ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


書いた話/書かなかった話 の記事一覧に戻る

東南アジア特派員の往時茫々(北畠 霞)2007年3月

「クーデター」の洗礼
1950年代から60年代にかけて東南アジア諸国ではクーデターが多発した。発展途上のため政情不安になりやすく、国内で唯一まとまりのある軍部が民間政権に揺さぶりをかけたり、軍部の派閥間の争いが表に出たりすることが多かったからだ。

そのころ東南アジアで特派員をした記者は大なり小なりクーデターの洗礼を浴びている。私は行くところ常にクーデターにぶつかり「クーデター男」になった感があった。

●サイゴン…「上を向いて歩こう」

古い話になってしまうが、南ベトナム共和国(当時)のゴ・ディン・ジエム大統領が殺害されたクーデターは1963年11月だった。短期の取材旅行で、このクーデター直前にサイゴン(現ホーチミン市)を訪れ、クーデターを知ったのはラオスにいるときだった。そのときのサイゴンの暗い雰囲気はいまだに忘れられない。ラオスから数日たってサイゴン入りしたが、政情不安は一層ひどくなっていた。

東南アジア特派員としてサイゴンに赴任したのは1965年2月のこと。そのころも毎日のようにクーデターのうわさがあった。支局助手のボ・バン・トさんは何かというと

「大変です。明日、クーです。これがその閣僚名簿!」

と息を切らせて帰ってくる。情報はおおむねガセネタだったにせよ、軍部内で動いているグループが実際にあったのかもしれない。

6月になると一部高級将校によるクーデターの試みをグエン・カオ・キ将軍が押しつぶし、自ら政権を握った。こうした事態になると、戒厳令や非常事態が宣言されたり、夜間外出禁止令が出たりする。外出禁止時間(このときは午後10時~午前6時)開始前までに原稿を電報局に持っていかねばならないが、時には外出禁止の時間帯に入ってしまう。

今と違ってそのころは、タイプライターでローマ字の原稿を作らねばならなかった。電報局員はそのローマ字原稿をティッカーという細長い紙のテープに、それぞれのローマ字に対応する穴をあけ、それを機械にかける。これが本社の外信部なり外報部なりの受信機に入り、穴の字を読み取ってローマ字の原稿が出てくる仕組みである。

というわけで、情報入手が少しでも遅くなると外出禁止にすぐひっかかる。そういう時はどうするか?
 「そういう時はな、なるべく大きな道路のど真ん中を一人で、大声で歌を歌いながら歩くのさ。複数で歩くと怪しまれるから、一人でだぞ。こそこそと裏道を行けば警備の兵士の目を引き、悪くすれば撃たれる」

というのが50年代初めからバンコク支局で活躍した先輩の助言だった。

これを思い出し、「上を向いて歩こう」を大声で歌いながら電報局に行ったものである。

●ジャカルタ…「暗号作戦」

サイゴンに赴任した年の9月30日に、こんどはインドネシアでスカルノ大統領追い落としのクーデターが発生した。現地に支局が置かれていなかったので、いちばん近いサイゴンから行けという指示で、ジャカルタ行きを目指すが、ビザを取るのに手こずって現地に入ることができたのは十日もたってから。悪いことにここでは外出禁止は午後6時から始まる。当時は足で三輪車をこぎ、客を後ろに乗せる「ベチャ」がほとんど唯一の交通手段だったので、帰る時間の関係から午後4時になるともうどこにも行ってくれない。

現地には早くから他社が支局を開いて活発な活動をみせており、東も西も分からぬ当方は戸惑うばかり。シビレをきらせた東京はインドネシア取材の切り札である奥源造デスクを支局長として送り込んできてくれた。奥支局長は東京外語大のインドネシア語科卒業で、現地での人脈も豊富なのは言うまでもない。

早速二人で9・30事件後の動きを分析し、必ずもう一度、軍部が動いて名目だけになっているスカルノ大統領を完全に追い落とすだろう。そのときのために、どうすれば本社に最も早く知らせられるか。

簡単な暗号を作り、これを事前に本社に知らせておく。一方、こちら現地ではマスコミ以外の日系企業に話をつけ、その会社の東京本社に暗号でローマ字原稿を送ってもらい、本社に知らせてもらうのが最善だとの結論になった。

そのころ外国マスコミの使用言語はインドネシア語か英語のどちらかと決められていた。急ぎの原稿は電話で送るが、ついこの前まで有楽町(その頃まで本社は有楽町駅の近くにあった)のガード下で飲みあっていた同僚と英語で話すと、ついつい「それでね」などと日本語の合いの手が入る。すると「スピーク・イングリシュ・プリーズ」と怖い男の声で警告が入る。原稿も英語で書かねばならない。このあと英語で文章を書くのが苦にならなくなったのはクーデターのおかげである。

しかし、実際にわれわれが考えているような事態(スカルノ大統領の最終的な追い落とし)になれば、英語の原稿では検閲に引っかかるだろう。そもそも電話もかけられないのではないか。

●「…淀君は無事…」

ところが民間企業はローマ字による情報送信が許されていた。これに目をつけた奥支局長がその広い顔と信用を活用してある日系企業に頼み込み、いざとなれば営業活動を装って東京に送信してもらうことにした。そのためには新聞原稿の用語は使えない。

そこでスカルノを「秀吉」、スハルト将軍を「実盛」、デヴィ夫人を「淀君」などとあらかじめ決めておき、ローマ字化するにも若干工夫をこらして、暗号一覧表を東京本社に送り、その日を待った。

1966年3月12日未明、待ちに待った連絡が、かねて出入りの将校や軍部支持の学生から入った。

「今朝6時15分からのラジオ放送に注意するように」

その放送内容でわれわれが予測していた状況になったことを確認して、送信をお願いしていた会社のオフィスに走った。

そのとき打った原稿は直訳すると「実盛の反秀吉ポンコツは事実上終わった。淀君は無事」という噴き出しそうな文章だが、暗号表から「スハルトの反スカルノ・クーデターは事実上終わった。デヴィ夫人は無事」と訳せる仕組みである。手書きの数枚の暗号表は、今も私のアルバムに残されている。

この記事は当日の12日夕刊に間に合い、外国通信社も引用する特ダネとなった。

                           ◇

その後、ワシントン支局勤務となり、もうクーデターと縁は切れただろうと思っていたところ、1973年9月、チリでアジェンデ政権を倒すピノチェト将軍のクーデターが発生した。

「クーデターなら任してください」と支局長に自ら買って出て、隣国アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで数日、待機して最終的にはチリの首都サンチャゴに入れたが、歴史に残る流血をみたこのクーデターの話は、また別の機会にしたい。



きたばたけ・かすみ会員 1932年生まれ 56年毎日新聞入社 65年から83年外信部勤務のほか 東南アジア支局 ワシントン支局長 論説委員など 84年から87年ニューズウィーク日本版創刊のためTBSブリタニカ社勤務 その後 神戸市外国語大学教授 関西国際大学教授 副学長 学長 学校法人「濱名学院」理事長など

ページのTOPへ