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追悼・金大中韓国元大統領(小栗 敬太郎)2009年11月

20年後に実った『リップ・サービス』
金大中氏が亡くなった。死刑判決も受けた反体制運動家から大統領まで、波瀾万丈の85年の生涯だったが、最期の床は病院で安らかだったときく。ご冥福を祈る。

■初の韓国語学留学生として

東京都心のホテルに白昼堂々踏み込んで政敵を袋詰めにし小舟でソウルまで拉致した1973年の「金大中事件」。KCIA要員の指紋が現場で検出され軍事政権の悪役イメージが極まった一方、金大中氏は被害者として著名人になった。「良心的抵抗派」という非政治的なイメージがすんなり定着したのは、この事件をきっかけに氏を知った人が多かったのだから当然かもしれない。

私が氏に最初に接したのは事件の3年前、語学留学生として滞在していたソウルだった。朝日新聞の語学留学は英独仏中露に限られていたが、初めて韓国語が加わった。植民地解放から四半世紀が過ぎ、日本語を知らない世代が登場してきたからだ。「韓国語で韓国を取材する日本人記者」は当時では珍しがられた。

1970年10月30日、ソウルのホテルで外信記者会が野党大統領候補を招いて開いた会見。脂の乗りきった40歳代半ばの氏は火を噴く勢いで政見を披露、「弁舌に秀で野心満々」というのが初印象だった。

75年特派員として赴任。使命感の強さを尊敬すると共に、弾圧下にある「弱さ」を転じて軍事政権の不当を訴える武器に仕立てる戦略家の才にも感心した。同氏を巡る状況は様々に変化したが、「私の金大中」像は初印象の延長上にあった。

78年12月27日、民主救国宣言事件で2年10カ月に及ぶ病院軟禁からの釈放が、特派員を終え帰国直前の「最後のソウル電」となった。

■釈放手記「空が恋しかった」

大晦日の朝刊第3総合面を埋めた独占手記は、面会に通う家族らを通じて事前に何度も頼んであったとはいえ、釈放後すぐに長文が書けるはずはない。病院では執筆禁止で「鉛筆一本がどんなに欲しかったか」と後で聞いた。

小さな獄窓から外を見た「空が恋しかった」という題字と署名は本人が万年筆で書いてくれたが、大部分は口述筆記だった。

手記を得ることが出来た陰には、反体制派とのパイプが太かった鄭乎相氏の密かな活躍があった。「言論弾圧」の悪印象が強い軍事政権だが、日本人特派員である私の取材・執筆に直接介入したことはなく、KCIAとの関係は隠微な神経戦だった。しかし韓国人助手は地元紙と同様、露骨な圧力と監視下にあった。

手記で興味があったのは、政敵である朴正熙大統領を意識して尋ねた独裁者論だった。氏も政治家である限り、崇高な使命感だけでなく、熱い権力志向が内部に渦巻いていても責められることでは全くない。政治記者としてリアリティのある本音の一端でも引き出したかった。

その問いに対し、弾圧の元凶である朴正熙氏に直接触れるのはさすがに避けたが、秦の始皇帝・織田信長・ピョートル大帝の名前を挙げて「その時代の要請に応えた」と肯定評価したのだ。

当時の切り抜き帳を取り出して塵を払ってみると、長文過ぎて削った部分を赤ペンで書き添えてあった。「独裁者を評価するのかと誤解されるので付け加えると、大衆の覚醒と能力が不十分だった当時の歴史的段階では独裁しかなかったのが現実だった。彼らは少なくとも時代の要請を前進させた点を評価したのだ」

口述筆記を終え引き揚げるとき玄関で「大統領になった暁には単独会見に応じて欲しい」と持ちかけた。おぼろな記憶だが、氏は苦笑気味に口元をゆるめ握手したと思う。釈放されても軟禁の場所が病院から自宅に変わっただけで活動の自由もない状態では、本気で約束を取り付けるというより「いつか大統領になれるといいね、死なずにがんばれよ」という思いの、友人として激励のリップ・サービスが本音だった。

20年後、その「まさか」が現実になってしまった。東京編集局長だった私は「単独会見をなんとしても取れ」と外報部に発破を掛けた。

■監獄学校で勝海舟も読破

リップ・サービス代わりの大昔の「約束」に効き目を期待できるはずもなく、欧米メディアも含めた激しい競争を勝ち抜けたのは、小田川興君ら後輩の歴代ソウル支局経験者が本人や側近に築いた人脈と、東亜日報などの支援のお蔭だった。20年前、釈放手記で活躍した鄭乎相氏はその後一段と厳しくなった韓国政治の閉塞を逃れて渡米し、その地の土となっていた。

1998年1月22日、青瓦台(大統領府)近くに設置されていた政権引き継ぎ委員会本部。まともな政権交代も実現できないまま自民党「永久政権」下に安住する日本政治を取材した身として「政治では韓国に一歩先んじられたなあ」という感慨を抱いて会見の部屋に入った。

会見に立ち会う予定だった松下宗之社長(故人)が午前中東京で所用ができ、社有機で金浦空港に到着、パトカーの先導で駆けつけている最中という綱渡り。「待つ間ぼつぼつ始めていましょうか」ということになった。国家元首とのインタビューだから先方の言語を使うのが礼儀と30年近く前習った韓国語の錆を払って質問をすると、流ちょうな日本語が返ってきた。獄中で七百冊を読破した勉強家で、勝海舟伝記まで含まれていると聞いた。本人も「監獄こそ私の学校」と言っていた。

朝刊外報面2頁をつぶして展開した会見内容は省略するが、社長到着を間に合わせるため会見時間がたっぷりあったのが幸い、答えが予測できる目先の政治の話に限らず、昔話を含めゆったり問答できた。

■朴氏と会話の希望実らず

20年前の釈放手記の始皇帝・織田信長・ピョートル大帝のことは覚えていて「この三人が今ここに出てきても話が通じる気がする」と語り、手記では直接言及を避けた朴正熙氏についても今度は「朴氏は私を殺そうとしたが私は誰もエネミー(敵)と思ったことはない。亡くなる半年前に人を介して直接会って話し合おうと提案した。1カ月待ったが結局ノーだった。今でも生存中に一回会いたかったと思っている」と心情籠もる答えを得た。

問答に添えてソウルから送信した会見記に「金大中氏には取材を通じて、いくつかの顔を見てきた。政策に明るく弁舌さわやかな野党政治家。人権尊重を唯一の武器に掲げて強権政治を批判する反体制運動家。獄窓に寄ってくる雀を唯一の友として歴史や宗教の世界に思いを馳せる思想家。これからは本人が望むと望まないとにかかわらず権力者の顔を見せることになる」と書き、「実像、徹底した現実政治家」の見出しを敢えて立てさせた。

権力集中と過剰忠誠が大統領を裸の王様に祭り上げがちな政治風土の中で、権力者としての金大中大統領がどう振る舞ったか、その評価は後輩特派員が伝えている。現地にいない私が憶測で蛇足を加えるのは慎むのが職業倫理というものだろう。

金大中氏を死の寸前まで追い込んだ朴正熙氏は側近中の側近であった警護室長に既に射殺されていた。それから30年後、黄泉で顔を合わせた二人のライバルはどんな会話を交わしているのだろうか。

合掌



おぐり・けいたろう会員 1941年生まれ 64年朝日新聞社入社 ソウル特派員 論説委員 政治部長 東京編集局長 常務取締役・総務労務担当 2001年朝日新聞退社 海外新聞普及株式会社社長・会長 08年退任
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