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戒厳令下のポーランド ワレサ親書を危険冒し米に仲介(水島 敏夫)2018年6月

 ソ連もベルリンの壁も存在していた。共産主義国ポーランドでは自由を求める民主化運動が弾圧されていた。

 そんな時代の、戒厳令下ワルシャワ。1983年初夏、6月の話である――。

 読売新聞の支局に疲れ切った様子のポーランド人が、思いつめた眼差しで現れた。日本語通訳をたびたびお願いしていたワルシャワ大学の助手で、81年12月に非合法化され、地下に潜った独立自治労組「連帯」の活動家。封筒を大事に握りしめている。

 「この手紙を、アメリカのハーバード大学にテレックスで送っていただけませんか。急いでいます」と、丁寧な日本語で、いきなり切り出した。

 差出人は「連帯」委員長レフ・ワレサ。同大学で行われる名誉博士号授与式用のメッセージだった。ワレサ氏から直接託されたという。非合法労組のリーダーであるため、国外への旅行は禁じられ出席できないが、お礼をぜひ伝えたい、とのことだった。

 仮に、出国が許されても、それは、再入国を阻止するための罠であるのは誰の目にも明らかだった。

 メッセージでは「ポーランド国民は決して理想の実現をあきらめない。われらは、われらの活動に向けられている暴力に抗し、あくまで平和的な手段で活動を続けていく決意だ」と真正面から、自由を求める闘いを継続する強い意志を表明していた。「自由」「共産党(統一労働者党)の圧制」などの言葉がちりばめられた危険な政治文書であった。

 授与式まで数日しかなかった。

 

◆国外退去 支局閉鎖の悪夢

 

 困った。

 支局のテレックスは当局にモニターされている。数日前、連帯関連の原稿を打電中、「yaruzerusuki(ヤルゼルスキ)」(当時の統一労働者党第一書記兼首相)とタイプしたら、その箇所で、突然、切断されてしまった。電話の盗聴は織り込み済みだが、時折、通話中にオペレーターが会話に割り込み「こちらは中央電話局だ。盗聴している」と、あっけらかんと脅す、という具合だ。

 日本大使館に持ち込む野暮はできない。ウィーンに飛んでファクスで送ることも考えたが、当時、ファクスがある同市中心部のホテルは二つだけ。第一、ワルシャワ空港で身体検査されて見つかったら、アウトだ。

 下手に動けば、「読売特派員が地下『連帯』の手先になっている」という噂は瞬く間に確実に当局に伝わる。そういう体制だ。それでなくとも、数週間前に、ポーランド人助手の自宅が、地下活動容疑で不当な家宅捜索を受けたばかりだ。

 「国外退去」という忌まわしい言葉が、頭に浮かんだ。読売新聞は82年4月に、日本の新聞社として初めて激動のポーランドに支局を開いたばかり。このワレサ・メッセージの仲介という反政府的な行為が明るみに出れば、支局閉鎖に追い込まれるかもしれない、と不安に襲われた。

 当然、東京の本社にも、隣のモスクワ、ボン(西ドイツ)の両支局やロンドンの欧州総局にも相談はできない。相談するための通信手段がすべて、当局の掌中にあるからだ。共産主義体制とは、個人を徹底的に孤立させる仕組みであることがしみじみと分かった。

 「不可能」、と答える私。目の前の男は、なお、助けを求める眼差しで身を固くしている。

 一策を講じた。

 

◆米外交官と緊迫の筆談

 

 1時間後、この男を支局に待たせたまま、私は4ブロック離れたところにあるロサンゼルス・タイムズ紙の支局に向かった。

 そこにはアメリカ大使館の幹部が一人、待ち構えていた。

 会うなり、この外交官は、人差し指を唇に立て、メモ帳に「盗聴。以下、筆談」と、さっと書いた。

 盗聴されているからと言って、沈黙は不自然で、何か話さなければならない。ひたすら、空模様や食べ物など、当たり障りのない話を、心なしか声高に続けた。一方、同時に進む筆談では、「この手紙は本物か」「それをどう証明するか」「持参した人物は誰か」など、矢継ぎ早に厳しく問われた。

 私は、「私は記者として、危険を冒しているのだ。私を信じるのか。信じないのか」と、筆圧を強めて書き、大使館員に突き出した。

 「国務省には、『このメッセージは信頼できる西側記者が、信頼できる人物から依頼されたものである』と、報告する。日本は、東方の国だがね」が、筆談の締めくくりだった。

 「メッセージは確実にハーバード大学に届けられる」、と、支局で待ち構えていた男に手短に伝えた。

 ただ、どこで、だれに会ったかは、言わなかった。彼も、聞かなかった。

 「助かった。ありがとう」

 男は、言葉少なに、去っていった。弾圧が続く中で研究も地下活動も続ける一人の男。そう、アンジェイ・ワイダの名作「地下水道」で描かれたポーランド人の、絶望の中でも希望をつなごうとする姿が重なった。

 この件は記事にしなかった。

 数日後のインターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙は「ワレサ氏ハーバード大学博士号授与――メッセージ届く」と短く伝えた。UPIは、メッセージがワルシャワの米国大使館経由で届いたことを明らかにし、同大学の卒業式で、卒業生や父兄など2万5千人を前に、学長によって読み上げられたと伝えた。

 

◆「依頼者」が日本大使に

 

 それから7年後の1990年12月、ワレサ大統領誕生。

 その翌秋、この男は、「駐日ポーランド特命全権大使」の肩書で、私の前に現れた。

 ヘンリク・リプシッツ――。81年12月13日の戒厳令布告と同時に逮捕されながらも、獄中で、差し入れの紙パック入り日本酒を、「日本製ミルク」と当局に偽り、あおった男。日本語・ポーランド語辞典の著者。太宰、谷崎、三島、安部、そして九鬼周造の翻訳者。81年、ワレサ氏訪日では通訳を務めた。

 東京・高輪のポーランド大使館で再会の祝い酒を酌み交わしながらも、お互い、「あの日」のことには触れなかった。冷戦があっけなく終幕し、自由を獲得してもなお、「重い時代」の生々しい記憶をたどることへのためらいがあったからだろう。

 

            ◇

 

 96年春、ニューヨーク。

 リプシッツ大使はコロンビア大学東アジア研究所のセミナーに招かれ講演した。その中で、突然、「この日本人特派員は、ワルシャワ時代、私がお願いして、ワレサ氏のメッセージを、記者としての危険を冒してポーランドから送ってくれた」と、私を指さした。

 ささやかな秘密の、13年目の開封であった。不意を突かれた。

 学生や教授たちの好奇の視線にさらされながら、10年を越えた時の流れに思いをはせた。

 だが、なぜ、私がそんなことをしたのか、さらに時を経た現在も、答えは見つからない。冷戦がまだ続いていたら、私とリプシッツ氏とのちょっぴり危険な秘密は封印されたままだったに違いない。

 今年、77歳。ワルシャワ大学を定年で辞め、私立大学でなお、日本の歴史、文化と国際関係を講じている。

 「今、徒然草を翻訳中ですが、とても難しく、いつ完成できるやら」

 5月の連休中に久しぶりのメールが届いた。

 

みずしま としお

1949年生まれ 75年読売新聞社入社 ワルシャワ特派員 ワシントン特派員 ニューヨーク支局長 大阪本社英字新聞課長を経て アメリカ総局長 メディア局総務 2009年退社後 旅行読売出版社社長 テレビ新潟放送網常務取締役 現在 帝京平成大学教授

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