ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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ラジオ報道一筋30余年(西山 弘道)2006年10月

マイクで拾った話 拾えなかった話
30数年間、マイク片手にラジオ報道一筋で過ごした私にとって、心残りは一つもスクープを取れなかったことだ。従って、この欄に載った諸先輩の輝かしい特ダネ話は私には無縁である。だが、汗だけは同じように流したつもりなので、私の取材メモを綴ってみたい。

■ラジオは肉薄が命

新聞記者にとって筆・ペンが命であるよう、ラジオ記者にとってはマイクが命である。録音するには、マイクを対象に接近、肉薄しなければならない。現場にカメラより前に出て、マイクを突きつけるからよくカメラマンと喧嘩をしたものだ。「とにかく肉薄しろ」と先輩から言われ続けてきたものだから、珍事も起きる。これは開局した昭和28年頃、わが社に残る伝説的な話である。

国会内で当時の吉田茂首相と鳩山一郎氏の重要会談が行われた。会談が始まり、取材の報道陣が下がったころ、何を思ったか、わが社のT記者は会談のテーブルの下に録音機を持ってサッともぐった。厚地のテーブルクロスがかけられてあったから、吉田・鳩山両氏にはわからない。T記者は結局、会談の内容をすべて録音してしまった。

「何もスクープをとるというつもりでなく、録音機材の点検をしているうち、つい出そびれてしまった」というのがT記者の弁だが、さすがに当時のデスクはこの録音テープを放送しなかった。

■おしゃべり六さん

さてこれからは私の取材記だが、永田町の政治家たちは異能人間、自己顕示欲人間の集まりだけに人間学的に大いに興味がわく。しかし、本音と建前の世界でもあるだけに、マイクを向けても建前しかしゃべらない政治家が多い中で、まれに本音もあけすけにしゃべる政治家がいた。中川一郎、渡辺美智雄氏らだったが、中でも元自民党幹事長の田中六助氏は“おしゃべり六”と異名をとっただけにマイクなど全く意識せず、本音をズケズケしゃべった。

昭和53年の福田内閣末期、時の大平幹事長が総裁選出馬を表明、“大福決戦”かと騒がれていた時、私はまだヒラ代議士だった田中氏を議員会館に訪ねていった。私がマイクを向けると、六さんは声を潜めて重大なことをスラスラ話し始めた。いわゆる“大福密約説”である。

「大福が都内某所で会った時、ボクもその場にいたんョ。そこで福田さんが『自分が2年やったら、次は大平さん、あなたに政権を渡す』とはっきり言ったんョ」。

アングラ情報としては流れていた大福密約説を当事者からマイクに拾ったのは初めてであった。「おしゃべり六」の面目躍如であった。

■会議は踊る~ボンの一夜

政治記者としてサミット取材も何度かこなした。忘れられないのは昭和60年、中曽根首相の西独ボン・サミット訪問である。首脳会議が終わった夜、市内の由緒ある古城で、西独コール首相主催の晩餐会があった。記者団も招待されたが、皆本社への送稿が忙しく誰も行かないので、リポート送りを終えた私はNHKの某記者と2人で出かけた。

会場の広間はこじんまりとした部屋で、ブラックタイで正装し、着飾った首脳と随員が狭い部屋にひしめいている。こちらは普段のヨレヨレになった背広姿で「ヤバイ」と思ったがままよとばかり、出されたグラスを持って広間に入った。

最初に目の前に飛び込んできたのが鮮やかなブルーのドレスに着飾ったサッチャー英首相だった。「ハウドゥユドゥー」と優雅に手を差し伸べ、ペラペラ話しかけてくるではないか! ドギマギ、頭は真っ白、「サンキュー、サンキュー」ととんちんかんなことを言って、ほうほうの体で離れようとして後ろを向いたら、ミッテラン大統領とぶつかった。あわてて「ごめんなさい」とフランス語で言おうとしたが、言葉が出てこない。大統領は眼光鋭く「何だ、このジャポネの記者は」と言いたげに私をにらみつけた。

とにかく隅の方へ行こうと壁に逃げたら、随行の竹下登蔵相と安倍晋太郎外相が所在なげに“壁の花”になっていた。2人とも語学はあまり得意ではないらしい。一方、わが宰相・中曽根氏は広間の中央にしゃしゃり出て、英語でレーガン米大統領と得意気に話している。思えば豪華なメンバーだった。

この時ほど、わが語学力の不足を嘆いたことはない。一度でサミット首脳との単独会見が成功したのだ。あぁーしんど……。

■サイゴンで従軍記者

ラジオ報道は小世帯であり、取材も広く浅くのゲリラ手法だったが、その代わり、大事件のほとんどの現場は踏むことができた。よど号、三島由紀夫事件、浅間山荘…みな強烈な思い出があるが、中でも忘れ難いのはベトナム戦争取材である。

私がサイゴン(現ホーチミン市)に飛んだのは昭和47年、パリ和平協定の交渉が始まり、現地で和平の動きを探ろうというものであった。サイゴン市内のホテルの部屋で旅装を解いてホッとしたとき、ボーンという鈍い音とともに、窓ガラスが割れた。びっくりして部屋を飛び出し、フロントに聞いたところ「ベトコンのプラスチック爆弾、いつものことさ」と事もなげで、戦場に来たことを実感した。翌日、米軍の司令部に向かい、プレスカードをもらった。ヘルメットも買い込んで従軍記者に早変わりした。

市内には米兵専用のバーが何軒かあったが、ベトコンのテロを防ぐため、すべての店は鉄条網で覆われていた。私も何度かこの“檻の中”の店に行ったが、飲みに来ている米兵は皆若かった。20歳位か、あどけない顔の米兵もいた。マリファナを吸いながら、「俺たちは何のために、アジアのこんな遠くに来ているんだ」と酔って泣いていた。映画「プラトーン」の世界がそこにはあった。

ある日、私の専属だったシクロ(人力車)の運転手が姿を消した。50がらみの人のよい男だったが、代わりに来た運転手に聞いたところ、「彼はベトコンのスパイだった。正体がバレそうになったので消えたんだ」。戦火の街は噂と混乱と騒擾に包まれていた。

私のベトナム取材は一カ月で終わったが、この3年後サイゴンは陥落した。その後、ベトナムには行っていないが、一度行ってみたい。そしてあのベトコンだったシクロの運転手にも会ってみたい。今ごろはベトナム共産党の幹部になっているかもしれない。

■昭和天皇崩御のとき

政治記者として三角大福中の“永田町戦国史”を取材できたことはラッキーだった。

そしてロッキード事件、衆参ダブル選挙での中曽根自民党圧勝、リクルート事件等々、忘れられない取材が数々あったが、その中で特筆したいのは何と言っても昭和が終わった日、「昭和天皇崩御」だ。

昭和63年9月、昭和天皇が吐血され重篤になられてから、わが社も「その日」に備えてのプロジェクトチームができた。私は志願してチームのキャップになった。

私は「昭和」に特別の思い入れがあった。昭和20年、中国・旧満州に生まれた“引き揚げ世代”の私だが、引揚船の中で3歳上の兄を栄養失調で亡くした。私も死ぬ寸前だったが、母親の必死の看病で帰還することができた。

7年前に亡くなった母親は、中国残留孤児のニュースが出ると必ずテレビを消した。つらくて見られないといつも言っていた。戦争とは、昭和とは、何だったのだろう。私は「昭和の時代」をもう一度、振り返りたかった。

真冬にしては暖かかった昭和64年1月7日、「崩御」が発表された。それから2日間、CM抜きの特別番組が編成され、私はメーンキャスターとして自分なりの感慨を胸に「昭和の終幕」を語り続けた。



にしやま・ひろみち 1945年生まれ 69年文化放送入社 報道記者ニュースキャスター 報道部長 編成局次長などを経て 05年退社 現在 拓殖大学非常勤講師
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