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なぜ消えた北京─上海新幹線(垂水 健一)2010年4月

17年前に知った計画、着工は2年前
中国はいま、内陸部開発や内需拡大で、各地で旅客専用の新幹線の工事が進んでいる。全国で縦に4本、横に4本の合わせて8本、7000キロを2020年までに建設する計画である。北京─上海間もこの計画に含まれている。この新幹線の完成予定は2013年。私の知るところでは、計画は1992年に出来ており計画から完成まで、実に20年以上もかかることになる。

17年前上海で、私は北京─上海間の新幹線が着工直前であることを思わせる詳しい計画を知り、記事を書いた。しかしその後、この計画の音沙汰はなくなった。着工は計画を聞いてから15年以上たった2008年のことである。あの計画は一体なんだったんだろう。単純な誤報だとは思えない。いま中国の各地で、新幹線建設が進められているのを見ていると、あらためて当時のことを思い起こす。

■きっかけはジャズバンド取材

中国の新幹線計画の取材のきっかけは1992年11月、日本から上海支局にかかって来た電話で始まった。電話は京都の知人からで「友人数人が、上海鉄道局に招かれて、ジャズの演奏のためにそちらに行く。取材してほしい」というのんびりした内容だった。2年前から京都のアマチュア・ジャズバンドが上海で、鉄道局の職員を前に演奏しているという。鉄道省から日本への留学生が演奏会の話を進めたのがきっかけ。ナマのジャズ演奏は好評で、3年目になる。交流の様子を取材してもらえないかというものであった。

取材に行く先が上海鉄道局と聞いて、これを機会に鉄道局の幹部に会い、最近街で話題になっている、近々上海─南京間で工事が始まるという新幹線の計画を確認できないだろうかと思いついた。知人に私の要望をジャズバンド側に伝えてもらった。間もなく、上海に到着した一行から「幹部が会ってくれるそうですよ」という意外な連絡が入った。

演奏会は上海駅に近い鉄道局職員の厚生施設のホールであった。演奏会が終わって、ロビーで待っていると、幹部が現れて部屋に案内してくれた。

「北京─上海間の新幹線に関心をお持ちだと聞きました。一部の市民の間で、いろいろ話題になっているようです。隠すようなことではありません。ただ公式の会見ではないので、私の名前や写真は伏せてください」と、その幹部は断った。

何枚かの用紙を綴じたものを見ながら「上海には『滬(こ)』という別称があるので、北京の『京』と『滬』の二文字を使って、高速鉄道を『京滬高速鉄道』と呼んでいます。計画の全体像は来年(1993年)明らかにして、10年以内、2000年までに完成させたい」と説明してくれた。

オーストラリアのシドニーに敗れて実現しなかったが、当時中国は2000年に北京でのオリンピック開催を目指して準備を進めていた。2000年までに完成させたいというのは、北京五輪までに開通させたいという意味であろう。

コースは北京─上海を結ぶ在来線とほぼ同じで、北京から天津、済南(山東省)、南京(江蘇省)を経て上海にいたる約1500キロ。この間を6、7時間で結ぶという。現在はコースのショートカットや立体交差などで距離は約1300キロに短縮され、5時間で結ぶといわれている。鉄道局の幹部の話では、建設計画はほぼ出来上がっており、いまや資金調達や技術的な問題の検討をしている時だという。

■香港紙が一面トップに転載

私はこの計画を日本の新聞で報道したい。問題はないかと確かめた。「計画の細部で煮詰まっていないところもあるが、基本的な構想ということであれば問題になるようなことはない」という。

さらに「高速鉄道の技術開発の実験をするためには、上海─南京間が300キロで、さまざまな実験をするには適当な距離である。この区間で工事が始まることになるだろう」と、北京側ではなく、上海側から工事が始まることを示唆した。

私が京滬新幹線に関心を持ったのは工事が上海側主導で始まることを耳にしたからである。聞きたい話を相手の方からしてくれた。

この年、1992年の春節(旧正月)を暖かい上海で過ごすために、北京から南下する道すがら、・小平氏が改革・開放政策の加速、とりわけ上海の発展に決起を促した「南巡講話」を行った。その影響で上海には活気があった。上海─北京間の新幹線の建設は、このときの上海にふさわしい話である。早速、原稿を書いた。

新幹線と中国といえば、78年10月に日中平和友好条約の批准書交換のため日本に来た・小平副首相(当時)が自動車工場、製鉄所を見て、新幹線に乗り、やがて始まる改革・開放のイメージを描いたといわれる。その当時から中国がいずれ新幹線を建設するであろうという見方は日本では強かった。中国が新幹線建設の構想を固めたとしても、それほどのニュースでもない。京滬新幹線の計画は外電面で伝えられた。

ところが、中国ではそうではなかった。新幹線を建設する方針があることさえ知られていなかった。私が東京新聞と中日新聞に新幹線の記事を書いた翌日、香港の「文匯報」は一面トップで、日本の新聞が「京滬高速鉄道建設へ、計画の詳細来年発表」と伝えたと報道した。

香港の中国系紙といわれる「文匯報」と「大公報」が書く記事は、中国当局に確認していることが多い。新幹線計画は政府も認めた確度の高いものであろうことを思わせた。ところが、中国国内のマスコミはこのニュースを後追いしてこない。年が替わって93年になったが計画の発表もない。

■北京と上海の主導権争い?

京滬新幹線の計画を書いてから半年後に、私は北京に転勤になった。計画がどうなるのかという課題を抱えたまま北京に赴いた。北京に来て少し落ち着いたので、疑問の解明に取り組んだ。

北京では北京駅などの既存の駅で列車をさばき切れなくなっており、大規模な北京西駅を建設中だった。この西駅が新幹線の始発駅になるとうわさで、西駅を取材した。しかし新幹線と西駅のはっきりした関係は聞けなかった。

取材を終えて、広報担当者と雑談中に、なぜ新幹線の計画発表が遅れているのかと聞いてみた。担当者は技術、資金など問題が多いことをあげた。「上海では計画がまとまっているような話をきいたが、どうなのか」と尋ねた。

答えは「このような大きな事業は政府の直接の指導で、鉄道省がやるべきことだ。上海の鉄道局にも計画があるようだが、中央と意見が合わず、調整している」のだという。計画の発表が遅れている理由はそのあたりにありそうだ。北京と上海はさまざまなことで対立することがある。新幹線にもそれが影をおとしていたのだろうか。

もし、あのとき上海鉄道局が勢いこまず、私も何も書かなかったら、うまくいったのだろうか。まさか。そんなことを考えながら、中国の高速鉄道の発展ぶりをながめている。



たるみ けんいち 1939年生まれ 65年中日新聞社(東京新聞)入社 香港 上海 北京各支局長を経て論説委員 大東文化大非常勤講師  (社)日中友好協会「日本と中国」編集部 著書に『中国力』など
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