ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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雄大なアフリカを飛びまわる(堀 徹男)2008年5月

 ~取材メモの中から~
サバンナのアフリカ・ケニアから、コンクリートジャングルのニューヨークに転勤したのは1980年。まさに“ターザン・ニューヨークに行く”ということで、友人からは「素足で歩くなよ」「背広を着ろよ」という励ましを受けた。

一番驚いたのはニューヨークの黒人たちは私のいう黒人たちでなく、アメリカ人であったこと。いきなりの大都会での生活で道もわからず、つい親しみのわく黒人にたずねたところ、「他の人にききなよ」と素っ気なかった。ケニアでは農作業をしていても手を休めて、どこまでも連れて行ってくれたからである。彼らは肌の色は確かに黒いが、何代にもわたっていろんな困難をのりこえてきたアメリカ人だと思うと納得した。

この時は、ちょうど“レーガン対カーター”の大統領選挙の終盤戦で、政治部出身としてすぐに選挙取材にあたった。しかしアフリカからの“オノボリさん”とあって、取材源もなければ、取材先もわからない中で、途方にくれた思いであった。放送協力協定を結んでいたABCテレビの選挙デスクに基本的なことを教えてもらったうえで、投票当日にはマンハッタンの典型的な投票所に張りつめた。投票を終えた人たち一人一人に、「どちらに投票しましたか」と聞き続けたのであった。私にはこれしか取材の方法が見つからなかった。

その結果、100人近い有権者の8割近くが「レーガン」であった。しかも胸を張って、はっきりと答えてくれ、“私が選んだ大統領”という強い印象を受けた。

そのおかげで開票速報ではABCの協力を得て、早々と“レーガン当確”を打つことができた。現場はニュースの宝庫という新人研修の時の教訓を思い出した瞬間であった。

■西側から初のアンゴラ入り

1978年、政治記者から、いきなりケニアの首都・ナイロビに着任した。“建国の父”ジョモ・ケニヤッタ大統領が亡くなった直後。これまでに全く経験したことのない未知の取材が待ち受けていた。取材範囲はアフリカ大陸全域と中東諸国。2年間のケニア特派員時代に、飛びまわった飛行距離は地球を10周していた。

ジンバブエの独立、アンゴラをはじめとする内戦、ウガンダの暴君・アミン政権や中央アフリカの専制君主・ボカサ政権の崩壊、イラン革命やテヘランの米大使館人質事件などにめぐりあい、出張精算はいつも飛行機の中ですませることが多かった。

内戦の続くアンゴラに、1978年西側のジャーナリストとして初めて入国した。∧入国を許可する∨というわずか3行のテレックスだけが頼りであった。無事に首都・ルアンダ入りできたが、すべては政府の監視下におかれての取材であった。

内戦の傷跡は痛々しく、宿泊先の一流のホテルでも、夕食時間に遅れたら、もう食べられない。部屋の水洗トイレは水道がこわれていて、たまったままで臭い。“飲料水”をいかに確保するかが取材の第一歩で、「水をください」というポルトガル語は今でも忘れない。

最大の関心事はソビエトの指令で“キューバ兵”が展開している現状を確認すること。至る所で目撃することができ、立ちリポ(街頭などで立ったままリポートすること)を装ってテレビカメラにこっそりと納めた。しかし、アメリカ企業の原油採掘現場をキューバ兵が護衛しているという驚くべき光景だけはどうしても撮影できず、残念でならなかった。

政府側にとってはいやな取材を続けているうちに、我々3人のクルーの身に危険が迫ってきている気が直感的に強くなっていた。そこでナシメント首相のインタビューを終えたら、直ちに出国できるよう航空券を秘かに手配しておいた。

首相はインタビューに快く応じてくれたが、始める前に、「ソビエトのラジオ局が同席して収録したいと言っているので良いか」と聞かれたので、「これは単独インタビューという理由をあげて断わっては」と申し入れたが、結局だめであった。首相は私の質問に「我が国はこれからは西側諸国、特に日本との貿易を積極的に進めていきたい」と発言してしまった。その時私ははっとなって、ソビエトのラジオ局のスタッフを見ていた。∧録音中∨だった。

空港で出国間際に、取りあげられていた私たちのパスポートを古い机の引き出しから見つけ出して、パリ行きの飛行機に飛び乗った。パリでVTRを東京に送って、ケニアに帰国した時、目にしたニュースが“アンゴラのナシメント首相の解任”であった。

うすうす感じてはいたが、私たちが雇ったポルトガル人の通訳は、実はスパイであった。

■白人政権ローデシアの農園主

28年間に及ぶ独裁ぶりに、国の内外から強い批判の出ているムガベ政権のジンバブエの独立を取材したときである。黒人ゲリラと白人政権との長い内戦が続き、国民のわずか一割の白人達が次第に追いつめられていた状況であった。

ある大農園主の白人家庭にテレビカメラを持ち込んだ。その家は数匹の狩猟犬が放し飼いにされる中で、電流の通る有刺鉄線に囲まれ、家の窓はすべて銃眼式という大農場の中の“要塞”で、家族が最後に逃げ込む地下壕は、隠し無線機と多くの武器が用意されていた。ヨーロッパから移り住んだ白人たちは“我々はアフリカ人”だと胸を張り、農場や牧場で働く多くの黒人たちとその家族を養っていた。いつゲリラに襲われるかという不安にかられ、片時も銃を手放さない。

私たちに「御馳走を」と農場内を狩猟しながら走行中に、突然タイヤがパンクした。その時大農園主は「早く取り替えろ」と言い放って、小高い丘にかけあがり、銃を構えた。さすがのカメラマンもカメラをまわすどころか必死にタイヤを取り替えていた。一カ月前に、その付近でゲリラ襲撃による犠牲者が出たとあっては無理からぬことではあった。

国際的な制裁を受けながらも、豊かな鉱物資源と豊富な労働力に恵まれて白人政権を守り続けてきたローデシアのスミス首相に単独会見した。彼は「法と正義に基づき、この国を経済的に安定した国家を築き上げてきたので、仮に黒人たちに政権を渡したら、この国はだめになってしまう」と断言していたのであった。残念ながら今のジンバブエを見ると、国情は白人政権時代よりはるかに悪化して、多くの国民を苦しめているといわざるを得ない状況である。

■ゲリラに身柄拘束も

そのスミス政権もやがて黒人勢力との融和策を打ち出すようになり、穏健派グループとの間で政策協定を結ぶようになった。しかし、ゲリラグループは一気に白人政権の打倒を目指して、国外からの攻撃を逆に強めていった。

どうしてもこのゲリラを取材したくて、隣国のザンビアのゲリラ組織に潜り込もうとした。やはり身柄を拘束されてしまった。どんなに日本人だと説明してもわかってもらえなかった。ゲリラがいよいよ移動する日の朝、隊長に呼び出された。

「何のために来たのか」と聞かれ、「あなたたちの考えを取材するため、テレビのインタビューの約束をとりつけに来た」「わかった。移動し続ける私たちの居場所を見つけることができたら、会見を受ける」と言って、私を解放してくれた。

その後何度も彼を探し続けたが、会えなかった。私はイギリスの一流大学を出て祖国の建設に生命を賭けていたあの若者を、いまも忘れられない。



ほり・てつお会員 1940年生まれ 63年NHK入局 ナイロビ ニューヨーク特派員 政治部副部長
ワシントン支局長 ヨーロッパ総局長 解説主幹など 98年退職 その後 北陸大学教授など この4月からNHKラジオ「私も一言・夕方ニュース」コメンテーター

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