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皇太子さまコンサート(渡辺 みどり)2007年7月

花束ハプニングにみた“帝王学”
時は、1985(昭和60)年9月20日、夜9時半。所は、英国、オックスフォードのセント・モードレン教会。流れる「蛍の光」のメロディー。教会を埋めつくした500人の聴衆。

●初モノだらけの収録

アンコールを終え、なおも鳴りやまぬ拍手…「浩宮さま・英国お別れコンサート」を日本テレビ1社で、単独収録し終わった時のことである。3台のカメラは、なおもしつように回り続ける。2カメラは皇太子さまのアップを、3カメラは宴(うたげ)後の雰囲気をフォロー、1カメラも楽屋の前でゲストのごあいさつを受ける皇太子さまを追って移動する。

曲目をご紹介しよう。バッハ作曲「ブランデンブルク協奏曲6番」、ヘンデル作曲「グランド・コンチェルト616」、宮城道雄作曲「春の海」、イギリス民謡「グリーンスリーブス」、「浜辺の歌」、「主よ、人の望みの喜びを」。

皇太子さまは、故浜田徳昭先生に師事されて、古楽器、バロックビオラを習われすでに9年のキャリアをお持ちだった。当時、「バッハ・コレギウム東京・日本オラトリオ連盟」のビオラ奏者として、ご勉強のかたわら演奏活動を続けていた。2年間、皇太子さまの留学に同行された東宮侍従、富士亮さん(故人)もバイオリン奏者として皇太子さまをバックアップ、共に音楽活動されていた。

私が、ある筋から英国オックスフォードで皇太子さまのお別れコンサートがある、という情報をつかんだのは、皇太子さまが留学を終える2カ月前、昭和60年7月中旬。お正月の「スペシャル番組」という課題を上司につきつけられ悩んでいた私にとって、このテーマはうってつけのものだった。

皇室メンバーの海外でのコンサート収録は初の試みでもあった。まず、関係者と文書での承諾を取り付ける。収録の撮影機材は経費節約のため現地レンタル。これも初体験だった。当時、テレビ技術をリードしていた池上通信機欧州貿易部から、ヨーロッパに3台しかない(当時)HL79Eというテレビカメラをロンドンにかき集めた。9月20日、技術スタッフの協力もあり、ようやく本番収録にこぎつけた。

コンサート収録中にハプニングが起こった。演奏終了後、金髪の子どもたちが皇太子さまに花束をお渡しする準備をしていた。若い女性スタッフが、5人の英国人の子どもたちに花束を持たせて、いまや遅しとスタンバイ。

ライトはこうこうと輝く。異国の教会でのクラシック・コンサートは最高潮。カメラ3台を使ってコンサートを収録するという「修羅場」の雰囲気に、のまれてしまったのだろうか。若いスタッフが第1部終了の割れんばかりの拍手をフィナーレと勘違い! 最前列で待機していた子どもたちを誘導し花束贈呈をすませてしまった。一瞬のできごとで止めるすべもなかった。

●びしょ濡れのブーケに

さあ大変。本当のフィナーレにお渡しする花束がないではないか。演奏終了まで、たった20分。指揮官(?)はカッとしてはいられない。

「あ、これ、これだ!」

教会の入り口にあった大きな花瓶に突進した。

べそをかくスタッフやロンドンから応援に駆け付けた特派員まで総動員。薔薇、あざみ、ゆりなどをひもで縛った急ごしらえの花束を作ってはみたものの、花瓶にさしていた花なのでびしょ濡れだ。

フィナーレの「蛍の光」。再び会場を揺るがす拍手。若いスタッフは、有無を言わせぬ私の圧力に気力を振り絞ってびしょ濡れの花束を子どもたちに持たせ、舞台に誘導。皇太子さまにもう一度花束を贈呈したのである。

上気した皇太子さまは燕尾服が濡れるのにもいやな顔をなさらず、ニコニコとびしょ濡れの花束を受け取ってくださったのだった。

普通ならば、「なんだこれは、びしょ濡れの花。服が汚れるじゃないか」としらけて怒られる可能性は大いにあり得る。相手の身になって物事を考える─ああ、これが「帝王学」なのだと私は納得した。

なおも鳴りやまぬ拍手。私の脳裏には、その昔、バイオリンのレッスンにつき合われ、「ボク、いやだ、もういや!」とむずかるナルちゃんを優しくなだめる、美智子さまのお母さまぶりが浮かんで胸が熱くなった。

●音楽談議が止まらない

時の勢いは恐ろしい。楽屋前で、ついに単独インタビューに成功した。興奮ぎみの皇太子さまの音楽談義はとどまるところを知らない。

「2年間の留学生活の中でいちばん成果があったことは、ヨーロッパの音楽を生で感じることができたことで、いちばん印象に残ったことは、ザルツブルク音楽祭に行けたことです。カラヤン指揮のリヒャルト・シュトラウスの『薔薇の騎士』、コベントガーデンで見たロッシーニの『シンデレラ』、アマデウス・カルテットもよかったし、エリザベート音楽コンクールに日本人が、シベリウスの曲で参加しているのを夜中の一時ごろまで応援しました。オペラは本場のスカラ座(ミラノ)で『カルメン』を観たのが、非常に収穫でした」

爽やかにご趣味の一端を披露してくださった。

私はこれまで皇太子さまのコンサート収録には3回お付き合いしている。このコンサート収録は、実は2度目であった。

収録大成功のお祝いとお礼の挨拶にスタッフ全員を紹介、いちばん最後に私が、

「チーフプロデューサーの渡辺でございます」

と挨拶しかけると

「渡辺みどりさんとは上野でお会いしているじゃありませんか。あの時のテープ、大切にしています」

とおっしゃるではないか。

「上野」とは、上野の東京文化会館のことだ。1980年春、学習院大学ご卒業のときに「バッハ・コレギウム東京・日本オラトリオ連盟」のコンサートで皇太子さまが首席ビオラを担当された、文字どおりコンサート・デビューであった。曲目はバッハの「ロ短調ミサ」。

この時はご両親陛下もお出ましであった。お二方は2階正面の席から、ひとつのオペラグラスをご夫婦仲良く使い回しされて、ビオラのトップ奏者である我が子の演奏を見守っていらっしゃった。

この「ロ短調ミサ」は昭和天皇崩御の48時間放送の締めくくりに放映。おじいさまへの鎮魂の最高の贈り物になったと自負している。

3度目は英国からご帰国の翌年、1986(昭和61年)年4月19日、学習院の講堂での「モーツァルトの夕べ」であった。この時皇太子さまは、首席ビオラを担当された。コンサート収録は特別のお許しをいただいて、テレビカメラ6台、音楽録音車1台を使っての大規模なものであった。曲目は「交響曲第36番リンツ」「フルートとハープのための協奏曲」「戴冠ミサ曲」である。

こんなことがあった。収録後の慌ただしい雰囲気の中、廊下で皇太子さまが走り寄って来られた。「あ、渡辺さん、お疲れ様でした。ビデオテープくださいね。それと音楽テープのほうもよろしく」とリクエストなさった。



わたなべ・みどり会員 1934年東京生まれ 57年日本テレビ放送網入社 報道局で昭和天皇崩御報道のチーフプロデューサーを務める 90年退社 現在 文化女子大学客員教授
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