ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


書いた話/書かなかった話 の記事一覧に戻る

経済記者人生の点と点 商品情報で世界をつなぐ(長澤 孝昭)2016年11月

米アップルの創業者、スティーブ・ジョブズが2005年、スタンフォード大学の卒業式に招かれて行った「点と点をつなぐ」(connecting the dots)という話が好きだ。彼が自分の人生から学んだ3つの話のうち、最初の話だ。

 

「自分の興味と直感でやってみたことや出会った人たちとの交流の多くは、後から見れば、非常に価値のあるもので、その点がいつかどこかにつながると信じていれば、他の人と違う道を歩いていても、自分の気持ちに従う自信を与えてくれる」

 

私の通信社マンとしての人生も点と点の連続だった。

 

◆OPEC会議は〝踊る〟

 

ロンドン特派員としてジュネーブのインターコンチネンタルホテルを訪れたのは1986年3月14日~24日だった。ロンドンには石油市場があることから、市場関係の仕事は昔からロンドンで担ってきた。だからジュネーブやウィーンでOPEC会議が開かれると、ロンドンがカバーした。

 

OPEC総会は数ある仕事の中で最高にして最悪だった。行きはルンルンで英国機。帰りはスイス航空機で疲労困ぱいだった。とにかく長い。10日間どころか最長2週間というのもあった。

 

86年は7月に10日間、10月には14日間もジュネーブにいた。早期決着か長期化か見通しが立たない。情報も少ない。特ダネを狙う気は全くない。落とさないよう気を付けるだけだ。毎度お決まりのパターンで会議が長引いている。頭が空っぽになっている。もう少し有意義な時間の使い方もあると思うが、これが紛れもなくOPEC会議だ。自分の思うような仕事ができないのは仕方がない。現場にいると明けても暮れてもOPEC、OPECばかり。

 

同年12月10日から開催された協調減産では、原則一致しながら各論では依然調整が必要だった。10日間の徹夜の協議の末、20日午前5時半、劇的な幕切れに。イラク抜きとはいえ12カ国が第1、第2四半期について120万バレル強の大幅減産を行うとともに、18ドルの固定価格制復帰を決めたからだ。合意内容もショッキングで、もうろうとする頭の中で朝を迎えた。

 

87年、88年も回数は減ったものの、正直くたくたに疲れた。ローザンヌ、ロンドン、マドリードとヨーロッパ各地を日本のOPEC取材団は転戦した。日本記者団らしく、いわば合宿。同じ仕事をしていながら実は強い結束の下、遊びも仕事も共通していた。

 

今から約30年前はまさに「逆オイルショック」だった。

 

70年代は73年に3ドル台から12ドル台に、78年には12ドル台から30ドル台へ急上昇した。逆に80年代は86年に急落し、2月には15ドルを割り込み、3月末には10.42ドルへと最安値を付けた。

 

その後も湾岸危機・湾岸戦争を除いて原油価格は低迷したが、98年以降再上昇。このときはサウジアラビアがピーク時の1000万bpd(バーレル/1日)から約600万bpdに減産する事態となった。

 

これに直面したサウジアラビアは、スイング・プロデューサーとしての役割をこれ以上続けないと、シェアバック宣言を表明し、ネットバック方式(石油製品を市場価格から一定の精製・輸送コストを引いて原油価格を設定する方式)を導入して、原油価格は市場の主導で決定されるようになった。

 

◆CME 電子取引時代の到来

 

CME(シカゴ・マーカンタイル取引所)グループは、世界を先導する最も多彩なデリバティブ市場だ。リスク管理のために最も広範な先物・オプション取引を動かしており、NYMEX(ニューヨーク・マーカンタイル取引所)もCMEの一部門だ。つまり米国の金融先物取引市場を牛耳っているのがCMEだ。その創業者はレオ・メラメド氏。彼は日本市場がなかなか活性化しないことについて、私がインタビューした時に、こう語った。

 

「取引の過程をもっと透明にすること。誰が売ったのか、あるいは買ったのか。あらゆることを透明にすることだ。そして透明化の努力を決して諦めないことだ。この努力を諦めなければ、必ず道は開ける」

 

とにかく、「オープン・アップ」ということだった。

 

私は当時、日本の先物市場を統括する商況部長(後の商品経済部、現在は金融市場部)だった。30人の部員を擁する部だ。残念ながら商況部に先物部門はあっても現物部門がない。現物部門があって初めて商況部と言えたが、商品部に先物部門がない日経と同じだった。

 

CMEの源流は1848年にシカゴに設立された世界初の先物取引所だ。設立以来、長い歴史と伝統を誇る一方で、電子取引時代の到来を予見した「先物の父」と呼ばれるメラメド氏の先見性などにより、90年代前半に伝統的なセリ方式の取引手法を電子取引システムへと革新し、大きく躍進することになった。

 

そして、2007年に競合他社との大規模な買収合戦に発展する中、CBOT(シカゴ商品取引所)を買収し、両社が合併して新会社の「CMEグループ」を設立。その後、CMEグループは、08年にNYMEXを買収し、今日ではCME、CBOT、NYMEX、COMEX(ニューヨーク商品取引所)の4つの取引所が中核となっている。

 

翻って日本。国民経済に必要だからこそ市場は存在するのだが、一般社会から聞こえてくるのは否定的な声ばかり。商品先物は公正で透明な価格形成の場だった。市場経済に不可欠との声を胸に自己変革に取り組み、東京工業品取引所は東京商品取引所を生み、東商には今年9月から日本取引所グループ(JPX)の取引システムが導入された。商品と金融の取引が一体化した。

 

◆日系人が生んだ南米の大豆の話

 

原油相場はウエスト・テキサス・インターミディエート(WTI)が代表油種として引き合いに出されるが、他の商品にも大豆やトウモロコシなどがある。代表的なのは大豆だ。

 

98年に南米パラグアイに行った際、JICAの大豆産地を取材した。

 

JICAの永井和夫氏の研究論文「パラグアイ日系農業者の発展と大豆栽培」によると、不耕起(土を耕さない栽培方法)による大豆栽培は日本のJICAの支援の下で、70年代にまずブラジルで実施。その後、82年11月にパラグアイを襲った集中豪雨による土壌流出で、イグアス移住地での導入が決意された。

 

そしてパラグアイに生計を求めて移住してきた努力が無駄になってしまうと恐れた日系移民が、不耕起栽培を本格的に開始した。イグアス地域では日系人で構成される農業協同組合も全面的に協力し、収穫量も増えたという。

 

96年にはパラグアイでの不耕起栽培普及率は40%にまで発展。現在、同国の大豆輸出が世界第4位にある背景には、イグアス移住地の日系移民の貢献があるといえる。

 

イグアスの土壌から収穫された大豆は世界的な輸出産品となっているが、その価値を決めるのはシカゴ市場の先物相場だ。パラグアイは農業国であり、開発途上国だ。パラグアイを通じて世界が連携している。

 

ジュネーブから北米CME、そして南米イグアス移住地。商品情報で世界をつないだのは自分だった。それが正しいのか正しくないのかは分からない。つながる意味があってこその話だ。

 

ながさわ・たかあき
1948年生まれ 74年時事通信社入社 ロンドン特派員 商品経済部長 編集局総務 神戸総局長など 2012年からフリージャーナリスト

ページのTOPへ