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ペルー日本大使公邸人質事件/メモ帳はたき落とされて/外相に叫んだ「この野郎」(橋詰 悦荘)2023年5月

  「この野郎、前の二人。廊下へ出ろ」。ペルーの首都リマ。未明の記者会見場に寝ぼけた頭で、遅れて入っていった私の耳にこんな怒鳴り声が聞こえてきた。

  罵声を発したのは、当時の池田行彦外相。前の二人とは、産経新聞の男性記者と読売新聞の女性記者。二人が肩を怒らせた池田氏の後に続いて会見場を出ていくところだった。

 「あれっ、産経のS君じゃないか」。私が警視庁記者クラブで捜査2課担当だった時の仲間だ。ライバルでもあり、他社の動静を巡って情報交換する仲間でもあり、という関係だった。しばらく会っていなかった。「そうか、政治部に移って霞の担当になったのか」と頭の中の回路が動き始めた。

 「えっ、でも大臣がこの野郎、と記者会見で怒鳴ればニュースだな」「S君を守らなければ……」。瞬間、こんな思いが頭の中を駆け巡った。二人の記者に付いていった。

 池田氏がくるりと踵を返して立ち止まった。どうやら怒りはまだ収まっていない。二人の記者と相対して「この野郎」とまた、怒鳴り始めた。私は池田氏のすぐ脇に入り込んだ。「あっ、言った」私は「こ の 野」まで書いて「郎」を書こうとした瞬間だった。

 

土下座した外務省職員

 

 一瞬、メモの手が宙に浮いた感じがあった。ドサッ。メモ帳が床に放り出された。メモを取る私が気に入らなかったのだろう。池田氏は私のメモ帳をめがけて手を振り下ろしたのだ。

 「この野郎、何をするんだ」。もともと沸点の低い私は叫んでいた。

 私の背後にもただならぬ気配を心配した記者や外務省関係者がどっと押し寄せていた。その中から外務省のKさんが飛び出した。「すみません」土下座した。私の足元にいた。誰に対する謝罪なのかすぐには分からなかったが、興奮していた私も我に返った。と言うよりも、あっけにとられてしまったというのが本当だった。

 興奮状態に陥った日本人集団に瞬間冷却をもたらした。土下座による謝罪。池田氏は無言でその場を立ち去り、状況はすぐに正常化された。

 Kさんにお礼を言っておかなければと思い、帰国後、銀座に食事を誘った。律儀な気の利く人だった。

 

聞いてほしくない質問

 

 ペルーの首都リマの日本大使公邸で開かれていた天皇誕生日祝賀パーティーを左翼武装組織トゥパク・アマル革命運動(MRTA)が襲撃、100人を超えるパーティー参会者を人質に取り立てこもった。最終的には4カ月以上にわたって立てこもった。

 現地時間の1996年12月17日午後8時40分に発生。ペルー大使公邸占拠事件と呼ばれる人質事件の始まりだった。

 私のメモによると、冒頭の外務大臣会見でのトラブルは、発生から6日目、12月22日未明に起きた。

 当初は100人を超す人質がいた。しかし、MRTAはあまりの多くの人質は維持・管理できないとみて、女性や病気を持っている人などを優先して数十人単位で何回かに分けて解放しつつあった。一方で、テロ対策を重点施策としてきたフジモリ大統領にとって、早期の解決が至上命題。それには強行突入による人質解放が有力な選択肢となりつつあった。

 これに対し、日本の橋本龍太郎首相は強行突入となれば多くの犠牲者が出かねないと懸念。平和的解決を優先する説得役として池田外相をペルーに派遣した。

 池田氏に同行した霞クラブのメンバーにとっては、池田氏のペルー政府との交渉結果はもちろん、動向を確認するためにも帰国の予定を聞き出すのは当然の質問である。その質問をしたところ、池田氏の怒りが爆発したというのだ。首相の指示通りに説得をすることが難しい状況になっていたらしい。

 ペルー政府の説得も進まず、このままでは帰国できないという状況になって、池田氏は追い詰められていた。帰国日程の質問は、その時の池田氏にとって、最も聞いてほしくない質問だったのだろう。池田氏は帰国日程を聞かないという約束で、会見に応じたつもりだった、と後に解説してくれた記者もいた。

 仮にその状況は理解したとしても、問題は日本を代表して交渉役となった人としての振る舞いなのか、ということである。気に入らない記者の質問に腹を立てる。しかも「この野郎」と罵り、メモ帳まではたき落とすという行為。私の左手首内側には、はたき落とされた瞬間、メモ帳の金具部分で引っかき傷ができていた。

 捜査2課や東京地検担当として、詐欺師やバブル期の暴力団も登場する経済事件を取材してきた記者として、信条としたのは「取材先とのトラブルは起こさない」だった。記者の基本は、私という立場を抜き去り対象の考え方や動静を客観的に報じること。そう教えられていた。自らが登場してはならない。

 

トラブルの経緯を送稿

 

 会見を終えて取材拠点のホテルに戻り、現場キャップ役のサンパウロ特派員のTさんに報告した。キャップと言っても、発生当初は南米地域での事件だから、まずはサンパウロ特派員。応援はロサンゼルスにいる橋詰だろう、という感覚の指示だったはずだ。二人しかいなかった。

 後の話だったが、当時の編集局では「社会部出身の二人がいるから大丈夫。しばらく持つよ」という会話がされていたと聞いた。怒りと同時にガックリきたことを覚えている。

 Tさんは入社4年上の先輩。発生から1週間近く。疲労がたまっていく中で、先の見えない戦いをどう切り抜けるかという、戦友感覚が二人の間には芽生え始めていた。

 「すみません、トラブル起こしました」。Tさんは夕刊用の本記を書き始めていたようだった。振り返ったTさんの顔を見たら、思わず謝ってしまった。Tさんはほとんど反応しなかった。「また橋詰がやらかしたか」と心の中で思っていたかもしれないが、ほとんどコメントしなかった。その無反応ぶりが逆に、「失敗した」と私に思い込ませた。

 結局、相談して、会見トラブルの経緯を短く送稿。社内でも霞クラブの政治部に報告し、現場としてトラブルを起こしたことについて、謝罪の意を伝えた。後は、疲れた頭と体を戻すための休息。寝るだけだった。

 

最後の記事は「ひじき」

 

 池田氏にメモ帳をはたき落とされた件は、週刊誌が面白く書けば書かれるかも、という思いが頭をよぎった。結果は年末年始にかかる増刊号と休刊のタイミングで、他にもネタが満載だったのだろう。週刊新潮に短く載っただけだった。

 が、そんな些末なことを考えている場合ではなかった。事件は動いていた。リマ市内では人質解放を求めるデモがあり、公邸内にICRC(赤十字国際委員会)の関係者や教会関係者などが出入りし慌ただしい動きを示した。

 二人だけの張り番、取材態勢は続くはずもない。公邸を出た関係者を追っかけ、公邸内の様子を聞き出す。しかも、私にはよく理解できないエスパニョールという言葉の壁。英語を少し理解してくれる、運転手兼通訳の現地のタクシードライバーのおじさんだけが頼りだった。

 池田氏は帰国間際に、ごく短い時間、現場の公邸を見た。形式を整えるほとんどおざなりの現場視察に見えた。リマに到着して、すぐに現場の公邸を見る必要はなかったのか。人質の気持ちを考えても、そうであるべきだった。あまりに官僚的な対応に怒りを覚えた。

 応援を求める訴えは、正月を前にようやく実現した。本社もさすがに長期戦と判断してくれたらしい。正月を越して、1月7日ロサンゼルスに戻った。1回目の応援期間の最後の記事は「人質のイライラ防止にひじき 差し入れ弁当日本食店の工夫」。産経新聞が夕刊2段で掲載してくれた。

 

はしづめ・えつそう

▼1957年富山県高岡市生まれ 80年時事通信社入社 宮内庁 警視庁 検察庁を担当 サンフランシスコ ロサンゼルスの米西海岸の各支局勤務 福島支局長 内外教育編集長などを経て 2016年から編集局次長 22年退社 昨年1年間は大和大学政経学部教授

 

 

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