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エチオピア革命異聞  ( 宝利 尚一)2005年6月

情報源は信頼できたか
エチオピアの首都、アジスアベバから北へ約650キロ、エリトリア州の州都、アスマラ(現在のエリトリア国の首都)はヤシの並木が続く美しい街だった。アラブのにおいと、イタリア植民地時代の西洋館の明るい色が奇妙に調和していた。31年前の1974年3月初めのことだった。

3000年の歴史を誇るアフリカ最古の独立国、エチオピア帝国を治めていたハイレ・セラシエ皇帝が廃位される6カ月前だった。アスマラ駐屯のエチオピア陸軍第2師団が1974年2月26日、兵士の給与大幅引き上げを要求して皇帝に反乱を起こした事件を取材するため、空港再開と同時にアスマラに飛んだ。

当時、私はカイロ特派員だった。第4次中東戦争とその戦後処理がひと段落したころ、エチオピア帝国で「革命」が進行しつつあった。その年の3月から12月にかけて、計4回、41日間、エチオピアに出張し、各地を取材した。アスマラでは、第2師団の将校に話を聞いたり、エチオピアからの分離独立闘争を続けていた「エリトリア解放戦線(ELF)に近い筋」とも接触した。

7月の出張では、2月の軍部の反乱以降、アジスアベバで「静かなクーデター」が進行していたのを肌で感じた。首都で改革派の「軍事委員会正式メンバーの1人(大尉)」と単独会見し、同委員会の議長が第3師団出身の急進改革派、マングスト少佐(その後メンギスツと表記された)であることを聞き出した。

そして9月12日、「諸王の中の王」「ユダのライオン」と称されたセラシエ皇帝は廃位させられた。治世44年、82歳の皇帝、最後の日だった。

日本でも親しみをもたれていたセラシエ皇帝は、近代エチオピアの基礎づくりに努め、アジスアベバに本部を置くアフリカ統一機構(OAU・現在のアフリカ連合)の創設に指導的な役割を果たした。しかし、帝国の荒廃と若手将校の急進的な改革に、年老いた皇帝はついていけなかった。

エチオピアの軍事評議会(7月の軍事委員会を改称)は11月下旬になって、皇室の腐敗に関係した前皇帝の近親者、高官のほか、軍事政権の穏健派指導者ら計61人を処刑した。その直後、私はエチオピアへ4回目の出張をした。皇帝を廃位に追い込んだ急進派指導者が誰かを確かめたかったからだ。エリトリア出身で穏健派のアマン・アンドム将軍(軍事評議会議長)が処刑されたことは、急進改革派が社会主義体制の確立を目指していることを示唆していた。

私はマングスト(メンギスツ)・ハイレ・マリアム少佐の「実像」に迫ろうと努めた。アジスアベバで「マングスト少佐の友人と少佐の父親(夜警をしていた)」から話を聞いた。少佐が軍事評議会第1副議長であることを知った。

私の原稿は12月8日付け国際面(当時は外報面)に掲載された。「少佐はエチオピア南部カッファ州クロコンタ地区の貧しい家庭の出身で、今年32歳。…ホレタの軍事学校を中尉で卒業、アジスアベバの陸軍部隊、アスマラの第2師団で大尉に昇進、その後ハラレの第3師団に配属され、米英両国にも留学した」と書いた。そして「『独裁的傾向』をみせたというアマン将軍を解任直後〝処刑〟したのも、マングスト少佐の『変革か死か』という考え方に近いもの…」などと続けた。

私は日本のメディアでただ1人、少佐の経歴の一部を解明したと自信を強めた。アジスアベバから東京に原稿を送った後、エチオピア・テレビの記者、カメラマンらと9日間かけた南部飢餓地帯取材の旅に出た。  カイロに帰任した私は、ライバル紙の朝日新聞を見て驚いた。朝日新聞も私と同じ12月8日付け国際面でメンギスツ少佐の出自を詳しく伝えていた。筆者は私の友人で、エチオピアでも同時期に取材していたカイロ支局長の鴨志田恵一特派員だった。見出しは次のようだった。 「エチオピア革命 ナゾの指導者 最下層出身メンギスツ少佐? 差別に配慮、名秘す 怒りの果ての大量処刑」

私の原稿の見出しは次のようだった。

「エチオピア 影の実力者 マングスト・マリアム少佐 『変革か死か』の行動派 32歳、同志数人と評議会牛耳る」

両紙の見出しを見ると、同一人物とは思えない。朝日新聞の情報源は「少佐の友人で、アジスアベバ駐在の外国情報機関に勤める40代のエチオピア民間人」だという。少佐は「42歳で2男2女の父」「エチオピアの主要民族アムハラ族の最下層ショウワ階級の出身で、父親はドアボーイだった」「エリート軍人のアマン将軍は露骨に(下層部族出身の少佐らに)差別と嫌悪をみせたのではないか…(処刑は)政治的姿勢の差ではなく、怒りが流血の事態を招いた」としている。

両紙を併読している読者は混乱しただろう。私は、日本から遠く離れたエチオピア革命のほんの一部でも読者に伝えようと努めていたが、自信がなくなった。

年が明けた1975年1月末のころだったと思う。NHKカイロ支局の平山健太郎支局長から電話があった。前年秋、平山特派員もエチオピアに出張していた。「文春の2月号が届いた。読売、朝日のメンギスツ像についての批評が載っているよ」

平山特派員から月刊文芸春秋1975年2月号を借りて読んだ。当時文春には「新聞エンマ帖 報道に物申す」という4ページのコラムがあった。国内記事4本の批評の他に、エチオピアに関する批評が1本あった。

「新聞エンマ帖」は、朝日、読売の描くメンギスツ像が違いすぎる、アマン将軍の処刑も「怒りの果ての処刑」なのか、「大義にもとづく使命感」によるものなのか、分からないと批判していた。「大げさに言えば、エチオピア革命の評価にも微妙な影響を与えるのではないか」「記者の独断や憶測をまじえた眼で革命の裏面をのぞき見ることだけはつつしんでほしいものだ」と指摘された。

「記者の独断や憶測」はなかったと今も信じている。しかし、「情報源」の情報の信憑性、信頼性については、もう少し丁寧にチェックすべきだったかもしれない。私のアスマラの情報源は「ELFに近い筋」で「アジスアベバ大学を卒業、現在アスマラに住む若い消息筋」だった。たった一つの情報源をもとに記事にするにはリスクが大きい。

メンギスツ少佐についても「友人と父親」から数回話を聞いたが、別の情報源にも確認すべきだった、と反省している。

海外特派員は、赴任地で日本人記者が少ない場合、出張などで「つるんで」取材することがある。だが、私と鴨志田特派員はエチオピアで風邪薬を融通したことはあったが、常に独自取材を心がけた。独自の情報源に接触し、革命の指導者像をつかもうとした。結果は、かなり異なる人物像になってしまった。

ロンドンで発行された1982─83年版国際人名録によると、メンギスツ少佐は1937年生まれ(革命当時37歳)、ホレタ陸軍士官学校卒、第3師団配属、セラシエ皇帝廃位に重要な役割を果たし、1977年国家元首、中佐などと書かれていた。共同通信社の1986年版世界年鑑でも1937年南部生まれ、下層多数部族オモロ族出身、陸軍士官学校卒、臨時軍事評議会第1副議長を経て、1977年臨時軍事評議会議長(国家元首)などとなっていた。

「南部の下層部族出身」は一致するが、年齢は日英の人名録でいずれも「37歳」となっていた。朝日、読売とも年齢が間違っていた。ジャーナリストは常に信頼できる複数の情報源を探して正確さに努めなければならないことを実感した。

わずかな救いは「新聞エンマ帖」が「これだけの記事をまとめあげた努力については相応の敬意を払いたいが…」と書いていたことだった。

ほうり・しょういち 1939年東京生まれ 63年読売新聞社入社 外報部 経済部 解説部 72年カイロ特派員(3年) 80年パリ支局長(4年半) 86年アメリカ総局長(約3年) 89年論説委員 2000年北海学園大学人文学部教授 01年北海道大学大学院国際広報メディア研究科客員教授 著書に「日本の中東外交」(教育社)仏訳「大統領ミッテラン」(読売新聞社)など
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