ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


書いた話/書かなかった話 の記事一覧に戻る

ベルリンから送ったドイツ統一の社説(三露 久男)2009年5月

─ナチスの記憶と白い十字架と─
ジ・ジ・ジと音をたてて1枚のファクスが朝日新聞ベルリン支局の受信機から流れでてきた。1990年10月3日付一本社説のゲラだ。「新しいドイツの生まれる日に」の主見出し。「臨場感があって好評です」という温かい担当デスクの添え書き。私の論説委員時代のもっとも忘れられない瞬間だった。

1980年代のなかばの3年半ばかり、私はブリュッセルの特派員をつとめた。その縁もあって、帰国とともに論説委員になってからヨーロッパの問題を取り上げるときは、よく執筆のお鉢が回ってきた。とくに89年のベルリンの壁崩壊・冷戦終結のあと、疾風怒涛の勢いで進んだドイツ統一の動きの社説は、私の専任になってしまった。
 
いよいよこの秋には東西ドイツ統一が実現、と確定したころ、ひとつのアイデアが浮かんだ。当日の社説をベルリンから送れないか──。

いうまでもなく、社説は論説委員室の合議に基づいてつくるのが建前だ。従って執筆は国内ということになる。しかし、1年近くあの手この手でドイツ統一の過程を書いてきた私としては、ヨーロッパ史を画する出来事の意義を現場で書きたい。東京で書けば、これまでの社説の総まとめになりかねない。松山幸雄主幹は、私の申し出を即答で許可してくれた。
 
●「大ドイツ」復活をどう見るか
 
ドイツ統一は戦後ヨーロッパ秩序の暗黙の前提であった「ドイツ分割」の終焉、「大きなドイツ」の復活を意味する。これをナチスに蹂躙された周辺諸国はどう見ているか。そこを書き込むことで新味を出したいと思い、ベルギー、チェコ、ポーランドなどを巡って取材した。その一環として未見だったアウシュビッツ強制収容所を訪れたことが、その後の私の大学教師としての仕事につながろうとは夢想もしなかったが……。
 
周辺国取材を終えてベルリンに入ったのが9月29日。東ベルリン地区に開設されたばかりの支局に近いホテルに投宿した。すぐさま東西ベルリンの「字になりそうな」ポイントを見て回る。旧帝国議会議事堂(ライヒスターク)、チェックポイント・チャーリー(東西ベルリン間の検問所)、「壁」の跡などみんな興味深かったが、私が「これでいける」と直感したのは、シュプレー川のほとりのフェンスに架けられた白い十字架の列だった。東から西へ、川を泳ぎ渡ろうとして射殺された脱走者の「墓碑」である。

最後の犠牲者の日付は89年2月6日だった。歴史の変わる時の流れの速さ、9カ月後に起こる壁の崩壊を予想だにできなかったことの無残さを思った。これが、この社説の書き出しと締めくくりになっている。
 
●東西のプラグを“統一”して
 
取材はここまでと見きわめた私は、ホテルにこもって一本社説のプロットづくりと執筆にかかった。当時はもう記事はワープロで打つのが普通だった。私もいまさらエンピツでは書けない。パソコン時代はまだだった。わざわざ電圧100ボルトの重いワープロを携え、旅行用品売り場でおなじみの各種の接続プラグや変圧器とともに持ち込んだ。
 
この旅の途中で西独のボンに寄ったとき、インフラなどは東独時代のままという東ベルリン地区で西側諸国用のプラグが合うのか、との不安にかられた。ボンの町の電器屋に行くと、東ベルリンならこれかもしれないと、東独規格のプラグの付いた延長コードが出てきた。これを買っておいたのは、私がついていたというほかない。ホテルのコンセントはまさに東独型で、西独+東独と2つのプラグを「統一」してワープロが動いたときの嬉しさは忘れられない。
 
時差を計算して書いた社説の原稿を送って、夜の統一式典会場のライヒスターク前広場へ出かけた。漆黒の夜空に北ドイツの秋の月が浮いている。ウンター・デン・リンデン通りからブランデンブルク門を通じて広場まで、大群衆で埋まっている。

午前零時の統一の瞬間を見ようと早めに着いた私は、ドイツ人の大男、大女に押しつぶされそうになった。打ち上がる花火、国歌演奏、大歓声のなか、高さ40メートルのポールにするすると揚がる黒・赤・黄の統一ドイツ国旗。後ろの豪壮なライヒスタークの破風に「DEM DEUTCHEN VOLKE」(ドイツ民族へ)と彫られた帝国時代の文字が強烈な照明を浴びている。周辺国の人々に聞いた大ドイツへの恐怖が実感できるような気がした。
 
●ゼミ生に「戦争と平和」の現場を
 
朝日新聞を退社した私は、日本大学国際関係学部の教壇に立つことになった。奉職して4年目の2002年、学部はこれまでは国内に限っていた夏休み中のゼミ研修旅行の行き先を海外にしてもよい、という方針を打ち出した。ならば学生をアウシュビッツに連れていこう、というアイデアが瞬間にひらめいた。私が20年ばかり前にブリュッセルを拠点として取材に回ったヨーロッパのあちこちには、もちろん現代史の舞台はたくさんある。そこには友人・知人もいるし、記者時代のコネもまだ利く。ぜひゼミ生を連れて欧州旅行をしたい。極東の島国で国際関係を習っていてもそれこそ机上の空論、百聞は一見に如かずだと勝手に興奮して一晩でツアー・コースまで決めてしまった。
 
欧州連合(EU)と北大西洋条約機構(NATO)の本部はブリュッセルの地元で、なんとでもなる。オランダ・ハーグの国際司法裁判所(ICJ)には小田滋判事、旧ユーゴスラビア戦犯法廷(ICTY)には多谷千香子判事がいる。公開のアンネ・フランクの家はアムステルダムだ。そしてポーランド南部のアウシュビッツ。よほどでなければ、一生行けないだろう。2つの学年にまたがるゼミ生に打診した。はじめは目を丸くしていた彼らのほとんどが乗ってきた。
 
かくして「ヨーロッパで戦争と平和を学ぶ」を旗印に、2学年合同で学生数16名のゼミ旅行が、同年9月に実現した。足かけ10日のきつい旅だった。すべての訪問地で、われわれのためのブリーフィングを受けた。アウシュビッツを訪問したのは9・11テロ1周年の日で、宿泊した古都クラクフでは、夜の広場の巨大なスクリーンにニューヨークと結んだ映像が輝いていた。
 
旅のエピソードは書ききれない。が、学生たちに与えた感銘とショックは私の予想を超えていた。世界大戦・冷戦体制の残虐さと、平和維持への現実の努力を垣間見たこと。自分たちが英語のしゃべれない、分からない「国際関係学部」生であること、等々。帰国して数日間、くやしくて眠れなかった優等生もいた。
 
三露ゼミは私が退職するまで、(旅費を貯めるため)隔年にして計3度、同じ趣旨の欧州旅行をした。訪問地にベルリン、ブダペスト(ハンガリー動乱)、ウィーン(IAEA)などを組み合わせた。たくさんの方々の、好意あふれるお世話になり、歓迎を受けた。合わせて約40名の学生が、老ツアコン先生ひとりの引率で、軽い風邪以外の病気、けが、脅迫・傷害、すり・盗難、紛失、迷子など1件のトラブルにも遭わなかった。ヨーロッパはもとより海外旅行も初めてというのが大半の学生たちも、心を合わせて私を支えてくれたのだ。
 
経験ゆたかな当会員の皆さんには分かっていただけると思う。ベルリンからの社説にも、学生との旅にも、天祐があったのだということを。

みつゆ ひさお会員 1937年生まれ 62年朝日新聞入社 経済部記者 83年ブリュッセル特派員 87年論説委員 91年論説副主幹 98年退社 99年日本大学国際関係学部教授 2007年退職 日本EU学会会員
ページのTOPへ