ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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70年代、80年代の民放テレビ記者(中井 靖治)2008年11月

新聞のひと、テレビのひと
テレビ朝日に入社して数年後、社会部も政治部も経済部もまだ存在していない報道局というところに配属されて、いつごろから政治専門記者になったのか定かではないが、テレビデビューは1976年、三木武夫首相の退陣表明の日であったと思う。

12月17日の東京新聞には、「福田さんにしてやられて退陣するのかなどという記者団の意地悪質問にも」との記事が掲載されているが、その日、記者会館に集合した我々スタッフは、三木首相にぶつける質問をアトランダムに出し合い、首相の感情を刺激しそうな質問だけを抽出、アップをねらうようにカメラマンとも打ち合わせて、多くの記者が三木首相の到着を待つ官邸玄関に向かった。いわゆるぶら下がり取材である。新聞にはないアピールをもくろんでのことであった。

ドキュメンタリーなどで意欲的な作品をつくってきた番組制作派集団に比べ、いわばテレビ記者派集団は活字メディアを信奉していた時代、新聞記者になりたくてなれなかった私のような記者派集団にも、テレビの表現を真面目に考えようという気運が生まれていたころのことである。

●対立軸に新聞のひとがいた

テレビ報道に携わる私たちの仕事は、いまに比べ影響力は低かったし、表現のスペースも小さかったことにもよるが、自分流のやりかたが主流で、直球型記者、“面白くなければテレビではない”志向記者、記者クラブ大嫌い記者、いずれも対立軸に新聞のひとがあった。テレビの武器はカメラ。何せフィルムの時代で、会見場にカメラを据える段になると新聞のひとは、うるさい、邪魔だ、下がれと言わんばかり。しかし、今やカメラは、常に一番いいポジションに鎮座する。にもかかわらず、いま放映される首相のカメラ付きぶら下がりインタビューは、はっきり言って、面白くないのである。

新聞のひとは記事を書くことが仕事の中心であるが、民放記者には、カメラマン、ビデオエンジニア、オーディオマン、編集マン等々がリアルタイムで取り巻いていて、コーディネーターとディレクターとしての役割が要求される。身軽ではないのである。それに、ストレートにニュースを伝える出稿から視聴者ターゲットがはっきりしている番組等のリポートまで、それぞれの求めに即したパターンを持たなければならない。はなはだ面倒なのである。

さらに、報道といえども視聴率競争のなかで消費材としてのニュースに集中しがちになり、視聴者のニーズという“購買力”と感知能力を磨くことになる。視聴者ニーズに応えることは極めて重要な仕事であるが、日常のなかで置き忘れていく専門性の追求や凝集力については、新聞のひとに学ぶことが多かった。

●テレビ対応にも政治家の個性

福田内閣以降、テレビのひとたちの取材行動半径は、大きく広がった。福田首相は、支持率低空飛行の状況であったが、自宅を等しく開放しオフレコといえどもテレビのひとにも取材の機会を与え、不満を包んでくれた。ぶら下がり取材にも数多く応じたが、ある日のこと、執務室を出た福田首相に記者団は矢継ぎ早に質問。福田は「まだ、まだ」とつぶやく。官邸中央の階段を下りたところで立ち止まる。カメラの位置を確かめる。記者団に「早く質問しろ」といった仕草がみえた。憎めないテレビ利用であった。

大平首相は、その人柄そのままに、テレビとはシャイなお付き合いだった。テレビの側も特段魂胆のある接し方はなかったように思うが、大平首相は、政界激流のなか終始党内運営に苦心、40日抗争にまで至る状況下で、テレビにまで配慮する余裕もなかったのではないか。福田政権2年、大平政権1年6カ月、首相をキーワードにテレビ朝日に現存する資料映像を検索すると、福田首相が355件、大平首相が330件、終生のライバルであった両首相のテレビでの露出度もいい勝負であった。

●スタイリストの中曽根首相

河野謙三参議院議長には、感謝したことがある。国会終盤になると決まって参議院に取材が集中するが、記者クラブに常駐していないテレビのひとは慣行として議長懇談に参加できなかった。新聞にはすごいひとがいてそうさせていたのだが、民放記者が一致団結、実力行使、河野議長の前で丁々発止、懇談どころの話ではなくなり、その場で、議長の一言、懇談への出席問題が決着した。

中曽根首相は、「国民はネクタイの色くらいしか覚えていない」と言いつつも、テレビに対して周到なところがあった。82年の自民党党員参加による総裁予備選挙の地方遊説に同行して取材したが、後退しかかっていた頭髪を気にしていた秘書連からバックショットへの配慮を要請された。また、シーンやインタビュアー等への気遣いは怠らず演出家のようでもあったし、「青年将校」はなによりもテレビを意識したスタイリストであった。田中派のバックアップで権力を握り、後継総裁の指名までの5年間、テレビの取材対象として、いつもスリリングな存在であった。87年に始まった「朝まで生テレビ!」5時間討論の第1回目の放送は「中曽根政治の功罪」であった。

昭和最後の宰相、竹下登首相が誕生するまでの取材には苦い思い出が過ぎる。85年に田中派担当となって、その正月24日。都内ホテルで開かれた田中派新年会ではキングメーカーとしての力を誇示していた田中角栄元首相はウイスキーをかたむけ、演壇で「湯島の白梅」を披露するほどの上機嫌な振る舞いを見せていた。

27日。竹下氏を中心にした創政会発足が表面化、田中派分裂の動き、田中氏の病気入院。田中氏を直接取材することなく、角栄氏を知らない田中派担当第1期記者となったのである。以来、各社とも田中派経験記者を動員しての人海戦術。一方、ひとり、最悪の関係になっていた竹下幹事長と二階堂副総裁のあいだを行ったりきたり、後追い取材に明けくれた自分がいたのである。

●時事番組がプライムタイムに

福田・大平時代に比べ、80年代のテレビ報道は、新聞ジャーナリズムの模倣から脱皮してテレビ的ジャーナリズムを目指した時代にはいっていた。プライムタイムに初めて、TBS「報道特集」、NTV「TV・ EYE」、EX「ビッグニュースショー“いま世界は”」といった時事番組が次々に登場している。

民放連の資料によると、報道に区分されている番組の放送時間は、80年からの10年間でほぼ1・6倍に増加し、平成の時代に入って、テレビで得をした首相、痛手を負った首相、この舞台装置で数々のドラマを生み“テレビ政治”なる言葉のなかに、その功と罪が混在する。

最近、新聞のひとと旧交を温めるとテレビ報道のエンターテイメント化が過ぎるというお叱りを受けることが多い。そもそもテレビ番組は、報道とか教養とか娯楽とか、境界線をはっきりしないメディアなのである。が、体制も陣容も整いつつある現在、テレビのひとには、ニュースバリューをはかる視点だけは失わないよう求めたい。

若者の活字離れが言われて久しく、テレビも同様HUT(総世帯視聴率)低下の流れがある。テレビ離れも困るが、活字離れはもっと困るのである。新聞もテレビも相互に補完しあえるメディアとして共存し、人間の匂いのするパワフルな存在でなければならないと、強く思う。



なかい・やすはる会員 1946年生まれ 69年テレビ朝日入社 報道センター政経担当部長 情報番組センター長 報道局長 取締役 常務取締役など歴任 2005年からテレビ朝日映像社長

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