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メランコリーの行方 定型と個性の葛藤(梅津時比古)2017年1月

ドイツ・ルネサンス期のルカス・クラーナハ(1472~1553)は、極めて現代的な生産体制をとった画家である。

 

バイエルン州の出身、ウィーンで修行し、ザクセン選帝侯に招かれてヴィッテンベルクに大きな工房を構えた。宗教画に裸体を大胆にとり入れる革新的な手法で注目を浴び、多くの肖像画や裸体画を描いて、名声を博した。

 

私たちが教科書等でよく目にしている宗教改革の創始者、マルティン・ルターの肖像画もクラーナハの作である。

 

その作画法が独特である。

 

クラーナハの工房は親方と徒弟から成る中世以来の組織とは異なり、ポーズを描く専門家、表情描写を得意とする者、衣装あるいは装飾品に通じた描き手などを集め、分業によって作品を仕上げる組織であった。クラーナハの印を付けて世に送り出す一種のブランドである。

 

制作の素早さが当時としては驚異的であり、称賛の言葉が多く残っている。社会に、迅速という要素を持ち込んだことは注目されよう。

 

「クラーナハ展~500年後の誘惑」(1月15日まで国立西洋美術館)に集められた裸体画や肖像画を追っていると、作品として随所に見られるパターン化に気づく。

 

同じ構図の多くの作品は、画題名を入れ替えても気がつかないのではと思われるほどである。事実、現代になって、クラーナハ風の裸体画を縦、横にずらりと並べたパロディー画も制作されており、それも展示されていた(レイラ・パズーキ「ルカス・クラーナハ《正義の寓意》1537年による絵画コンペティション」=2011年)。

 

■伝達と表現 変容の歴史

 

パターンは早さをもたらすだけではなく、定型表現によって主題が明確に伝えられる。

 

女性がはだけた自らの胸に短刀をあてがっていれば、何度も描かれた定型として、それは夫の留守中に手篭めにされて自害したルクレティアが主題と、すぐに分かる。

 

しかしクラーナハは、作品の中にその絵の固有の個性をも描きたかったであろう。

 

今回の展覧会では、ルクレティアに材をとった絵が3枚展示されており、いずれも刃を胸に当てている。3枚のうちではいちばん後に描かれた1532年のものは衣装を全て取り去った立ち姿で、この絵はほかのものと訴える力が微妙に違う。絵の中ではごく小さな部分だが、ルクレティアの少し寄せられた眉の下、灰青色の2つの目が、彼女の悲劇を表している。瞳の中心が、透きとおってゆく苦しみに見える。

 

クラーナハはここを描きたかったのであろう。定型と個性の葛藤が見られて、興味深い。それが優れて現代の問題に通ずるからである。

 

新聞は情報の伝達としての役割から見られることが多いが、言語の視点に立てば、「言葉」を生産する巨大な工房の様相を呈している。各新聞の名の下に日々、これほど大量の言葉を生産し続けている組織体はないであろう。

 

そこに、クラーナハの工房に見られた定型と個性の問題がそのまま当てはまる。

 

新聞における表現としての言葉を明治時代からたどると、まさに定型と個性の葛藤がうねりながら変容してきた流れが見える。

 

文語表現に近い当初の記事には定型がひしめいている。

 

文語自体が定型を歴史的に確立した文章なので、定型・様式に当てはめることによって伝達と表現がたやすく一致する。伝える内容をはっきりと表現しながら冗漫に陥らない。

 

たとえば、「天気晴朗ナレドモ波高シ」は定型中の定型であるが、リズムといいイメージの幅の広さといい、格調が自然に備わっている。しかし定型も過ぎると、空疎な美文になりがちである。

 

おそらく新聞の文体が口語体に近い現代文になってから、定型と個性の葛藤が苦衷の度を強めたのであろう。詩人が悩んだ問題を、新聞も同じくしたのである。

 

「君は花のように美しい」と言い寄っても、ロマン派の時代ならいざ知らず、現代ではそのようなありふれたパターンの言葉に心動かされる女性はいないに違いない。しかし、なんとしてでも個性的な固有の表現をと試みた結果、ロートレアモンのように「手術台の上でこうもり傘とミシンが出会ったように美しい」と言葉を紡げば、今度は意味不明になりかねない。通り魔の現場を見た人を取材して

 

「怖かった」と唇を震わせた

 

と書けば、ありきたりだが意味、状況は直ちに伝わる。それを

 

「怖かった」と厚めの唇を中央に寄せてやっとのようにゆがめた

 

と書けば、表現に留意して個性的であるかもしれないが、迅速な意味伝達に欠け、まだるっこい。

 

■言葉の工房としての新聞

 

新聞は組織内で言語表現を自己訓練し探求している工房である。たとえば記者は〈成り行きが注目されている〉と締めくくる「なりちゅう原稿」はやめるように指導される。しかし、「なりちゅう」は状況を短くまとめるのにまことに便利である。定型は記号化しているからである。簡明に意味が伝わる。それだけに安易に使われやすい。

 

たとえば演奏家の評価は極めて難しい領域のせいか、とりあえず「世界的演奏家」と書かれることが多い。しかしそれは多くの演奏家の心密かな失笑を呼んでもいる。つまりは、言葉は言葉の使われ方だけの問題ではなく、内容の把握の如何をも如実に表すのである。

 

新聞は、一般的に伝わりやすい定型と独自の味を持つ個性との葛藤を、表現の歴史において繰り広げてきた。毎日新聞が積極的に踏み込んだ記者の署名原稿もまさにそのひとつの答えであろう。署名によって、筆者が誰にでも入れ替わるパターン化から、個性ある文体への導線を引いたのである。

 

クラーナハは「メランコリー」と題した絵をしばしば描いている。今回、展示してあった1枚は、赤ん坊がたくさん(数えると15人)踊ったり寝たりしている姿に目を奪われる。動きは異なるが、赤ん坊は基本的には同じパターンで描かれている。横に若い女性が膝を立てて座り、伏し目がちにうつろな表情で、赤ん坊を意識はしているが見てはいない。暗い背景には悪魔らしき姿も見える。この女性がメランコリーを抱えているのであろう。

 

見ているうちに、女性はまさにクラーナハ自身の憂鬱を体現しており、赤ん坊たちはパターン化した彼の作品のように思えてきた。定型化した作品が売れれば売れるほど、クラーナハにメランコリーが巣くったのではないだろうか。

 

現代のメディアが抱える定型と個性の葛藤の問題を、500年前にクラーナハの工房は共有していたに違いない。

 

少なくとも同種のメランコリーは、現代の言語表現の工房としての新聞の内部にも、常に巣くっているように思われる。

 

メランコリーの成り行きが注目されている。あらら?

 

うめづ・ときひこ▼1948年神奈川県出身 71年毎日新聞入社 社会部 学芸部 同専門編集委員などを経て2013年から桐朋学園大学学長に就任とともに現職 毎日新聞社客員特別編集委員
2004年著書『〈セロ弾きのゴーシュ〉の音楽論』で第54回芸術選奨文部科学大臣賞および第19回岩手日報文学賞賢治賞 10年「音楽評論に新しい世界を開いた」として日本記者クラブ賞
著書に『神が書いた曲』『フェルメールの楽器』『冬の旅 24の象徴の森へ』『〈ゴーシュ〉という名前』など多数

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