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財界の良心・平岩外四さん(松本 明男)2007年8月

共生の理念でリーダーシップ
“日本財界の良心”として輝いていた平岩外四さんが5月22日に心不全で亡くなった。1914年(大正3)8月、愛知県常滑市に生まれたので、92・9歳の生涯だった。

東京電力の社長、会長を務め、第7代の経団連会長として、東西冷戦の終えん、バブル経済の崩壊と大デフレ、政治の55年体制の崩壊と自民党の下野など天下大乱の渦中にあった激動期の財界を束ね、「高い志と共生の理念」をキーワードに強いリーダーシップを発揮した。

とくに93年(平成5)9月には、政官財(業)の三極の癒着構造を断ち切るため、戦後38年続いた自民党への政治献金の斡旋を廃止する大きな決断をしたことは特筆される。

財界担当が長かった私は、戦後の経済・産業史を彩った数多くの財界人や名経営者と接し、取材を重ね、語り合う機会に恵まれたが、中でも深く広い教養を身につけた平岩さんは“最高の知性”を備えた大事な存在であり、稀少価値の人であった。

●図書館並み3万冊の蔵書

私が平岩さんと初めてお会いしたのは74年(昭和49)、東京電力の副社長に昇進されたころ。平岩さんが「私にとって経営でも人生でも終生の師」と仰いでいた木川田一隆会長(経済同友会代表幹事)から「将来の東京電力を背負っていく男」と紹介された。以後33年もの間、親しくお付き合いをさせていただいた。

最後にお会いしたのは昨秋。「この歳になると一日一日が大事。この国の行く末をゆっくり見ていきたい」と話されていたのが思い起こされる。この3月27日にも桐花大綬章の受章のお祝いを口実に、一夜ゆっくり話し合いましょうとのお約束をいただいていたが、直前になって、体調不良で欠席との連絡。主賓を欠く会合となったことがかえすがえすも残念でならない。

平岩さんの人間的魅力は、経済や経営の領域を超えた大見識者であったこと。学生時代から晩年まで、論語、韓非子やギボンの『ローマ帝国衰亡史』など古今東西の名著や哲学から文芸作品、少年ジャンプ、劇画まで万巻の書を読破した無類の読書家であり、その教養力と知性の高さは並々ならぬものがある。

大田区東雪谷の自宅地下室の蔵書数は3万冊を超え、図書館並み。晩年になっても毎月50~60冊の新刊書を購入したので、2階の予備室や寝室も満杯になっていた。

ビックビジネスのトップを務め、日本財界の頂点に立った平岩さんの人生は順風満帆のように見えるが、その前半生は波瀾に富んだもの。6歳の時、町の収入役をしていた父鉉平を亡くした平岩さんら5人の兄弟は、生計のため文具・雑貨商を始めた母ていの女手一つで育てられた。

地元の愛知県立半田中学を卒業した際には、親戚から「家計を考え、働け」と進学を反対されたが、教育熱心な母の勧めで、名古屋の旧制第八高等学校に進み、寮生活を送り、39年(昭和14)には東京帝国大学法学部を卒業し、東京電燈(後の東京電力)に入社する。「役人より給与が高く、家に仕送りができる」理由からだった。

●悲惨な戦争体験が原点に

しかし翌年、陸軍二等兵として召集令状を受け、酷寒の満州から、絶望的な南方戦線へと転戦する。ニューギニアの密林では生死の境をさまよい、117人の中隊のうち生還者はわずか7人。この悲惨な戦争体験がその後の平岩さんの人生観と徹底した反戦・平和主義の考えの原点となっていた。

ある時、太平洋戦争の責任について話すことがあったが「敗けると分かっている戦争をどんどん拡大し、多くの人に多大な犠牲と苦痛を与えた15年戦争は、歴史的にみても大きな誤ちであった」「欧米の植民地支配からアジアの人々を解放した正義の戦さだとの見方は納得できない」と、きっぱり言い切られたのが印象的であった。

小泉純一郎前首相の靖国参拝についても「戦場で傷つき、飢えや病のまま密林に消えていった仲間の姿は悲惨だった。あの方たちが靖国の森に戻っているとは思えません」と厳しい口調で批判した。

自民党や財界から大合唱となっている改憲論に対しても護憲派の立場から一線を画し「平和主義と国際共存こそ日本の大事な国是」と断言してきた。その護憲論は「わが国の憲法の精神は単に大戦直後の歴史的所産という以上に、平和を願う人類の希望を見事に表現したものである」(91年5月経団連総会における平岩会長のあいさつ)と改憲論にくぎを刺して以来、全くブレていないのである。

それだけに、愛国心教育や集団的自衛権など昨今の偏狭なナショナリズムの風潮には「戦争体験のない世代のナショナリズムの高まりには危うさを感じる。昭和の初めのころの空気に似ている」と眉を曇らせていた。

●知性派のもうひとつの顔

物静かで熟慮の上で判断する平岩さんは世間では「優柔不断な人」と誤解され、リーダーとして物足りなさを指摘する向きもあったが、私は修羅場における平岩さんのすごみを何度か垣間見たことがあった。

その一つは、80年(昭和55)4月に50%という大幅な電気料金の値上げを実現したときの交渉力。

2度の石油危機による原油高騰に対応して9つの電力会社は政府に料金再値上げを申請するが四面楚歌。折から80年度予算の国会審議中とあって政府、自民党は狂乱物価抑制策のため、ノー。大口需要家の産業界も猛反対だった。

とくに前年10月の総選挙で与党は大敗し、国会は与野党伯仲政治の緊迫した状況下にあり、政局も大福の政権抗争の渦中。「こんな大幅値上げを認めたら、予算は通らないし、6月の参院選挙(6月22日は史上初めての衆参同時選挙になった)は戦えない」と突っぱねられた。

そんな中で、電気事業連合会の会長だった平岩東電社長は、政界の3人のキーマン相手に極秘裡の説得工作に奔走した。単騎秘かに首相官邸に乗り込み、大平正芳首相を相手に「4月に値上げしないと発電所が止まります」と2時間の直談判。「わかった。予算審議中でも認めよう」とのOKをやっと取り付けた。

次は難関の田中角栄元首相、福田赴夫前首相の説得。2人の私邸に駆け込み「値上げを認めていただかないと日本経済が動かなくなります」と懇請し渋々了承を得た。

その時、私は平岩さんがマスコミの目を逃れて、目白台や野沢の田中邸、福田邸を訪ね、直談判していることを察知し、取材に動いていたが「書かれたらこの話はつぶれます」と頼まれ、キーマンとの密談報道を控えたのであった。

この値上げ交渉では、知性の人、理念の人といわれる平岩さんの別の顔。汚れ事(ダーティワーク)を処理する手腕の凄さをあらためて知った思いであった。

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回顧録や私の履歴書のようなものを一切書かなかった平岩さんだったが、ある経済雑誌の依頼で95年夏から秋にかけて前後6回、延べ12時間にわたって対談する機会があった。嫌な質問にも笑みを絶やさず、訥々とした口調でその生い立ち、戦争体験、政財界の裏面史からこの国の将来。さらに文学作品から歴史、哲学、音楽、座右の銘まで縦横に語っていただいた。汲めども尽きぬコクある楽しい対談だった。



まつもと・あきお会員 1934年生まれ 58年日刊工業新聞入社 編集委員 論説委員 政経部長 論説委員長を経て 93年退社 現在日刊工業新聞客員論説委員 経済評論家
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