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70年代の香港(石塚雅彦)2005年4月

中国を望遠鏡でのぞいた日々
突然香港に赴任を命じられたのは1976年の夏だった。日本経済新聞社にとっては香港支局の再開だった。64年に日中記者交換が実現して北京に支局ができてから数年たった時点で香港支局には人がいなくなり、そのままになっていたからである。

その年の9月、『ウォールストリート・ジャーナル』のアジア版、『エイジャン・ウォールストリートジャーナル』(AWSJ)が香港で発刊になった。この発行会社ダウジョーンズ・アジア社は米国のダウジョーンズ社が株の過半数を所有していたが、アジアの有力紙として地元香港の『サウスチャイナ・モーニングポスト』、マレーシアの『ニューストレイツ・タイムズ』、シンガポールの『ストレイツ・タイムズ』、そして日経にも少しずつ出資を仰いだのである。

●「モーニングポスト」ビルでの日々

そんなこともあり、香港支局が再開になったわけだった。AWSJは編集・営業部門をふくめ「サウスチャイナ・モーニングポスト」ビルの中にあり、そのAWSJの編集局の中に置かれたたった一つのデスクが日経支局だった。香港に駐在した約4年間、毎日AWSJの連中と一緒に過ごし、同紙のために仕事をしたわけではなかったが、まるで彼らの一員のように遇された。アメリカ人だけでなく、地元香港人、イギリス人、オーストラリア人などのチームだった。思い返せば楽しい日々だった。

AWSJには精鋭が投じられ、パブリッシャーはピーター・カーン(バングラデシュ独立につながった第三次印パ戦争報道でピューリッツァー賞を受賞したウォールストリート・ジャーナルのアジア特派員)、編集長はノーマン・パールスタイン(同元東京支局長)という布陣だった。カーンはその後ダウジョーンズ社の会長になり、今もそのポストにある。パールスタインはウォールストリート・ジャーナルの編集長になり、現在はタイム・ワーナー社の編集主幹である。

あの当時、今とは比較にならないくらい、香港はチャイナウォッチングの基地だった。中国が閉ざされた世界であり、香港はその窓であるだけでなく、東南アジア華僑のネットワークの拠点でもあり、あらゆる情報の宝庫だとみなされていた。英領植民地、自由放任経済という政治経済体制も香港の存在を特異なものにしていた。日本のプレス(新聞6社、通信社2社、NHK)も中国専門家が多かったし、経済活動の自由を求めて日本の金融機関やメーカーも多数進出していた。ロッキード事件で贈賄に使われたお金が香港経由で流れたということが、日本の新聞の紙面をにぎわしたのは私が赴任する少し前のことである。

私は中国専門家ではなく、むしろ香港をベースに東南アジアをカバーするように言われていたから、日本の特派員諸氏とはちょっと毛色の変わった存在だった。77年、「心と心の関係」をうたった福田赳夫首相の東南アジア歴訪に同行したのも思い出である。

●落馬州、マルコポーロクラブ

とは言え、中国のことに触れないわけにはいかなかった。76年、香港に赴任して間もない9月に毛沢東が死去、10月にはいわゆる4人組の逮捕という重大事件が続いた。やがて鄧小平が不死鳥のように復活、79年の改革開放政策となっていくのだが、その度に香港は大きく揺れながらも、基本的には中国の変化から利益を得ていったのである。

中国が近くて遠い存在だったことを象徴するのが、落馬州(ロクマチャウ)という国境付近の小高い丘の展望台から望遠鏡で深セン河越しに広東省の青い遠い山並みを眺めることだった。手前には静かな池や水田が広がっていた。今は香港をしのぐほどの高層ビルが林立する深センであり、香港との境界は一日何十万人もの人が行き来している。落馬州からの当時の眺めを思い出すと今の風景はまるで蜃気楼のようである。

香港の中国系企業に勤める人で大陸と関係のある人たちからは、新聞記者が少しでも向こうの情報を得ようと食事にさそったりしていた。中国旅行社、国貨公司(大陸系の百貨店)、太公報、文匯報といった大陸系の新聞などだ。マルコポーロクラブという集まりがあり、パーシー・チェンというカリブ系の華僑で共産革命に参画、周恩来から共産政権の香港におけるスポークスマンに任ぜられたという人が主宰して中国関係の話をしていた。英語でやるので、高級ホテルで開かれるその会は外国人ビジネスマンなどでいっぱいだった。

「97問題」(返還問題)はまだ遠い先のことのようで現実味はなかった。78年だったか、当時のマレー・マクロース総督が香港総督としては史上初めて北京を訪問した。その直前に同総督にインタビューしたが、返還のことには一切触れようとしなかった。だがやはり97問題の地ならしの一歩だったのだろう。  マクロース総督は温厚で堅実な長身の外交官で、香港の民衆にも嫌われてなかった。歴代の総督は外交官か植民省の官僚で、例外なくスコットランド人だったが、中国の実務者とうまく呼吸を合わせながら、香港の地位と運営をスムーズに維持していたのである。マクロース氏の後任のエドワード・ユード総督も中国専門家・外交官だったし、同総督が急死した後を継いだデイビッド・ウィルソン氏も中国の経験が長く、マクロース総督の政治顧問をしていたことがある。政治顧問時代の彼とはあるジャーナリストの自宅で、車座の勉強会で一緒になったことがある。そんなことができたのも、当時の香港の気楽な雰囲気だった。

しかし、返還が近づく時期に総督を務めたウィルソン氏が中国に対して弱腰で、譲歩し過ぎだと英国本国で批判が高まり、最後の総督として任命されたのが保守党幹事長も務めたことのある生粋の政治家クリス・パッテン氏だった。英国が官僚ではなくアジアとは縁も薄かった政治家を総督に任命したこと自体、中国を不快かつ不安にさせた。果たせるかなパッテン総督は民主化政策を強行し、中国との関係は返還を直前にして最悪になってしまったのである。

●「レビュー」誌の廃刊

最初に書いたサウスチャイナ・モーニングポスト社は香港島のノースポイントよりさらに東寄りのクウォリーベイの糖廠(トンチョン)街という場末にあった。あたりにはゴーダウン(倉庫)が立ち並び、ビクトリア湾に向けて小さなピアが突き出ていた。ポスト社の社屋もゴーダウンの改造だったようだった。海を隔てた向こう側は旧啓徳(カイタク)空港の滑走路の突端で、離着陸する飛行機が手にとるように見えた。先日香港を訪れ、懐かしのクウォリーベイに行ってみたが、当時の面影は全くないほど近代的な高層ビルの立ち並ぶ街角になっていた。渋滞ばかりしていたキングズ・ロード(英皇道)も拡張され、下には地下鉄が走っている。モーニングポスト社も引っ越して今はない。

当たり前のことだが香港は変わった。もう一つの象徴がある。昨年11月、第二次世界大戦直後の1946年から香港で出されていた『ファーイースタン・エコノミック・レビュー』が突然、週刊誌としては廃刊になった。私が香港にいた頃、デレク・デイビスという名編集長(同氏は元英国外務省の外交官で、美しい日本人女性の夫人はピアニストであった)がいて、一番活気があり人気もあったのだが、その後、ダウジョーンズ社が買収し、すっかりアメリカ的な雑誌になってしまっていた。

結局ダウジョーンズ社は同誌をもてあまし、廃刊にしてしまったのである。月刊誌として存続しているが、かつての面影はない。ファーイースト(極東)という言葉自体最近はあまり使われなくなってしまったが、「レビュー」誌はかつての香港の顔の一つであったように思う。私は同誌廃刊のニュースをさびしい思いで聞いた。


いしづか・まさひこ 1963年 日本経済新聞社入社 香港支局長 英文日経編集長 論説委員などを歴任 2000─04年 財団法人フォーリン・プレスセンター専務理事 主な訳書にマーガレット・サッチャー『サッチャー回顧録』 アマルティア・セン『自由と経済開発』 ロバート・ライシュ『アメリカは正気を取り戻せるか』など
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