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大転換期に名物財界人を慕う(榊原 博行)2009年3月

「財界」は死語になったか
昨秋のリーマン・ショックで間髪を入れず、トヨタ、キヤノンの両社が、真っ先に〝派遣切り〟に走った時、筆者のところに苦情が相次いだ。

「日本経団連の歴代会長企業が先頭を切って、派遣切りするとは何事か。緊急時の艦長、機長は、最後の乗客が脱出するのを見届けるもの。孤高の財界精神は一体、どこへ行ったのか…」

次いで、今年の年賀状には、新米記者として赴任した浜松や郷里の愛知県に多い友人、知人から悲痛な叫びが認めてあった。

「その昔、クルマ関連企業群が呼び込んだブラジル二世、三世の出稼ぎ労働者が突然に失職。帰国の片道切符も買えず、手当たり次第に窃盗、強盗を働く。もはや地域住民は安心して暮らせない。平穏な地域社会を破壊した企業責任は問われないのだろうか…」

ショックから半年後の今なお、日本の代表企業が断続的に大規模な人員削減策を打ち出す。「トヨタ、キヤノンの素早い危機対応力こそ評価すべきだ。企業防衛の立場から当然過ぎる緊急避難だからだ」と、大企業の派遣切りを擁護する論者もある。

どちらが正しい選択か。この辺の評価は、この先の歴史が決める。しかし、企業経営の安定を最優先するあまり、雇用責任をおろそかにする考えは、日本の経営道には馴染まない。時代状況が大きく違うものの、凛とした戦後財界人たちの言動に思いを馳せないでいられない。そこで、私が敬慕した二人の財界人(故人)の息遣いを紹介したい。

経済記者として私が財界人と巡り会ったのは、経団連と財界記者クラブを担当した昭和40年代後半。戦後の廃墟から経済復興、高度成長を引っ張り、ニクソンショック(円切り上げ)や石油危機、公害問題など相次ぐ経済事件を乗り越えて、財界人がもっとも輝いた時代だ。

●土光=怒号=イズムの神髄

当時の財界4団体は、経団連に土光敏夫会長、日商に永野重雄会頭、日経連に桜田武会長、そして経済同友会に木川田一隆代表幹事という戦後経済史を彩る豪華メンバー。この中で、土光さんは、永野氏が語る世界規模の構想力、桜田氏の狂乱インフレ鎮圧力、木川田氏の経営理論には及ばないものの、日蓮宗信者が誇る強靭な信念と行動力は抜きん出ていた。

荒法師の異名を持つ土光さん、石川島播磨重工業、東芝の社内会議で、しばしばテーブルを叩いて幹部連を怒鳴り上げた。土光ならぬ〝怒号さん〟と畏怖された。経団連会長になってすぐ持ち前の行動力を発揮した。石油危機後の不況対策として、大規模な財政支出を即時実施するよう政官界首脳に直談判した。「土光さんに〝怒号〟された」と、自民党幹部や政府高官が頭を掻いていた。

世界不況がのしかかる現在の状況とウリ二つだ。この土光流の迫力が、今の財界人に微塵も感じられない。オバマ新政権が74兆円の大型景気対策を打ち出した。「日本は何をぐずぐずしているのか…」と、土光さんなら腰がふらつく麻生太郎首相に対し鬼気迫ったことだろう。

「公」への使命感と責任感が強烈だったのも土光さんの魅力だ。85歳の老体を鞭打って、第2臨調会長(昭和56年)を引き受けた。「まだワシを働かせるのか」という不満をおくびにも出さず、ホンダの創業者、本田宗一郎氏と二人三脚で行革運動の全国行脚に出かけた。

そのために土光さんは、生涯続けた早朝の日課を捨てた。午前4時からの読経と木剣振りだ。事務局が持ち込む行革関連の膨大な資料読みの作業に振り替えた。そのツケはすぐきた。急に足腰が衰え、歩くのも不自由になった。「行革奉仕が確実に土光さんの寿命を5年は縮めた」と周囲は嘆いた。

しかし、土光さんの遺産は生きている。当時掲げた「増税なき財政再建」というスローガンは、今なお国民各層の意識に溶け込み、政府、与党の安易な増税政策に対し、立派な抑止機能を果たしている。

その土光イズムは、造船技術者の流儀に起因した。トヨタ自動車がカンバン方式を導入するはるか以前から、造船工程の合理化を徹底し、社内外から「ミスター合理化」と呼ばれた。「民間企業と比べ、官僚制度に付着した錆はひどいものだ」と厳しく指摘していた。政治が御し切れない公務員制度改革の現状をどう思っているだろうか。

「ワシみたいな年寄りが踏ん張っているのだから、君たち若い人にくれぐれも後事を頼んだよ…」とは、晩年の土光さんの口癖だった。その言葉にピンとこなかったが、土光さんの年齢に近づいて初めてその警世発言が理解できる。

●平岩“財界総理”の新党密議

土光さんを〝剛の財界人〟とすれば〝柔の財界人〟は、文句なしに平岩外四・元経団連会長だろう。

平岩さんとは同郷の縁で、東京電力の総務部長時代から出入りした。後年、まさか〝財界総理〟に大化けするとは思いもよらなかったが、2万冊の蔵書(30年前)に裏打ちされた教養の深さに感服した。教養という無形の財産が、政官界から文化、芸術、科学、スポーツ界まで幅広い各界第一人者との交流を後押しした。

地獄耳と言われた情報の確かさの秘密が、この豊富な人脈にあった。何時、何を聞いてもズバリと答えてくれた。わけても政界情報には仰天した。「永田町の動きは、ほぼ1時間ごとに伝わってくる…」とぽつり漏らした。政局に発展する際どい局面で、ほぼリアルタイムで主要政治家の動きを把握していた。そこに〝総務のプロ〟を見る思いだった。

その凝縮例を一つ。平岩さんが経団連会長に就任して間もなく、飛ぶ鳥を落とすほど権勢を誇った小沢一郎・自民党幹事長(現民主党代表)を軸に、自社連合による新党結成の極秘会談に呼び込まれた秘話はあまり知られていない。

参加メンバーは、自民党から提唱者の金丸信・副総裁と奥田敬和氏、社会党から田辺誠氏、山岸章・連合会長、それに平岩氏。5社会談を5回重ねたが「機が熟さなかった」そうだ。1年後に小沢氏が自民党を飛び出し、7党連合による細川政権をつくった。

財界を代表する形で平岩さんが新党結成の密議に加わった度胸は、兵隊時代の強運と無縁ではあるまい。激戦の南方ラバウル戦線で、140人の中隊のうち生き残った7人の中の一人だった。今健在ならば、近づく総選挙で小沢氏が画策する新政権、再編新党づくりに、どんな関わり方をするのか興味がそそられる。

●剛毅さと柔軟思考と

平岩経団連は「共生」をキーワードとした。内外全方位で共存を図るという平岩哲学である。その頃、都市銀行の利益供与、証券会社の損失補填事件など企業の積年のウミが一挙に噴出し、企業批判が頂点に達した。そこで初めて経団連は、企業規律を厳しくする企業行動憲章を制定した。だが、規範意識や倫理感は、時が経つと緩むのが世の習い。

昨今、経団連など経済団体は、グローバル競争に打ち勝つことだけを目標に、政府、与党を巻き込んで企業優位の規制緩和政策を急いだ。その負の遺産として、冒頭に紹介した企業の雇用責任を軽視する風潮がまん延した。経済人が企業と経済界の利害関係を重視し、国家、国民の視点を失ったならば、もはや財界人を名乗る資格がない。

世界の大転換期の渦中にあって、土光さんの剛毅な言動、平岩さんの柔軟思考のひとかけらでも、今の指導的な経営者に求めるのは酷だろうか。

●平岩ライブラリーに“記者文庫”

ご参考までに、昨秋11月、都下日野市の東電研修センター内に「平岩文庫」がオープンした。蔵書4万4千冊を社内外に自由に閲覧サービスしている。ここに筆者を含め日本記者クラブ会員の方々の著書ざっと数千冊が漏らさず収納されている。〝記者クラブ文庫〟が平岩文庫にすっぽり入った感じ。是非、関係の諸兄にご一覧をお勧めする。



さかきばら・ひろゆき会員 1936年生まれ 59年産経新聞入社 支局 社会部を経て 66年から経済部で官庁 民間業界を幅広く担当 編集委員 論説委員 98年退社 現在フリーランス 著書『評伝土光敏夫』『ヨコハマ再開発物語』など
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