ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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六本木・防衛庁記者クラブ(丸尾 寿一)2008年9月

冷戦下、防衛問題にしのぎを削る
「この8月に横須賀に初めて配備される予定の米原子力空母ジョージ・ワシントンは航海中に火災を起こして現在サンディエゴで修理中のため、横須賀に入港するのは9月以降になるだろう」というテレビのニュースを見て、六本木の防衛庁記者クラブ詰め時代を懐かしく、ほろ苦く思い出した。

●“ミッドウェー配備”を逃がす

横須賀を母港とした初代の米空母ミッドウェーが横須賀に配備されたのが1973年の10月である。

その前の年の秋ごろ、記者クラブの自分のデスクで、統幕が毎月配る海外の軍事情報記事の抜粋集を読んでいたら「米海軍が空母を効率的に海外に展開するため、太平洋と地中海の港に1隻ずつ前方配備する新しい計画を策定し、乗組員の家族が安全に生活できて艦船の修理能力の高い横須賀とナポリが候補地に上がっている」という記事が目についた。

もしかしたらもう具体的な動きが始まっているのではないかと思い、久保防衛局長の部屋に話を聞きにいった。

「アメリカから、横須賀に空母を常駐させるという話はきているのですか」と聞いたら、久保さんは否定も肯定もせず、米空母が極東水域に前方配備されることは極東や日本の安全にとって良いことだが問題もある、という意味のことを言った。

その後海幕を回ったら、ある部長が「米海軍がそういう意向なのは聞いているが政府の話だからこれ以上言えない」と言った。やっぱりそうだったのかと思い、クラブに戻って「アメリカ政府が空母を横須賀に配備するため日本側の了承を求めていることが分かった」という原稿をまとめて社に送った。

原稿はその日の夜のニュースで放送されたが、その後しばらくこの話をほうっておいたら、ある日、朝日新聞の一面に「空母ミッドウェーが横須賀に配備されることが決まった」という記事が大きく掲載された。

もっときちんとフォローしておけばよかったと悔やんだがあとの祭りだった。

「悔やんだ話」や「書かないほうがいい話」ばかりだったが、思い出すままに当時の防衛庁記者クラブのことを書いてみようと思う。

●「4次防先取り」国会

私は1972年と73年の2年間防衛庁記者クラブにいた。担当した防衛庁長官は江崎真澄氏、増原恵吉氏、山中貞則氏の3人、防衛局長は久保卓也氏、広報課長が後に次官になった西広整輝氏だった。

クラブに入った当時は、防衛庁がまだ正式決定していない4次防の装備を一部予算化してしまった、いわゆる「4次防の先取り問題」がニュースの焦点になっていて、社会党の楢崎弥之助氏、大出俊氏、上田哲氏といった防衛問題の論客が、衆参両院の予算委員会や内閣委員会で爆弾質問をぶつけては政府を追及していた。記者クラブも各社が防衛庁の問題を鵜の目鷹の目で探し出して記事やニュースにする競争に明け暮れていた。

増原長官が防衛問題について天皇に内奏した内容を外部に洩らしたとして、国会で責任を追及され辞任したが、これは長官が記者クラブとのオフレコ懇談で話したことを、ある社が記事にしてしまったためだし、3次防で導入が決まり航空自衛隊への納入が始まったばかりのF4EJ戦闘機に空中給油装置がついていることを、野党が「周辺国に脅威を与える」と問題にしたため、政府が制服組の反対を抑えて取り外すことにしたのも、別のある社が書いた原稿が発端だった。

最新型の空中給油機を2機も持っている現在の航空自衛隊を見ればうそのような話だが、同盟国アメリカから応分の役割分担や国際貢献を求められイラクやインド洋で活動している今の自衛隊と違い、当時は米ソ両陣営に二分化された世界秩序の中でひたすら専守防衛に徹することだけが求められていたので、軍事技術的な合理性より非合理的な政治判断が優先されたのだ。この点は今もあまり変わっていないようだが。

●個性派ぞろいの防衛記者

記者クラブは個性的な人が多かった。J社のY記者は長官が記者懇談に遅刻したのに腹を立てて「段取りが悪い」と秘書官を怒鳴りつけ、あわてて入ってきた江崎長官が「まあ、まあ」となだめていた。Yさんは、今も政治評論家として官僚を手厳しく批判している。

後に自社の社長になったY社のO記者はアグレッシブな取材でスクープ記事を連発し他社から「書き魔」といわれてマークされていた。今は軍事評論家としてテレビや雑誌によく登場するA社のT記者は、記者会見で質問していたはずがいつの間にか説明する側の制服組と議論になり相手をたじたじとさせていた。中でもひときわ異色の存在はN社のK記者だった。

学徒動員で帝国陸軍最後の二等兵だったというKさんは生涯一防衛記者としてクラブの主のような存在だった。童顔をほころばせ、小柄な体をゆすりながら「オス、オス」と言って局長の部屋でも幕僚長の部屋でも勝手に入ってしまい、秘書が「来客中なので困ります」とあわてる場面を何度も見た。防衛庁が知られたくない情報を本能的にかぎつけて、とことん取材することに喜びと生きがいを感じていた職人気質の記者だった。

なぜかテレビの駆け出し記者だった私に関心を持って懇意にしてくれ、庁内の人間関係を教えてもらったり、たまにはニュースのネタを教えてもらったりしたが、取材対象に物怖じしない姿勢と取材のコツをKさんから学んだことに今でも感謝している。

●「金大中事件」 尾行のあれこれ

1973年の夏に金大中事件が起きたが、秋が深まったころKさんが「金大中が誘拐される前、自衛隊員が尾行していたといううわさがあるんだよ」と教えてくれた。本当なら大変な話なので手分けして取材することになり、関係すると思われる部署をあちこち回ったがどうしても確証を得られず、Kさんが「いっそのこと警察庁長官に聞いてみるか」と言い出して、当時金大中事件捜査の指揮を執っていた高橋幹夫長官の官舎に夜回りをかけた。

高橋さんはこちらの疑問には答えなかったが「奥の院というのは覗くものじゃないんだ」と謎のようなことを言った。

その後、現役の自衛隊員ではなく情報部門の元隊員がやっている興信所が関係していたことをKさんが聞き込んできて、電話帳で興信所を割り出して所長に会ったがノーコメントだった。

心証として尾行したのは確かだと感じたので「ままよ」と状況証拠だけで原稿にしてしまった。何の目的でやったのか、防衛庁が知っていたのかという肝心な部分が抜けた中身の薄い原稿だったが、社が奇怪な話という点だけ買って、人の褌で取材したのに特ダネ賞をくれた。

年が明けてサイゴン支局に転勤することになり、尾行問題の確認でたびたび押しかけた防衛局のS調査課長のところに挨拶にいったらSさんが「ベトナムですか。大変ですね」と言って最初で最後の食事をおごってくれた。

食事をしながらSさんが「あの時あなたがどこに取材に行ったか全部知っていましたよ。Kさんと高橋さんのところに行ったでしょ。ふたりで高橋さんのところを出て別れたあと、Kさんが引き返してもう一度高橋さんのところに行ったのを知っていますか」と言ってにやりとした。

一瞬あっけにとられたが、やはり防衛庁が元隊員の尾行問題について事情を知っていてマスコミにばれるのを恐れていたのだと分かると同時に、国家権力の怖さを垣間見たような気がした。またKさんの記者根性にもあらためて敬服した。

現在は東京ミッドタウンという名前に変わっている六本木の防衛庁記者クラブ詰めの2年間はあっという間に過ぎてしまったが、学んだことは多かった。



まるお・じゅいち会員 1940年生まれ 64年フジテレビ入社 サイゴン ニューヨーク特派員 社会部長 外信部長 報道センター室長など 2000年退社後 バンエイト専務取締役 現在はFM西東京でコメンテーターを務める
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