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ファンド資本主義の時代に ――教養主義の復活を――(渡辺 恒雄)2006年1月

今年は、国政選挙がないので、政治的興味は、自民党のポスト小泉の総裁選挙に集まりそうだ。それと共に注目すべきは、小泉・竹中ラインの市場原理主義に便乗したファンド資本主義のなりゆきであろう。

 

小泉・竹中ラインの市場原理主義の大きな副産物は、村上世彰氏、宮内義彦氏、三木谷浩史氏、小粒だがホリエモンこと堀江貴文氏らの、いわゆるハゲタカ・ファンドの一群の台頭である。

 

ホリエモンは、ニッポン放送乗っ取りをカギに、フジサンケイグループ制圧の野心をむき出しにし、目的は果たせなかったが、かなりのもうけを得たようだ。ホリエモンに比べれば、知的に洗練された人と思われた三木谷氏も、結局はTBSに対し、 〝侵略戦争〟 をしかけたが、停戦となった。村上ファンドは、阪神電鉄グループの乗っ取りを企て、伝統ある阪神タイガースの選手やファンを動揺させている。

 

弱肉強食の市場原理主義を信奉するハゲタカ跳梁の是非を問うのは、今年の日本経済の一つの主題となるだろう。

 

 

アメリカでは、1980年代にファンド資本主義が跳梁したが、次々に失敗して、市場は一定の秩序を取り戻した。それが20年遅れで、日本市場で再点火されようとしている。

 

その背景には、政治と経済の相関関係がある。

 

米国では、レーガン大統領の減税・行革を中心とする伝統的保守主義が、大きな政府から小さな政府を目指し、その波に乗って市場原理主義が勃興した。そしてハゲタカの跋扈となった。

 

日本では、1980年代は、中曽根内閣が成立(82年11月)して、5年の長期政権を維持し、国鉄、電電の民営化を達成、日米貿易摩擦解消のため、「前川レポート」を作り、産業構造調整を進めた。

だが、小泉純一郎首相の構造改革路線と異なるのは、中曽根康弘首相は、市場原理主義思想は持ち出さず、そのブレーンも、前川春雄、中川幸次、赤沢璋一といった日銀や通産省出身の正統派エコノミストであって、弱肉強食の競争至上主義はとらなかったことだ。

 

中曽根首相に続く80年代後半を担った竹下登首相も、蔵相時代にプラザ合意による波乱を起こしたものの、日本型資本主義を破壊するようなことはなかったので、ハゲタカ・ファンドが跋扈する余地もなかった。

 

小泉首相は、郵政大臣時代、郵政官僚の強い抵抗を受けたこともあって、当時から郵政省解体論をぶっていた。政権をとるや、郵政民営化を主要課題として掲げた。郵政改革を「構造改革」路線の中軸にする一方、竹中平蔵氏を実質的な最高ブレーンにしたため、いつの間にか竹中流市場経済原理主義が、小泉政策の中核となってしまった。

 

「自民党をぶっこわす」「官から民へ、国から地方へ」といったワンフレーズ・ポリティックスが、なんとなく国の基本政策となり、それを批判するものは「抵抗勢力」として、排除された。

 

 

竹中氏の金融再生プランは、後に日本振興銀行という怪しげな銀行の創立者となった木村剛氏のイデオロギーに基づくとされているが、あまりラディカルなので、大手銀行の中に株価100円を割るものが続出し、金融パニック寸前となった。最近では、木村氏は竹中氏からブレーンの座を追われたと聞く。

 

さすがに、自民党実力者たちの反攻で、竹中氏も、その金融再生プランの柱であった大手銀行の繰り延べ税金資産の自己資本算入を、5年分から一挙に1年分に縮小するという政策を放棄した。そのおかげで、大手5行の株価は、今日、当時の10倍前後にも上昇・安定軌道に乗った。

 

しかし、竹中氏につながるファンド人脈は、宮内、村上、堀江、三木谷各氏等、外資を背景に、IT産業(といっても実は金融業が主体であるが)を拠点として、日本のPBR(株価純資産倍率)の低い会社を狙い撃ちにし、「安く買って高く売る」(村上氏)ファンド資本主義を拡大している。

 

日本市場は、この種ハゲタカ・ファンドの襲来に恐々としている有様だ。ハゲタカは、狙う会社の従業員も顧客も無視して、株式買収を通じ、経営権を奪おうとする。

 

 

私は、政治にも経済にも、道徳とか倫理といった価値観がなくなってきていることへの危険を感じる。

 

吉田、鳩山、池田、佐藤、福田、大平、中曽根といった戦後の有力首相はもとより、多くの政界実力者は、道徳、倫理、人間性、国、教育、家庭、義理人情といった概念を多用し、国の政治や経済の中にある種の倫理的秩序を考えていた。福田赳夫首相が、「政治とは最高の道徳である」と繰り返し発言していたように。

 

また、かつて池田勇人首相は、蔵相時代「貧乏人は麦を食え」とか「中小企業が倒産し、自殺者が出てもやむをえない」との失言で、ついに大臣辞任に追い込まれた。正直な人だったが、失言が非情な市場原理主義とみなされたからだ。

 

小泉首相の衆議院に対する懲罰解散と、非情な反主流派(小泉語では抵抗勢力)排除の総選挙作戦では、義理人情のカケラもなかった。小泉氏は、「非情」だと自認した。

 

小泉首相と側近は「改革」と言えば、どんな経済的弱者の犠牲も許されると考えているのではないか、とさえ思われる。

 

小泉首相は、その面相の明るさから、悪党だとは一般に思われないだろう。その点、大変失礼だが、金丸信、野中広務といった実力者には、いささか悪相があった。彼は、声を張り上げ、どなることもあるが、その笑顔の明るさも捨てられぬ味がある。その風貌も、彼の劇場型政治を成功させている理由である。

 

 

さて、私の結論は、今年のポスト小泉の首相に、道徳、人情、憐憫、福祉、家族といった価値観を、政治や経済の中に一本の軸として注入する政策と理念を持つ人を選ぶことである。また、大衆迎合をせず、国民の中長期的利益のためには、ある時は痛みの伴う政策を断行する勇気のある人を望みたい。

 

特に次期首相となる人の大事な課題は、社会保障政策だ。

 

少子高齢化社会に向かって給付を維持しようとすれば、当然負担は重くしなければならない。年金、医療等の財源として消費税の福祉目的税化は絶対に必要だ。また、本当に労働能力がなく、収入の途のない人には、最低生活を維持できる生活保護費の給付は絶対に必要である。

 

為政者には、エリートとしての資質が肝要である。かつて、大正─昭和初期時代にあった 〝教養主義〟 には、カント的人格価値の尊重など古典哲学や、古典文学の教養を必須とする強烈な道徳観念があった。当時のエリートには、そのような教養は人間的、社会的資産として重視された。
今日の学生は、読書をしないという。だが少なくとも、政治、経済、社会のエリートには、思想、理念、倫理観といったものの充実した教育課程を必須とするべきではないか。そうしたエリート教育を主唱するような人がポスト小泉の座を占めてもらいたいものだ。悪平等主義がエリートを排除するのはよくない。

 

わたなべ・つねお▼1926年生まれ 50年読売新聞入社 解説部長 編集局次長兼政治部長 編集局総務 取締役論説委員長 常務 専務主筆 副社長 代表取締役社長 グループ本社代表取締役社長・主筆 2004年からグループ本社代表取締役会長・主筆

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