ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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200カイリ時代 日ソ漁業交渉(白井 久也)2010年5月

暫定取り決め草案をスクープ
ソ連が1991年に崩壊してから、早くも20年近く経った。

今でもソ連を研究している学者などを除くと、多くの日本人にとって、ソ連という国はとっくの昔に忘れられた存在となってしまっているようで、今さら顧みられることはないのではあるまいか。だが、私にとってのソ連は、何よりも忘れ難い国である。「米ソ冷戦」華やかなりし頃の75年から79年の4年間、朝日新聞モスクワ支局長として、特派員生活を送ったことによる。

当時のソ連は、のちにゴルバチョフから、「停滞の時代」と揶揄された、「ブレジネフ時代」の末期であった。米国と軍事的な覇権を争ったソ連は、核戦力ではほぼ互角、通常戦力では米国をやや上回る「超大国」と言われていた。事実、見てくれは「重厚長大」の見本みたいな国で、大変立派であった。だが、その内情たるやお粗末極まりなかった。米国との長年の軍拡競争がたたって、国民経済は疲弊し、一般市民の生活は非常に貧しかった。

何か珍しい商品や、日頃、入手が難しい食料品や化粧品などの売り出しがあると、買い物客の長い行列ができた。町のレストランは店舗数が少ないため、店の前の路上は席待ちのお客でいつも溢れかえっていた。気温が零下10度、20度に下がる厳寒でも、ソ連名物の行列現象がなくなることはなかった。「ナポレオンやヒトラーが負けたのは当然だな」と、ロシア人の忍耐強さにはつくづく感心させられたものだった。

西側特派員のモスクワ在勤生活も、大変だった。社会主義国はどこでもそうだったが、その総本山・ソ連の情報統制と取材規制は、決して半端なものではなかった。

●モスクワに特ダネなし?

日ソ記者交換取り決めによる日本人特派員は、総勢20人。モスクワの都心から40キロ以遠に取材や旅行に出掛けるときは、48時間前にその目的、日程、使用する交通手段(自動車ならナンバー、飛行機や列車なら便名)、同行者の有無などを露文または英文でタイプして提出、ソ連外務省新聞部の許可を取らねばならなかった。もし行き先が外国人立ち入り禁止地域なら、事前に特別なビザ(査証)をもらう必要があった。

私は外国人特派員が一度も入ったことのない極北地方への取材許可を何回か求めたが、モスクワ在勤中、ビザはついに下りなかった。まだ、ソ連構成共和国だった独立前のバルト3国の取材許可が出て、喜び勇んだのも束の間。出発の前日になって、「外務省新聞部の者だ」と名乗る男から、突然、支局に電話がかかってきて、関連の一部地域の取材許可が取り消されてしまった。

記者クラブ制度が発達している西側諸国では、クラブの求めに応じて、大統領や首相や各省大臣の会見、政府関係者のブリーフィング(背景説明)、記事資料の配布など、様々な広報サービスがあった。だが、秘密主義が徹底していた社会主義国・ソ連にはもともと、そういう慣習はなく、重要情報源に対する「直接取材」は至難の業であった。

4年間のモスクワ在勤中、外務省新聞部がお膳立てしたソ連要人の内外記者会見は、グロムイコ外相とアリエフ党政治局員のたった2回しかなかった。もしブレジネフ書記長ら党・政府要人の政見を聞こうとすれば、国内の新聞・テレビ・ラジオなどが報じる党大会や最高会議での演説などを「間接取材」するほか、手はなかった。

このため、モスクワ在勤の外国人特派員の日常的な取材活動は、もっぱら支局で定期購読しているプラウダなどの新聞・雑誌、支局備え付けの電信受信機に、日夜配信されるタス通信やロイター通信などの記事、常時、つけっ放しにしているラジオ放送などに頼っていた。日本の新聞各紙に似たような「モスクワ特電」が載ったとすれば、もともと情報源は同じだから、「当然の結果」であった。こうしていつしか、「モスクワに特ダネなし」というジンクスが生まれた。本当か? ならば、試してみよう。それが、私の性分であった。その機会は、意外に早くやってきた。

●3カ月間の長期取材合戦

ソ連が1977年2月24日、突如、「自国の沿岸から200カイリを3月1日から、漁業専管水域とする」と、爆弾宣言の発表を行ったのだ。200カイリ宣言が適用される水域はベーリング海、チュクチュ海(ベーリング海峡の北)、日本海、太平洋、北極海、それにソ連領に属する島々の周辺海域であった。

だが、これらの海域の多くは、日本の北洋漁業の操業区域と重なった。ソ連の200カイリ宣言が実施されれば、自由な操業はできなくなる。その結果、北洋漁業は壊滅的な打撃が予想された。日本中が、大騒ぎになった。魚価も暴騰した。

本格的な「200カイリ時代」を迎えて、新しい日ソ漁業のあり方を決める日ソ漁業交渉が、途中の中断もはさんで、3月から6月まで延々3カ月間、モスクワで開かれた。長期協定締結まで時間がかかるため、暫定措置の取り決め交渉が先行した。

日本から鈴木善幸農相が訪ソ、イシコフ漁業相と直談判して、日ソ双方とも厳しい箝口令をしいた。このため、日ソ交渉の内容は「闇の中」であった。だからと言って、引き下がることはできない。私と同僚の新妻義輔記者は深夜密かに、鈴木農相の宿舎のホテルに夜回りをかけ、単独インタビューをものにした。農相は約1時間、質問に答えてくれた。

その内容は、「暫定措置は月内決着、主張はほぼ通した」と、日ソ漁業交渉の全容を初めて明らかにしたもので、77年3月2日付夕刊のトップを飾った。それまでひた隠しに隠されてきた日ソ漁業交渉の内幕を暴露するもので、日本国内に与えた衝撃は大きかった。すっぱ抜かれた他社のモスクワ特派員たちは、本社から大目玉を食らったようだった。

鈴木農相単独インタビューで、日ソ漁業交渉の成否の鍵を握る「暫定取り決め」交渉の決着が、案外に早いとの感触を得たわれわれは、その草案の全文スクープに、全力をあげた。日本側は、「これ以上マスコミにかき回されたら、日ソ交渉が駄目になる」と、けんもほろろな応対。「ならばソ連だ」と、突貫を試みた。

日頃、懇意にしているロシア人のある情報ルートに、草案を取ってきてくれるよう、拝み倒した。相手はなかなか、腹の据わった人物であった。「白井さんを男にしてあげましょう」と言って、約束を果たしてくれた。ロシア人は本当に仲良くなると、日本人以上に「浪花節」が通じる。これが実に、面白いところだ。

●5段ぶち抜き大見出しに“乾杯”

後日、東京本社から送られてきた朝日新聞(77年3月19日付朝刊)を手に取ると、本記は一面トップで、「日ソ漁業暫定取り決めの両政府案全容わかる」と5段ぶち抜きの大見出し。このほかに、「裁判管轄権触れず」「ソ連 操業許可証を発行」「スケトウ、規制から除外 日本」と大きな脇見出しが3本もついていた。暫定取り決め両国草案は、経済面を3分の1使って、その全文を収録する大盤振る舞いであった。こうして、200カイリ時代の日ソ漁業交渉の取材合戦は、朝日新聞の圧勝のうちに、進んでいったのであった。

昼間の取材合戦が終われば、平和な夜がやってきた。モスクワの巷には当時、「赤提灯」や「縄暖簾」の類いの飲み屋は一軒もなかった。日本人特派員は各自、わが家をもってその代用とせざるを得なかった。特派員同士が夫婦同伴でお客に呼んだり呼ばれたりした。日本からの来客も、ひっきりなしだった。たまには日ソ交換留学でやってきた大学の先生たちの面倒も、見なければならなかった。

主な料理は家内が作ったが、台所の力仕事は私が引き受けた。ボルガ川で捕れたというスダク(スズキの一種)は、全長1メートルはある大物。出刃包丁で3枚に下ろし、刺身包丁で刺身を作った。アラは澄まし汁の具に使った。

しこたまウオッカをあおった悪童連中は、意気盛んであった。ワイワイガヤガヤと、モスクワの夜は喧噪のうちに更けていくのであった。


しらい・ひさや会員 1933年生まれ 58年朝日新聞入社 経済部 外報部を経てモスクワ支局長 編集委員 定年退社後 東海大学平和戦略国際研究所教授 現在 日露歴史研究センター代表 学校法人杉野学園理事
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