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最後の岸番日記から(柳川 卓也)2008年2月

岸信介氏が言い残したこと
1984(昭和59)年の元旦、私は岸信介元首相を訪ね長時間にわたって懇談した。いまなお、かなり鮮明な記憶として残っている。

当時の日記によると、年始客でごった返していた東京・富ヶ谷の安倍晋太郎外相邸を出たのは午後2時30分過ぎ。御殿場到着は、同4時10分ごろであった。ちょうど挨拶を済ませた中村長芳秘書の一家が、入れ替わりに帰途に就くところだった。

応接間に通され、歓談した。前年12月18日に総選挙が行われ、第2次中曽根内閣の党役員・閣僚人事が完了したばかりだったから話題は豊富にあった。話が弾んでいるところへ地元・静岡の小島静馬参院議員、ラジオ関東(当時)の遠山景久社長夫妻らが相次いでやってきた。小島議員は20分ほどで引き揚げたが、遠山氏は私にも話し掛けながら大仰な「岸信介大先生礼賛論」をぶち上げる。

辟易した表情の岸氏は、何度か聞いたことのある回顧談を始めた。

「ぼくは運がいいんだ。これは記録が破られることはないんじゃないかと思うんだが、(巣鴨拘置所から釈放され、政界に入って)4年ほどで総理になった。(翼賛議員だった)戦前の2年を入れても、6年ほどか」

「巣鴨の生活ですっかり人生観も変わったし、身体も丈夫になった。毎日定まった時間に寝て、定まった時間にキチンと規則正しく起こされる。うまい、まずいなんて言っていられない。食べ物も好き嫌いがなくなった」

「広田(弘毅元首相)さんが絞首台にのる時、『雷に打たれるような気持ちだ』と言ったんだが、あれは当時あそこにいた人たちにとって実によく分かる言葉だった。広野で雷に打たれるようなもので、いつ何時、首を締められるか分らない不安な日々だった。私は戦争犯罪(戦犯)容疑者ということで、裁判にはかけられずに3年ちょっとで釈放された」

しばらくして「児玉(誉士夫)はだめかね」と聞く岸氏に、遠山氏は「だめです。もう自分の長男と次男の区別も、つきません。もうだめです」「これから箱根に参りますので、失礼します」と言い残して辞去した。

私も「もう失礼しなくては」と時計を見ながら腰を浮かせると、岸氏は「お腹が空いたでしょう。夕飯を用意させましたから」と引き止める。

少し前に、岸氏の長女で安倍晋太郎氏夫人の洋子さんから「富ヶ谷(の私邸)出発が、予定より遅くなります」との電話連絡が入っていた。事情が飲み込めたので、私は「安倍氏夫妻が到着するまで、ご相伴させてもらおう」とハラを決めた。

午後5時を少し回っていた。

岸氏に勧められて庭に面した食堂に移り、隣り合わせで日本酒とお節料理をご馳走になりながら2時間近く岸氏の話を聴くことができた。

■岸─福田人脈を取材

岸内閣当時の“岸番”以来、私はほぼ4半世紀にわたり、岸氏とその周辺を取材してきた。

岸氏は60年安保で退陣後、自分がつくった派閥を当時はまだ若手議員の一人に数えられていた福田赳夫氏に譲った。福田首相退陣後、森喜朗、小泉純一郎、安倍晋三、現職の福田康夫各氏とここ数年間に4代連続して首相に就任した岸─福田派人脈が私の主な取材対象であった。

60年代後半から80年前半にかけて歴代首相を務めた池田勇人、佐藤栄作、田中角栄、三木武夫、福田赳夫の各氏はいずれも岸内閣の閣僚経験者である。岸氏は当然、これら各氏はじめ自民党の実力者たちに隠然たる影響力を持っていた。

中でも「沖縄の本土復帰なくして戦後は終わらない」と見得を切り、返還を実現した実弟・佐藤首相との関係は緊密であった。

69年アイゼンハワー元米大統領の葬儀に参列した岸氏は、旧知のニクソン大統領に沖縄返還交渉の順番繰り上げと沖縄の“核抜き自由使用”を早めに決裁してくれるよう頼み込んだ。岸氏がその事実を特派員たちに明らかにしたため、佐藤首相は国会審議で追及される破目になった。死後刊行された日記に佐藤氏は、「兄貴が、核抜きはいいにしても、自由使用まで喋って」と不満げに記している。

当時は、一般に「核抜き・本土並み」は到底、無理だろうと見られていた。しかし岸氏は、かなり早い段階で「いや、核抜き・本土並みは大丈夫、実現可能でしゅ」と断言していた。私は当時の政治部デスクにその旨を報告したけれど、その段階では「まだ裏付けが乏しく、(岸氏では)信用できない」と相手にされず、この情報は日の目を見なかった。

首相クラスの政治家から電話で取材できることは、いわば政治記事取材の到達点の一つであろう。

私は60年安保の交渉経過と核抜きの解釈について、御殿場にいた岸氏に直接電話で質したことがある。他紙のワシントン特派員が朝刊で報じた特ダネ記事の“後追い”ではあったけれど、その日の東京新聞夕刊トップを飾った。

締め切り時刻に追われての「電話インタビュー」で、改めて岸氏の記憶力の確かさに驚いた。同時に、外交交渉の裏面にかかわる政治的な決断事項を、極めて明快に説明してくれたことに感謝した。

岸氏は政界での人間関係や政治資金の調達で様々な黒い疑惑の霧に包まれた。ロッキード疑獄関連では、83年に田中角栄元首相を私邸に訪ねて「議員辞職」を勧告したとされているが、真相は不明のままである。周辺の人々も次々に物故して、いまやうかがい知れぬ永遠の謎になってしまった。

「岸信介研究」は今も盛んだけれど、岸氏は気さくで開けっ広げな性格であった。反面、極めて用心深く、ここから先は一歩も入れないという意識が身についていたように思う。聞かれなくても取材の目的は先刻承知、答えはこう。それ以上は、いくら聞かれてもほぼ同じことしか言わない。それが“岸流”の新聞記者対応であった。

■今度は安倍に清和会を

話を本題の御殿場・岸邸に戻す。

岸氏との食卓での話も、まずは前年暮れに行われた改造人事の続きであった。外相に留任した女婿の安倍晋太郎氏について「安倍は、今回は(閣僚を)休ませて閥務に専念させようと思ったのだが、中曽根君が『外交の継続性が大事なので、ぜひ再任にしてほしい』というものだから(承諾した)」と残念そうにいう。

さらに「次の総選挙はいつになるか知らんが、福田(赳夫)君は今度で事実上終わり、次は安倍が清和会(福田派)をやっていかなくてはならんので、今回は休んで派閥の面倒をみさせようと思ったのだが」と、珍しく繰り返した。

「福田君はだ、もう国内のことには目を向けずに世界に向かってものをいうようになってほしい」「それができるのは、福田君しかいないのだから。三木(武夫)じゃだめ、鈴木(善幸)でもできない。福田君か、やがて中曽根(康弘)がそうなれるかどうかだ」

ちなみに、福田赳夫元首相はこれより2年前にOBサミット創設に動き始め、1983年秋にはウィーンで第1回総会を開いていた。

岸氏は84年元旦の段階でこのことをある程度知っていたはずだから、自分が福田氏に譲った派閥会長の座を、今度は安倍晋太郎氏に譲ってくれと言いたかったのだろう。

ともあれ岸氏は、酒が入ると実に愉快そうに次から次へと思い出話の花を咲かせた。「この際、聞いておかなくては」と思ったこともあるけれど、2時間近くほとんど口を挟む暇がなかった。韓国、台湾の指導者論、中国東北部(旧満州)の懐旧談ではとりわけ饒舌だった。

途中で、岸氏がお手伝いの女性に酒を追加するよう頼んだところ「もう、およしなさいませ」。ピシャリとたしなめられて、苦笑いしながらあきらめる一幕もあった。岸氏にはすでに糖尿病の兆候があって、好きな酒も控えめにさせられていたようだ。

午後6時ごろ、かなり大きな地震があった。テーブルの食器がガタガタと音を立て、さすがの岸邸も激しく揺れ動いた。あとで聞いたラジオのニュースによると、震度はマグニチュード7・2であった。

岸氏は、この3年ほど後の1987(昭和62)年8月に没した。


やながわ・たくや会員 1934年生まれ 58年東京新聞入社 外報部
政治部 論説委員 94年退社
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