取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
テレビの可能性を拓く 語り継ぎたい3人の名ディレクター(鈴木 嘉一)2014年7月
読売新聞記者として放送局を取材し始めたのは1985年だった。以来、放送界をウオッチし続けて29年になる。もともと映画か演劇の担当を志望していた私が、これほど放送にかかわってきたのはなぜか。「テレビは国民生活に浸透し、大きな社会的影響力を及ぼしている。腰を据えて取り組む記者が1社に1人ぐらいいてもいいのでは」と考えたことに加え、制作現場の取材を通して、NHK、民放各局、地方局、制作会社の個性的なプロデューサーやディレクター、優れた脚本家たちに接し、大いに刺激されたからである。
このなかには、NHKで活躍した3人の名ディレクターも含まれる。テレビ放送が始まった53年に入局し、テレビの歴史とともに歩んだ〝テレビ1期生〟の吉田直哉、和田勉、岡崎栄さんである。私が各局を回り始めたころ、3人はまだ局に在籍しており、その仕事ぶりを見届けた。今回は3人の思い出をつづりたい。
◆新たな映像表現の開拓者
評論家の大宅壮一は57年、急速に普及するテレビの低俗化を憂え、「一億総白痴化論」で警鐘を鳴らした。東京大学西洋哲学科卒の吉田さんらが同年、初のドキュメンタリー番組『日本の素顔』を始めたのは、それへの反発もあった。「テレビでどんなに高級なことが言えるか、いまに見てろ」と心に期し、博徒の実態を描いた回が反響を呼ぶ。「ヤクザの社会は日本人の縮図」と考え、「日本人と次郎長」と題した点が、「仮説の検証」という独特のテレビドキュメンタリー論を掲げた理論家らしい。
ドラマ畑に異動して1年後の65年、大河ドラマの3作目『太閤記』の演出を任された。「遠い昔のお話ではなく、現代人にも通じる内容にしたい」と、第1回の冒頭で開通したばかりの東海道新幹線を映し、「時代劇のはずなのに……」と視聴者を驚かせた。史実に基づき、歴史上の出来事に現代を重ねる「歴史ドラマ」路線を確立し、いまも続いている大河ドラマの基礎を固めた。
局内で初のプロジェクトチーム方式による海外取材特別番組『明治百年』や大型企画『未来への遺産』では、文明批評的な視点を盛り込んだ。『ポロロッカ・アマゾンの大逆流』では、驚異の自然現象を初めて撮影し、柳田国男の民俗学や宮沢賢治の世界の映像化にも取り組んだ。終始、新たな映像表現を開拓し続けた。
本人は穏やかな物腰で、柔和な笑みを浮かべた。「先生」と呼ぶ後輩たちから「吉田先生がみんなやってしまったから」と言われると、「スイッチを切れば真っ白いキャンバスになり、次の描き手を待っている。それがテレビの魅力」と説いた。
最後の作品となる『太郎の国の物語』では作家の司馬?太郎と組み、「明治草創の精神」を新たな手法で映像化した。現場一筋のディレクターの〝卒業制作〟が当然視されていた時代だった。定年退職した90年には、日本記者クラブ賞を受けた。
◆「芸術祭男」とヒットメーカー
早稲田大学演劇科卒の和田さんはドラマ畑を歩み、映画とは違うテレビ表現の独自性、可能性を追求し続けた。20代で早くも頭角を現し、クローズアップの多用で「アップのベン」との異名を取った。安部公房作の『日本の日蝕』をはじめとして、椎名麟三や野間宏ら純文学作家の脚本で文化庁芸術祭賞の常連となり、「芸術祭男」とも呼ばれた。
社会悪をえぐり出す『松本清張シリーズ』は、和田さんの社会派ドラマの代表作だった。安宅産業倒産を題材にした『ザ・商社』では、経済ドラマの領域を切り開いた。80年代には近松門左衛門の世界に挑み、2度目の芸術祭大賞を受賞した『心中宵庚申』など4部作を手がけた。
「視聴者を驚かせるために、ドラマは派手でなくちゃいけない。だから、ガーンとか、ジャーンといった音を入れるんですよ」。向田邦子作の『阿修羅のごとく』でトルコの軍楽をテーマ曲に使って意表を突いたように、時代劇でもサスペンスでも恋愛劇でもワダベン流を通した。
陽気で、エネルギッシュな人だった。撮影現場では「カットーゥ、OKェ、いやぁ、よかったー」と大声を出した。いつも駄じゃれを連発し、笑いの渦の中心にいた。「僕にとってNHKとは何だったか、って聞くのは愚問なんですよ、ガハハ。あのね、僕がNHKそのものなんだから」。87年、〝卒業制作〟として選んだ島崎藤村原作の『夜明け前』のロケ先の長野県で、強烈な自負心を見せた表情が印象深い。
東京教育大学(現・筑波大学)英文科卒の岡崎さんは、ヒットメーカーだった。60年代には、3年半も続いた人気ドラマ『若い季節』を演出した後、上杉謙信の生涯を描く大河ドラマの7作目『天と地と』で高視聴率を挙げ、看板番組の人気を回復させた。
70年代に入ると、平賀源内を主人公に据えた型破りの痛快時代劇『天下御免』でヒットを飛ばした。高度成長期を田沼意次の時代に重ね、痛烈な社会風刺とパロディー精神を縦横無尽に発揮した。この続編的な連続時代劇のトラブルで上層部と衝突した。はっきりものを言う性分から〝演出拒否宣言〟をした結果、窓際の部署へ追いやられた。現場復帰を望み、『NHK特集』を担当するNHKスペシャル番組部へ異動したことが大きな転機となった。
歌舞伎の坂東玉三郎の魅力に迫る『女形 玉三郎の世界』や『空から見たヒマラヤ』のようなドキュメンタリーから、ドキュメンタリーの手法も取り入れたNHK初の3時間ドラマ『マリコ』まで手がけ、表現領域を広げた。85年度の大型企画『THE DAY その日・1995年日本』では、ドラマやドキュメンタリー、スタジオ討論など多彩な手法で10年後を予測したように、ジャーナリスティックなセンスも特筆される。
◆定年後の生き方も三者三様
3人とも多くの受賞歴を誇るが、芸術選奨文部大臣賞は和田さんが最も早い67年度に受賞し、翌年度に吉田さんが続いた。岡崎さんの受賞は78年度と遅い。最終的な処遇も異なり、吉田さんはディレクターとして最高位の専務理事待遇、和田さんは理事待遇だったが、岡崎さんは局長待遇にとどまった。
定年後の生き方も三者三様だった。吉田さんは武蔵野美術大学に新設された映像学科の主任教授に迎えられた後、94年に食道がんの手術を受け、声を失った。執筆に打ち込み、『脳内イメージと映像』など一連の映像論をまとめた。エッセー集や小説などの著書は20冊を超えた。
和田さんは陽性のキャラクターを買われ、「ガハハおじさん」として民放のワイドショーやバラエティー番組、CMで異色タレントぶりを発揮した。その一方、演出家としての仕事が激減したのは寂しかった。
岡崎さんは関連会社のNHKエンタープライズに籍を置き、脚本も書き始めた。山崎豊子の原作を脚色し、「総指揮」を担った『大地の子』(95年)は大きな反響を巻き起こす。還暦を過ぎても代表作を増やし続け、96年には紫綬褒章を受けた。「危ない橋はたたいたら渡れない」という言葉を好む。仕事が途切れるとイライラするたちなので、「1つの番組を作りながら、次の企画を考える。いつも同時並行」を貫いてきた。
吉田さんに和田、岡崎さんへの評価を尋ねると、「ヒマラヤに登るルートは1つではなく、いくつもありますよね」という表現ではぐらかされた。そんな吉田さんが2008年に77歳で死去した際、岡崎さんは「人間的にも奥が深く、まさに『放送界の知性』だった。常に僕の前を走っていて、いつか追い抜こうと目標にしていた」と悼んだ。和田さんも11年、80歳で亡くなった。岡崎さんは傘寿を過ぎても、最古参のテレビ演出家として第一線に立ち続ける。
3人は切磋琢磨し、独自の軌跡を描いた。テレビという新しいメディアの可能性を追い求め、数々の秀作やヒット作を生んだ名ディレクターを知る者として、その創造精神や方法論、人間的魅力を語り継いでいきたい。
すずき・よしかず
1952年生まれ 75年読売新聞入社 文化部主任 解説部次長 編集委員などを務めた 現在 放送評論家・ジャーナリスト 埼玉大学教養学部・日本大学藝術学部の非常勤講師 「放送倫理・番組向上機構(BPO)」の放送倫理検証委員会委員 放送批評懇談会理事