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晦日の夜汽車(増田 れい子)2005年11月

間に合うかどうか。足がもつれた。息があがった。上野発22時30分、青森行急行「津軽」は13番ホームからすべり出そうとしていた。最後尾のデッキに足をかけた。とたんに動いた。

清子(せいこ)さんは太い息をついた。焼きたてのパン包みを胸にかかえていた。酵母のにおいが人いきれでほのかに立ちのぼった。清子さんはやっと人心地がついてあたりを見まわした。

デッキも車内通路もひとと荷物でぎっしり埋まっている。空席のあろうはずもない。その日は1992年12月30日。大みそかと正月の三が日を故郷で過ごす出稼ぎの男たちをいっぱいに詰めこんだ「津軽」であった。

上野を出ると「津軽」は東北本線をひた走り、福島から仙台に出て、ここから仙山線をまわり奥羽本線につながって秋田に達したあと弘前を経て青森に着く。およそ14時間かけて東北の内ぶところを実直にへめぐる辛抱強い列車であった。あった、というのは新幹線ができて「津軽」は1993年12月限りで運行されなくなったからである。

「津軽」は別名を出稼ぎ列車と言った。清子さんもこの上り列車で東京へ出てきたのだった。もう30歳に手が届く年齢になっていたが15、6の初心でパンの勉強をしたかった。パンと言っても天然酵母の力でつくるまじり気のない生きたパンの製法を身につけたかった。

幸運にも酵母パンに精通した師匠と出あい、その店で働かせてもらった。2年目、故郷へ帰る余裕ができた。清子さんの故郷は秋田県の湯沢である。

パンの包みを赤児のように抱いて清子さんはともかく車内に身をすべりこませた。そのときである。声がした。

「ここへ座れや」

用心深いタチの清子さんは一人旅のとき酒タバコを無遠慮にやる男のそばには近寄らないことにしている。見ると、声をかけてきたその男のひとはもうカンビールを一杯やっているではないか。

「疲れには勝てなかったんですね。ハイありがとう…と座らせてもらいました」

座れと言ってくれた男は清子さんを“姐さん、姐さん”と人なつこく呼んだ。自分には孫がいて孫にはこんなオモチャを買ってきたと網棚からわざわざ包みをおろしてぬいぐるみや新幹線の模型を取り出して見せた。ただ息子は3人いて、長男は嫁さんに恵まれ孫もできたが、次男と三男はまだ何の気配もないと嘆いた。

列車は郡山を過ぎたろうか。男は山形県の大石田で降りるのだと言った。姐さんはどこまでと聞かれて正直に湯沢だと答えた。近いところだなあ…と男がよろこんだ。大石田と湯沢は近いという意味である。

カンビールは三つ目があいた。やおら男が言った。

「姐さん、あんた大石田で降りんか」。降りてわが家へ来いというのであった。

○    ○    ○

清子さんはいま故郷湯沢で天然酵母のパン屋さんを開いて10年になる。相変わらず独り身である。あの大石田の初老の男がなぜ“家へ来い”と言ったのか、ときおり思いめぐらす。

「息子の嫁さんに…どうかなとそういうことだったんでしょうね。私のどこを見込んだのかと言うとひとつ心当たりがあるんです。そのときの私の手…ね。パン生地つくるのに塩と水が要ります。塩と水で私の手は真っ赤にひび割れていたの。その手が気に入ったんじゃないでしょうか」

いまも冬場のパンづくりでは手が荒れる。荒れて武骨になった分、おいしいパンが生まれる。

清子さんのひび割れた手を気に入った初老の男の手も土木の現場で働いた人に備わった道具のような手であった。みそかの「津軽」は出稼ぎに生きた男や女の武骨な手を無数に積んで走る夜汽車であった。清子さんは言う。

「あんな楽しい一人旅はありませんでした」

(2005年11月記)
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