加した頃には、日本政府は条件付きで中国の要求をのもうとしていた。条件とは「この条約は第三国にむけられたものではない」という、いわゆる「第三国条項」の併記である。この問題は外相訪中の時点まで解決せず、条約最大の焦点となった。

■チームワークで勝つ

そのような状況下で、7月下旬、本格的な事務レベル交渉が北京で始まり、外相の北京行きも〈78・8・8〉と8が三つ重なる“吉日”と決まる。取材陣にとっては、まさに最後の勝負どころである。各社とも「あわよくば条約案の入手を!」と一斉に走り出した。読売勢も同様だ。

わが方の戦力は、私以下、サブキャップのA君、中堅のB君、一番若いC君の4人。個性派ぞろいである。だが、全員で取材して回るが、外務省のガードは固くなる一方で、私にも取材の展望が全く開けてこない。そのような時、若手の二人がひとつの提案をしてくれた。それは「条約案の読売私案といったものを作る。そして条文ごとに、取材情報によって修正を重ね、かぎりなく“本物”に近づけていってはどうか」というもの。私は「そんなにうまくいくのかな」という疑念を持ったが、“ワラをもつかむ”心境でその提案にのった。結果的にみると、これが窮地脱出の突破口になったような気がする。

そこで私案作り─。その時点では、条約案は「前文と全5条」からなると分かっていた。それで、これまで読売はじめ各社が報道してきた「日本案」や中国が近隣諸国と結んだ善隣友好条約などを参考に、どうにか作り上げた。

直ちに私案修正のための取材に移る。取材先も外務省以外に内閣官房や与野党の中国関係議員などまで幅を広げた。しかし当初は手ごたえなし。でも取材内容が極めて具体的だったためか、徐々に情報が集まり出す。こうして、少しずつではあったが、問題の少ない条文から、条約案らしきものが形作られていった。

そしていよいよ外相の訪中。私とB君がこれに同行、A、Cの両君は“受け班”だ。同行組は北京で、記者会見や送稿に追われながら、合間を縫って、交渉出席者へ条約案の取材。わずかの情報でも“受け班”へ知らせ、彼らはその確認に走る。毎日、その繰り返しであったが、我々のチームワークはうまく機能したようだ。それが紙面で実証される。

いよいよ調印という日の8月12日。朝刊1面で「日中条約の最終案文確定」という見出しのもとにその全文が掲載されたのだ。特報となった。新参キャップではあったが、後輩たちの頑張りと多くの支援のおかげで、好結果を残すことができ“クビ”も免れたのだった。

■「福田には結ばせない」

日中間でいよいよ交渉本格化か、と思われていた78年4月中旬、尖閣諸島の海域で、100隻を超す中国漁船群が領海侵犯を繰り返すという事件が発生、大騒ぎとなった。

自民党のタカ派議員らは「待ってました」とばかり日中条約締結反対を叫び、政府や党幹部を突き上げた。

事件は、中国政府が「偶発的なもの」と釈明、政府間では一応決着の形となった。しかし自民党内の不協和音はなかなか収まらない。読売の大平担当のD君から私に電話があったのは、ちょうどその頃だった。

「大平は『福田には日中条約を結ばせない。これはオレが政権をとってからやる仕事だ』と息巻いている。条約締結はできないのではないか」という内容だった。

それを聞いた時、私は「この時期になってなぜだ」と、大平の怒っている真意が理解できなかった。「大平という男、意外に腹が小さいな」と思ったぐらいである。

ところが、それから1年半後、無役となった園田直が、ある雑誌で〈福田政権成立(76年12月)の直前、福田と大平の間で「政権担当はまず福田、2年後に大平にバトンタッチ」という趣旨の密約が交わされていた〉と暴露したのだ。保利茂を立会人に、福田、大平両派の幹部として園田と鈴木善幸も同席したという。私はこの記事を読んで、大平の怒りの真意がやっとわかったのだった。

日中条約に反対していた議員たちのほとんどが福田派系統だった。だから大平も当初は「福田も容易には動けまい」と甘く見ていたフシがある。ところが福田は、ある時点から反対派を首相官邸に呼んだり、料亭で会食したりと、精力的に説得工作を開始した。

それを見た大平は「福田に密約破りの異心あり」と感じ取ったのだろう。「日中条約をやり遂げて、その成果を掲げ、半年後の総裁選(この年の11月)で再選を狙っているのだ」というわけだ。

事実、日中条約締結を果たした福田は、外交、経済の実績を背景に、再選出馬に踏み切る。しかし、この年初めて導入された総裁予備選で、福田は、田中派と連合を組んだ大平に敗れてしまう。そして福田は「天の声にも変な声が……」という有名なせりふを残して政権の座から去っていった。

かつて、自民党を担当していた私は「三木首相、退陣を決意─後継は福田氏の公算」と特報したことがあったが、当時、政権を私物化するような密約工作が進行しているとは、うかつにも気がつかなかった。

■中国発展、大きなテコに

後日談になるが、私が福島中央テレビに在職していた98年、日中条約締結20周年の節目を迎えた。そこで同社は地元の郡山商工会議所などと協力し、中国物産展や上海市貿易委員会・中日友好協会の代表数人を招いての「日中友好の夕べ」など、記念行事を催したことがある。

その際、私が20年前の外相同行の話をしたところ、団長の揚さんは笑顔を見せ「いま中国は、わが上海地区を先頭に、大発展の途上にありますが、中日条約の締結がその大きなテコの役割を果たしました」と語り、私も同感の意を示したことを覚えている。

同条約が締結された年の10月、鄧小平副首相が批准のため来日、昭和天皇と会見したのをはじめ、「偉大な日本人に多くを学びたい」と、新日鉄の製鉄所や松下(現パナソニック)の家電工場などを視察して回り、東海道新幹線にも乗った。帰国した鄧は、ほどなく政治の実権を握り、改革開放政策の大号令を発した。そして今年、中国はGDP比で日本を抜き、世界第2位の経済大国に躍り出るという。「いずれ米国も抜く」と中国人のハナ息は荒いとか。(文中敬称略)


ほんだ・らいすけ会員 1933年生まれ 60年読売新聞入社 政治部を経て世論調査部 政治部 解説部各部長 編集局次長 電波本部総務 テレビ信州専務 福島中央テレビ社長・会長 08年同社退社
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