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訪朝団、核協議から拉致問題まで/多岐にわたった北朝鮮取材(今井 環)2018年12月

 今年6月に行われたトランプ大統領と金正恩朝鮮労働党委員長による史上初の米朝首脳会談から半年、本稿が掲載される頃には2度目の首脳会談の日程も決まっているかもしれないが、朝鮮半島情勢がこの先どのように展開していくのか、はっきりと予測できる人はいないのではないだろうか。私は1976年のNHK入局以来、国内政治中心の取材活動をしてきたが、どういう訳か北朝鮮問題にも結構関わってきたので、関心を持って見守っている。

 

 ◆金日成主席と握手も体験

 

 1985年5月、日本社会党の田辺誠書記長(当時)を団長とする訪問団の同行記者として北朝鮮を訪れた。初の海外出張である。北京経由で空路平壌に到着すると、楽隊のにぎやかな行進曲演奏の中、どこから駆り出されたのか、色とりどりの民族衣装を着た一団の出迎えを受けた。田辺氏と金日成主席の会談に先立って、記者団も金日成主席と握手を交わし、記念撮影をした。分厚く柔らかい右手の感触を今でも覚えている。金日成主席の後頭部に大きなこぶがあることは知られていたが、冒頭撮影の際、私は事前に受けた「主席の後ろからの撮影は禁止」という注意を無視して、後方からビデオカメラでこぶのアップも撮影した。特に制止はされなかった。衛星伝送もできない時代で、映像は持ち帰ったものの放送されることなく、残念ながらNHKのアーカイブスに未編集のまま残っているはずである。

 

 歓迎宴にも同席したが、印象に残っているのは、北朝鮮製のビールである。30年余り前の話なので、今は技術も進歩していることとは思うが、ガラスの質が悪く、栓を抜こうとすると、瓶のクビがぽっくり折れてしまうのである。高層アパートも数多くあったが、窓に映る空が歪んで見えたのも真っ平らなガラスを作る技術がなかったからだろう。

 

 記者二人に一人の対外文化連絡協会(対文協)の担当者が密着した。通訳兼案内との名目だが、勝手な行動をしないように監視する役目である。ホテルでは一人ずつ部屋が与えられ、対文協の人たちは端っこの部屋に詰めていて、何かあれば声をかけてくれという。日本への電話はオペレーターに申し込んで、30分から1時間待ってつながる状態で、通話の途中で「金日成が…」と主席を呼び捨てにでもしようものならガガガと雑音が入る。そこで、対文協の人たちが詰める端っこの部屋に行くと、ドアを少しだけ開けて応対する。部屋に入れろ、入れないの押し問答の末、電話を聞いているのは分かっているんだと強引にドアを開けたら、本当にヘッドホンをつけた担当者がいたのには驚いた。それからはお互いに盗聴している、されているのを承知の上での付き合いになり、彼らは大っぴらにドアを開け放してヘッドホンをつけ、我々の言動を監視していた。拘束でもされてはかなわないと緊張状態が続いたせいか、北京空港に戻った時には、中国であることも忘れて心底ほっとしたものだ。

 

 ◆ジュネーブで核問題取材

 

 次は1993年から3年間のワシントン勤務の時代である。ちょうど北朝鮮のいわゆる第一次核危機の時期に重なっており、米朝の核問題を巡る協議取材は大きな位置を占めた。93年から94年にかけて、NPT(核拡散防止条約)からの脱退を宣言したり、IAEA(国際原子力機構)の査察を拒否して原子炉から核燃料棒を取り出したりして緊張を高める北朝鮮に対し、当時のクリントン大統領は軍事行動も検討したとされるが、この時はカーター元大統領と金日成主席との会談で、核開発凍結と査察受け入れで合意した。これを受けて、アメリカが国務次官補だったガルーチ大使、北朝鮮側は姜錫柱第一外務次官を代表として、第三次の米朝核問題協議が1994年7月7日からジュネーブで始まり、政治部からの特派員がナポリでのG7先進国首脳会議の取材に行く中、私はジュネーブに赴いた。

 

 初日の協議はレマン湖ほとりの北朝鮮大使館で行われ、2日目はアメリカ代表部で開かれる予定だった。私は8日の19時ニュース用リポート原稿案を東京の国際部に送り、朝になったら収録して伝送するから、何かあったら起こしてと休んだのが現地の午前4時頃。その時点で東京のデスクからは、平壌放送が正午から重大放送をすると予告しているとの情報があった。横になったのも束の間、デスクからの電話で起こされたのが金日成主席死去のニュースだった。

 

 当然、2日目の協議は中止、延期となったが、日本時間正午の発表の時点で、北朝鮮大使館も交渉団も主席死去の報を全く知らなかった。直後に聞いた話だが、アメリカ交渉団が北朝鮮大使館に連絡を入れたところ、北朝鮮側からは冗談を言うなと激しく反発され、既に緊急ニュースを始めていたCNNを見ろと伝えてようやく信じてもらえたそうだ。北朝鮮の交渉団は、本国のどのクラスと連絡を取っているのだろうかといぶかしく思ったが、実権は既に金正日総書記に移っていたのだろう。

 

 この協議は、10月に核開発凍結などを定めた「枠組み合意」で終わり、軽水炉を提供する朝鮮半島エネルギー開発機構などにつながっていくが、その後の経過はご承知のとおりである。

 

 ◆拉致問題での忸怩たる思い

 

 次の関わりは、2002年9月に訪朝した小泉総理大臣に金正日総書記が認め謝罪した日本人の拉致問題である。当時、私はNHKの夜の「ニュース10」のキャスターを務めていた。当日のニュースはもちろんこの問題一色で、番組の準備に追われながら、横田めぐみさんは死亡との報には言葉を失った。怒りと悲しみに体が震える思いだったが、画面でキャスターが涙を見せるわけにもいかず、番組の最中は、少女時代のめぐみさんが出てくるようなVTRはできるだけ見ないように努めた。産経新聞で拉致事件を追い続ける阿部雅美さんが著書『メディアは死んでいた』の中で指摘していることだが、当日のニュースで、拉致被害者は13人、5人生存、8人は死亡と、北朝鮮側が伝えてきた何の確認もできていない数字を当初は政府発表のまま伝えてしまったことは我々も反省しなければならない。めぐみさんのご両親にも何度かご出演いただいたが、インタビューするのが申し訳ないようでつらかった。

 

 また、冒頭書いた85年の北朝鮮訪問の際、社会党の代表団は、東シナ海に流れ込む大同江の河口にダムを造り淡水湖化しようという工事を視察した。私たちも南浦から高速艇に同乗して現場まで行った。操縦室は撮影するなと言われた。とにかく高速で走る船で、操縦しているのは軍人のようだった。今にして思えばではあるが、ひょっとすると、あの高速艇も日本近海にまで来ていたのではないか、日本人の拉致事件に使われていたのではないかと思わせるような高速艇だった。当時は拉致事件の存在を全く意識しておらず、高速艇は沿岸警備にでも使われているのだろうという程度の発想しかなかった。

 

 ◆金正恩委員長、真の狙いは

 

 様々な条件を出しながら少しずつ妥協し、その一方で平気でうそをつくという北朝鮮のやり方は今も変わっておらず、北朝鮮の非核化問題は〝いつか来た道〟の印象がなくもない。一方で、金正恩委員長は体制の保証を得る代わりに本気で核放棄を考えているのではないかと指摘する専門家もいる。金正恩委員長が、アメリカ、韓国、中国、ロシアの首脳と相次いで会談しているのを見ると、今の状況を動かそうとしているのは間違いないかもしれない。安倍総理大臣が意欲を示す日朝首脳会談も遠からず実現する可能性はある。拉致問題をはじめとする日朝間の問題の行方も含めて、北朝鮮からは目が離せない状態がまだまだ続きそうだ。

 

いまい・たまき

1953年6月生まれ 東京大学文学部卒 76年日本放送協会入局 仙台放送局 報道局政治部 ワシントン支局 報道局編集主幹 理事を経て NHKエンタープライズ社長 NHK交響楽団理事長 現在はN響特別主幹

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