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もう一つのフィールド 伊澤先生との出会い(清水 光雄)2015年6月

寒さが募る今年2月半ば、東京・六番町のホールで世界的霊長類学者、伊澤紘生・宮城教育大学名誉教授は、昨年末に出版した『新世界ザル―アマゾンの熱帯雨林に野生の生きざまを追う』(東大出版会)の記念講演会に臨んだ。頬骨がやや出て色黒、75歳には見えない精悍な顔つき。事件事故取材を身上とする社会部記者の私を自然、南米、アマゾンという、もう一つのフィールドへ誘ってくれた人だ。

 

出会いは40年前。日本有数の豪雪地帯、石川県白山で野生ザルの大量死があり、その謎解きに当時、日本モンキーセンター研究員の伊澤さんが現地入りし、私とカメラマンが同行した。急峻な白山連峰の奥深く、静寂の中でサルの群れが枝の上に鈴なりになったり、キツネと母子ザルが遭遇直前コースを変え、無用な摩擦を避ける姿を見せてもらい、自然の魅力に目を開かされた。

 

◆豊かな森、奥アマゾンへ

 

伊澤さんはこのころ「京大霊長類研究所南米調査隊」を組んで毎年、半年間は南米・アマゾンで新世界ザルを研究していた。帰国するたびにその魅力を聞かせてもらった。行きたい思いが高まる。社会部記者が南米に行くには正月特集号など特別企画を狙うしかない。機会は1979年にめぐってきた。翌年正月企画に伊澤さんの研究とサルの生態、開発に揺れながらも豊富な動植物種を保持するアマゾンを描くものが通った。

 

秋口に南米に飛び、豊かな森が残るアマゾン最奥部、コロンビア・カケタ川上流部に入る。手だれの猟師の案内で川幅は数キロになんなんとする中、動力機をつけたカヌーでさかのぼる。川面には白い雲がくっきりと映り、時折上がる水しぶきが陽に当たってキラキラする。支流にへさきを向け、陽が落ちる前に平地がありそうな所にカヌーを係留、木を四隅に立て屋根代わりのビニールシートを乗せてミニキャンプ小屋が出来上がった。森を歩けばバク、アリクイ、アルマジロ、サルなどの動物類、鳥類と出合い、水浴びのすぐそばに小型ワニが顔を出したり、ナマズも釣れ、モルフォ蝶、ハキリアリなどの昆虫類も観察でき、植物の白眉、水が出る木、アグラーも堪能した。

 

森歩きの何日目か、突然猟師が「木に登れ!」と叫ぶ。クチジロペッカリー(イノシシに似た種)の群れが向かってきているという。この一団に巻き込まれるとジャガーでさえ倒される。へっぴり腰で木の上にしがみつくと牙を鳴らす声まで聞こえ、樹間のやや向こう側50㍍遠くを黒い塊がいくつも通り過ぎる。猟師が鉄砲で最後尾の一頭を仕留めた。最高の晩ご飯になったことは言うまでもない。

 

翌日には血の臭いがする毛皮を川につけてピラニアを呼び寄せた。手頃な木を切って釣竿にし、糸だけでは簡単に噛み切られるから先端に針金をつける。水面をピチャピチャ叩くとすぐに竿がしなり、入れ食い状態。釣り上げた後、しっかりつかんで慎重に外さないと指を噛み切られてしまう。内臓を取り出して塩を振り、焼き魚に。白身で鯛に似た美味だ。

 

悠久の時間の流れを実感し、人跡未踏の森の豊かさを思う。

 

◆新世界ザルを人づけしていく

 

この年、伊澤調査隊はボリビアのブラジル国境の街、コビハ近くにキャンプ小屋を張っていた。3種のサルが同時に生息する場所だった。3人構成の調査隊は1平方㌔と2平方㌔の2つの調査地を設定し、道をつけ連日サルを追って歩き続けていた。サルに人を意識させない人づけ作戦に同行する。「キュッキュッ」とサルの声に双眼鏡を向ける。樹上にセマダラタマリンと呼ばれるサルが4頭いて、木々を飛ぶように移動する。餌の昆虫を探しているという。

 

そのうちに別の種、ムネアカタマリンに出合う。研究者たちはサルの行動、動きをメモをしていく。体や顔の特徴から個体識別もして〝個人〟ごとの行動様式をとらえる。また、食性を明らかにするために、食べ残しの植物の実、葉を持ち帰る。フンも回収し、内容物を調べる。ヤシの葉を編んだ餌付けの観察小屋も用意して、一日中こもることもある。夕方、助手が作る晩飯の後はチームはフィールドノートを作り、論議をする。明日への観察のためだ。

 

霊長類共通の祖先からアフリカの旧世界ザルはヒトを生み出し、一方南米に生息した新世界ザルはヒトにはならず格下に見られていた。しかし、熱帯雨林に今なお、すむが故に原初的な社会構造が考えられるし、袂を分かった旧世界ザルとの平行進化も関心が募る。伊澤さんは一つ一つの種にこだわりながら、同時にできるだけ多くの種を調べようとしていた。結果的には南米で調査地点を何カ所にも変えながら、30年余継続し長い時間軸の生態も明らかにし、冒頭の本の出版にこぎつけた。

 

◆ペルー下りの人々に出会う

 

この地で伊澤さんに日本人移民史の特異な一端も紹介してもらい、もう一つのフィールドは厚みを増した。 

 

19世紀末、このボリビア北部を含めアマゾン一帯は空前のゴム景気に沸いた。1899年(明治32年)に始まった隣国ペルーへの日本人移民は不毛の入植地や労働条件の悪さを嫌って、このゴム景気に魅かれていた。ペルーの砂漠を歩き5000㍍近い雪のアンデス山脈を越え、マドレ・デ・ディオス川の激流を下り、この地周辺にたどり着いた。「ペルー下り」と呼ばれる人々だ。キャンプ地の地名、日露戦争で勝利した奉天(現・瀋陽)を意味するムクデンは彼らの命名だろうし、周辺にはトウキョウ、ヨコハマの名もあった。

 

過酷なゴム林労働で多くは無名のままジャングルの彼方へ消えていっただろうが、私が行った時はコビハ周辺に80代後半の生き残りがいた。4人に話を聞けたが、恐らく最後の肉声だったろう。小屋をあてがわれ一人で半年間、広大なゴム林を歩き回る孤独さを「何カ月も人と会うこともなかった。夜中になれば聞こえるのは時折咆哮するジャガーの声ばかり」と老人は語ったものだ。

 

◆頭の片隅に「もう一つ」思いながら

 

その後、サツ回り、クラブ、遊軍勤務と長く日常の取材が続いたが、もう一つのフィールドはいつも頭の片隅にあった。大学に転じた伊澤さんとの連絡も欠かさなかった。新年企画や正月企画には必ず応募した。数年おきだが、アルゼンチンに売られた漁船員の物語、ブラジルUターン出稼ぎ問題、アマゾンの自然破壊、ブラジル移住第一期生を訪ねる等の取材ができた。デスク、支局長、部長となって現場を離れてからは、部下を南米に出してペルー下り追体験記やアマゾン体験学校記を書いてもらい、フィールドの匂いをかいだ。

 

OBになって振り返ってみると、社会部記者は向こう側からやってくる事件・事故の即時対応と調査報道が第一義だが、こちらから仕掛ける自分なりのフィールドを持てば記者人生を楽しめると思う。今どきの若い社会部記者はわれわれの時代に比べはるかに忙しいと聞く。それでも「もう一つ」を持つことをぜひ勧めたい。「抜いた、抜かれた」の世界では「抜かれる」時も数多く、落ち込んだり、めげたりする。抜き返せなかった時、「もう一つのフィールド」を思えば、元気も出る。

 

アマゾンへ最後に出かけたのは編集局次長だった2001年。あれから14年。2月の講演後、伊澤さんと飲み明かし、彼の地へ散骨した同好の元カメラマンの墓参を誓った。OBになっても「もう一つ」は楽しめる。

 

しみず・みつお
1948年生まれ 71年毎日新聞入社 中部本社報道部を経て 東京本社社会部 社会部長 編集局次長 中部本社編集局長 スポーツニッポン新聞常務 監査役を経て 14年退職
現在 社団法人監査懇話会理事

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