ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


書いた話/書かなかった話 の記事一覧に戻る

金大中事件 秘密文書を入手(金子 敦郎)2010年3月

「リーク」説も出たスクープ
長かった通信社記者生活を通してさほど自慢できる仕事はしていないが、全国紙を含めて日本中の新聞がほとんど一面トップに掲載するような記事を書いたことがある。「金大中事件は韓国中央情報部(KCIA)の犯行であることを韓国政府および米政府が認めていた」というワシントン共同電だ。情報源が米政府秘密文書だったことから「リーク説」も出たこの報道の裏側を紹介したい。

■ミスで秘密文書公開

1973年8月8日白昼、金大中氏が東京のホテルから拉致誘拐された。現場から検出された指紋などによって、KCIAの犯行ということは明らかになった。にもかかわらず日韓両国政府は「真相」にふたをして、「政治決着」によって無理やりに事件の幕を引いてしまった。

事件の後ワシントン駐在になった筆者は、米メディアが「情報の自由法」を使って政府の内部文書を入手し「特ダネ」を報じているのを知った。自分もやってみよう。米国務省および中央情報局(CIA)に「金大中事件」に関する情報の公開請求を提出した。1年2カ月経った1979年5月、2百通余りの文書が郵送されてきた。その中に2通の重要情報が含まれていた。

事件発生から2週間後、ハビブ駐韓米大使が国務省に送った公電は、事件をKCIAの犯行とする報道は「基本的に正しい」として韓国政府のこうした行動に警告を発していると報告していた。もう1通は1年5カ月経った同75年1月のスナイダー大使の電報。韓国外相が事件の責任者であるKCIA要員を密かに解職処分にした、内々の話にして欲しいと述べたことを明らかにしていた。

「これはいける」と大喜びで、支局をあげて記事に取り掛かった。だが、おかしなことが次々と起こった。

国務省セキュリティ・オフィサーと名乗る電話がかかってきた。「誤って公開できない文書を入れてしまった。返してくれ」というのだ。「もう記事にして東京に送ってしまった」と断った。しばらくすると今度は同省「情報の自由法」担当官から「記事の中で直接引用することは避けて欲しい」という電話である。

やはり気になる。「情報の自由法」には触れずに、「共同通信が入手した文書」として報道した。こっちの配慮にもかかわらず、国務省スポークスマンがなぜか「共同通信に公開した文書の中に秘密解除されていないもの、あるいは誤って秘密解除されたものが含まれていた」と発表した。追いかけるように、ミスを犯した二人の担当官が処分を受けたという情報が流れた。

このスクープは日韓両国政府に打撃を与えた。新聞各紙は揃って社説で「政治決着の見直し」を要求した。両国政府はあわてたが、米政府の公式文書が表に出ているにもかかわらず「伝聞証拠」と強弁して、「政治決着」を押し通した。沖縄返還に際しての「核持ち込み密約」の文書が米国で公開されても「密約はない」と言い続けてきたのと同じである。

■米政府のミスかリークか

その後、筆者の報道が実は「ミス」によるのではなく、米政府の「意図的リーク」によるものだったとする見方が流れていることを知った。

カーター政権の時代だった。ベトナム戦争の反省が生み出した同政権は「反共」に代わる世界戦略として人権外交を掲げ、韓国の朴正熙政権の人権弾圧に厳しい批判を向けていた。韓国政府はこの圧力をかわすために在米韓国人ロビイストを雇って米議員買収工作に精を出したが露見して、コリアゲート事件として議会公聴会が開かれるなど大問題になっていた。

翌6月には東京サミットが迫っていた。カーター大統領がその足で韓国を訪問する。この訪韓にさいして、マル秘文書を通信社に流して大きなニュースに仕立てさせ、金大中事件を忘れてはいないと韓国の人権弾圧に強い姿勢をとっていることを示す意図的リークだったというのである。

狙ったとおりに大きな記事になった。そのために日韓両政府が困っている。知らぬ顔をしているのもまずいので「ミス」だったと外交上の釈明をし、担当者の処罰もしたことにする。

こういうシナリオはありえたかもしれない。だが、筆者は否定的だ。十分な理由があった。後で分かったのだが、ある全国紙も情報の自由法を使って金大中事件に関するマル秘情報入手を狙っていた。わがスクープも実はタッチの差だったのだ。

数日遅れでその新聞社に提供された公開文書の中には、われわれに提供されたハビブ、スナイダー両大使の公電は含まれていなかった。しかし事件はKCIAの犯行とするハビブ大使の別の公電が入っていた。一方、われわれが入手したハビブ大使の他の電報はある部分が切り取られていたが、同紙が入手した同じ電報は、この部分がそのまま残っていた。

二つの日本メディアに秘密文書を公開するに当たっての、この「ちぐはぐ」は何を意味するのだろうか。意図的リークの一部の「差別化」だったと考えるには無理がある。秘密文書の公開を求める請求は大変な数に上る。対象となる秘密文書も膨大で、限られた数の担当官が手分けして公開か拒否かを仕分ける。判断や作業上のミスが起こる可能性は十二分にある。

もうひとつはタイミングだ。筆者が公開要求を出してから資料提供を受けるまでに1年2カ月もかかっている。資料公開をわざわざ大統領訪韓という日程に合わせたのだろうか。

■安易なリーク論は困る

この話には続編があった。筆者はいったん帰国してから1984年に再びワシントン勤務になった。カーター政権時代に国務省広報担当次官補(スポークスマン)を務めたホディング・カーター氏は政権が代わり、ジャーナリストに戻っていた。同氏は情報の自由法にもとづく秘密文書の公開要求を扱う部門の責任者だった。昼食に誘いだした。

カーター氏は筆者の「金大中文書報道」が波紋を引き起こしたことはよく覚えていた。しかし意外にも、間違って秘密文書が公開されたことによって国務省内で問題が生じた事実はなく、担当官二人が処分されたことは「全く知らない」というのだ。「処分がなかった」とはいわなかった。だけど処分があったか、なかったかを担当次官補だった同氏が「知らない」というのは解せない。カーター氏はなぜか、それ以上のコメントは避けたように見えた。ナゾは残った。

カーター氏はカーター大統領と同じジョージア出身の新聞人で、大統領側近だった。国務省に特設された人権問題調整官の女性とのちに結婚した。人権重視のリベラル派だった。韓国政府の人権弾圧を苦々しく思っていたと見ておかしくない。

これは「リーク説」の有力根拠にはなる。しかし共同通信と全国紙への「解禁」の仕方の不統一や大統領日程に重なった公開タイミングが計算しつくされたものだった、とするリーク説を説明することにはならない。

小沢一郎民主党幹事長の政治資金問題の報道が、東京地検特捜部のリークに踊らされているとするマスコミ批判が強まっているときなので、ひとこと。座っている記者にはリークはやってこない。リークであれ情報操作であれ、情報を出す側は自分の利益になるような出し方をするものだ。その情報を吟味してどう使うかがジャーナリズムの力量。思い込みの「リーク報道批判」は批判したい。

■金大中氏の色紙

金大中氏は拉致事件で九死に一生を得たが、民主救国宣言事件や粛軍クーデターにかこつけて最高裁で死刑確定。無期懲役に減刑された後の執行停止で1982年からワシントンに「政治亡命」していた。1985年韓国が民主化へ向けて動き出した。金大中氏は危険を冒しての帰国を決断。出発前夜、在米韓国人や人権運動家たちの歓送会が開かれた。その席で金大中氏は筆者に色紙を書いてくれた。

「金子敦郎先生恵存 君子和為不同 一九八五年二月」


かねこ・あつお会員 1935年生まれ 58年共同通信入社 社会部をへてサイゴン支局長 ワシントン支局長 国際局長 常務理事 その後大阪国際大学学長 現在同大学名誉教授 カンボジア教育支援基金会長
ページのTOPへ