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プロヒューモ氏のけじめのつけ方(三橋 規宏)2009年4月

スキャンダル失脚後の決意
「元英陸軍相 国家機密スキャンダル プロヒューモ氏死去」─2006年3月11日の朝日新聞に2段扱いでこんな死亡記事が載った。前日の10日、脳溢血で倒れ、ロンドン市内の病院で死去、享年91歳。

それからもう3年が過ぎたが、最近モラルなき政治家や経済人の犯罪が話題になるたびに、ジョン・プロヒューモの温和な顔を懐かしく思い出す。彼を知る大多数の人々の記憶の中では、プロヒューモといえば、英国史上最大のスキャンダルにまみれた傲慢な男としての印象が刻み込まれているだろう。しかし彼にはもう一つの別の顔があった。スキャンダルで政界を引退した後の身の処し方を通して、紳士としての名誉回復にその後の生涯をかけた男の顔である。

私は、1985年3月から約3年間ロンドンに駐在した。英国病の克服に立ち上がったサッチャー首相の号令の下、ロンドン・シティは金融ビッグバン(英証券取引所の大改革)真っ盛りの時代で、その取材に追いまくられていた。

そんなある日、「タイムズ」だったと思うが、プロヒューモの社会奉仕家としての近況を伝える小さな記事が目にとまり、おやっと思った。あのプロヒューモのことなのかと。

プロヒューモ事件といえば1963年に発覚した英国最大の国家機密漏洩スキャンダルで、日本の新聞も大きく取り上げた。それからすでに50年近くの歳月が流れており、今の若者のほとんどは彼の名前さえ知らないだろう。事件の概要を簡単に振り返っておこう。

プロヒューモは1915年、イタリア系貴族出身のアルバート・プロヒューモ男爵の子息として生まれた。パブリックスクールの名門ハロー校を経てオックスフォード大学に学ぶ。絵に描いたようなイギリス貴族の教育を受けた後、25歳で下院議員に当選、英国史上最も若い国会議員になった。60年7月、保守党を率いるマクミラン内閣の陸軍大臣に就任、45歳の若さだった。当時、マスコミは「次期首相候補の最短距離にいる男」ともてはやし、プロヒューモは人生の絶頂期にあった。

そんな時、彼は21歳になったばかりのコール・ガール、クリスチーヌ・キーラー嬢と出会い、親密になる。一方、キーラー嬢は、駐英ソ連大使館付武官、エブギェーニ・イワノフ大佐とも情交を重ねていた。このことが発覚し、マスコミは「現役の陸軍大臣がソ連武官と女性を共有することで、英国の国家機密がソ連に漏洩したのではないか」と激しく追及した。

1963年3月22日、プロヒューモ陸相は議会の要請に応じ、釈明のための演説をした。

「キーラー嬢と私との交友関係にはなんらの疚しい(不道徳な)ことはない」

この一言が彼の命取りになる。この段階で、マスコミや一部の野党議員の中にはすでにスキャンダルの証拠を握り、「プロヒューモは嘘つきだ」と糾弾した。

10週間後の6月4日、プロヒューモ陸相はマクミラン首相に手紙を送り、議会での偽証を全面的に認め、陸相辞任を含め一切の公職から身を引くことを伝えた。以上が英政界を揺さぶった世紀のスキャンダル、プロヒューモ事件の大筋である。

●政界引退、貧民街で奉仕活動

私が関心を引かれたのは、事件そのものではなく、事件後のプロヒューモの身の処し方、責任の取り方だった。特に閣僚といった権力の頂点に立った者が過ちを犯した後の人生の過ごし方である。

彼は政界引退後、しばらく静養と称して自宅に引きこもり、これからの人生をじっくり考えた。10カ月後、プロヒューモはロンドン・イーストエンドにある貧民救済施設「トインビーホール」で働く決意をする。

イーストエンドはロンドンを代表する貧民街である。浮浪者、アルコール中毒患者、西インド諸島からの流れ者などの吹き溜まりになっていた。地理的には、テームズ川沿いのドッグランドの北側に位置し、昔からユダヤ人やユグノー教徒(フランスの新教徒)、ロシア、ポーランドなどからの亡命者の逃亡先としても知られていた。

プロヒューモにとって、イーストエンド訪問は恐らく初めてだったに違いない。金持ち貴族の子息としてエリート教育を受け、権力の中枢を歩み続けた男にとって貧民街の存在など視野に入らなかったはずだ。

トインビーセンターで、彼は、台所の皿洗い、床掃除から人生のやり直しを始めた。呑んだくれのアル中患者の世話も厭わなかった。陸軍大臣という権力の頂点を極めた人間にとって、これはきわめて苦しいつらい体験だったに違いない。しかし彼は黙々とそれに耐えた。

なぜ、彼はこのような選択をしたのだろうか。この点について、彼はかたくなに説明を拒んでいる。

●ノブレス・オブリージの精神

プロヒューモは、偽証した自分自身が許せなかったのである。「魔がさした」としか言いようのない偽証によって紳士としての名誉を失墜させてしまったことは、エリート教育を受けてきた彼にとって悔やんでも悔やみきれない痛恨事だったに違いない。金持ちの特権を利用して快適な余生を送る選択もあったはずだが、それを拒否し、あえて厳しい道を選んだ本当の理由は、「紳士道に反した自分を罰したかった」のではなかったかと私は推測している。

「ノブレス・オブリージ」という言葉がある。高い身分に伴う義務といった意味の言葉である。高い地位にある者は、絶えず己れの身を正しく律し、いやしくも他人から後ろ指をさされるような行為は慎むべきであるという文脈で使われることが多い。英国のエリート教育では、この点を徹底的に教え込む。英国が紳士の国といわれるのも、この精神がいまなお健全に息づいているためだろう。プロヒューモの生き方に、真のエリート教育を見る思いがする。

トインビーホールでの下積み生活を何年かした後、彼はホールの財政基盤強化の仕事を引き受け、71年11月に「アトリー基金」をスタートさせた。この日、エリザベス女王がセンターを訪れ、プロヒューモを激励した。彼が人生のやり直しを始めてから8年の歳月が流れていた。

●女王陛下から騎士の称号

75年の年頭、彼は「大英帝国騎士」の称号を与えられた。イーストエンドでの長年の地道な社会奉仕活動が評価されたのである。デイリー・ミラー紙は、「赦された、女王陛下がプロヒューモの名誉を回復された」と大きく報道した。

95年、サッチャー元首相の誕生日の夕食会で彼は、エリザベス女王の隣に着席し、英国を代表する社会奉仕活動家としての地位を不動にした。

私は、「名誉回復に人生を賭けたプロヒューモ」という記事をロンドン駐在の卒業論文にしたいと思っていた。だが、金融ビッグバンの取材に忙殺され、彼にインタビューする時間がなく、結局書かず仕舞いで帰国する羽目になり悔いが残った。

それから2年後、たまたまロンドンに出張したさい、わずかな時間だがプロヒューモに会うことができた。

ロンドン・ストライプのワイシャツ(白地に紺の縞のあるワイシャツ)にグレーのダブルをきちっとまとい、英国紳士とはかくあるべしといった風情で現われた。すでに76歳、頭は禿げ上がり、残る鬢にも白いものが目立つ。

柔和な表情で、「私のような過去の人間をどうして訪問しようとお思いになったのですか」と静かに問いかけられた。当時、リクルート事件が発生し、政治家や企業家の倫理観、責任感が問われていた。「あなたの責任の取り方を日本人に知ってもらいたいのです」と答えると、彼は黙ってうなずいた。

私が「日本の政治家に捧ぐ、女王陛下に赦された男、プロヒューモ─すさまじいケジメのつけ方」を執筆したのは、日経本紙ではなく、出版局が出していた日経ムック「フォーテイ・ラブ」の誌上だった。

その日経ムックも廃刊されてすでに久しい。


みつはし ただひろ会員 1940年生れ 64年日本経済新聞入社 経済部記者 ブリュッセル特派員 ロンドン支局長 日経ビジネス編集長 出版局次長 論説副主幹などを経て 2000年から千葉商科大学政策情報学部教授 専門は環境経済学 環境経営学など
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