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米識者、被爆国への「遺言」/「平和思想、世界に広げて」(田城 明)2026年4月

 「2カ月余り寝たきりだから退屈していた。ゲストがある方がうれしいよ。広島の記者と聞くとなおさらね」。がんで闘病中のライナス・ポーリング博士は、ベッドに上半身を起こし、にこやかに迎えてくれた。

 米国人化学・物理学者で、ノーベル化学賞と平和賞の受賞者でもある。32年前の1994年7月16日。サンフランシスコから南へ車を走らせること約4時間。眼下に雄大な太平洋を望むカリフォルニア州ビッグサーの別荘で、博士と対面した日のことは今も鮮明に記憶に残る。

 被爆50周年企画の一環で、私は米国で取材を続けていた。「ヒロシマの声は果たして核戦争防止に役立ってきたのか。核超大国から見た核時代半世紀とは何だったのか」―核開発に参加した物理学者や原爆投下問題に詳しい歴史家ら約20人の米有識者へのインタビューを通じて、これらの問題を検証するのが狙いだった。

 中でも最も会いたい1人がポーリング博士だった。59年8月に広島市で開催された第5回原水爆禁止世界大会に参加するなど広島とのつながりが深かった。「私はこれまで3度広島を訪れた。今でも原爆資料館で見た被爆の惨状と、広島市民らと一緒に原水爆反対を訴えて、市中を平和行進したときのことは忘れられないよ」。博士は問わず語りに、懐かしそうに当時の想い出を話した。

 

原爆開発計画には参加せず

 93歳とは思えぬ確かな記憶力。その博士にまず、原爆開発のマンハッタン計画への参加の有無について尋ねた。「この計画の科学部門トップだったロバート・オッペンハイマー博士から直接誘いがあったのは事実だ。でも断った。私はすでに39年から母校のカリフォルニア工科大学で、政府の要請を受け爆薬の研究をしていた。当時はナチス・ドイツや、ファシストが支配する日本にどうしても勝たねばと思っていた」

 ところが、広島・長崎への原爆投下のニュースを聞いたときのポーリング博士の受け止めは、違っていたという。「日本に勝ったというより、大変なことになったとの思いが強かった。原爆の破壊力がどのようなものかを知っていたからね」

 地球上から戦争はなくならない。第2次世界大戦中、そう信じていた博士だが、その考えが根底から覆った。「戦争はあってはならないし、してはならない時代に人類は入ってしまったのだ」と。

 専門分野では39年に「化学結合論」を発表。戦後も分子生物学の分野で多くの成果を挙げ、54年にはノーベル化学賞を受賞した。一方で第2次大戦終結直後から核兵器に反対するなど、反核・平和運動にも熱心に取り組んできた。

 

ビキニ環礁水爆実験を憂慮

 化学研究のために20歳過ぎからエックス線を扱ってきたポーリング博士。それだけに放射線被曝による人体への悪影響を憂慮していた。「私が特に危機感を持ったのは、54年3月のビキニ環礁での水爆実験だった」と述懐する。

 広島型原爆の千倍(15㍋㌧)の威力を持った「ブラボー」実験。日本のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23人をはじめ、マーシャル諸島の住民らが被曝した。この事件を契機に日本では、原水爆禁止運動が全国に広がった。

 だが、米国市民はほとんど事実を知らされていなかったという。「原子力委員会(AEC)は、われわれが危険だと指摘しても、『ささいな放射能汚染の危険より、核軍事力増強を放棄して起きる核攻撃の悲惨の方がよほど怖い』と言い始めた」

 私がすでに取材を終えていた物理学者のエドワード・テラー博士への批判も厳しかった。「水爆を開発したテラー博士らは、その後『クリーンな爆弾』を口にし始めた。『クリーンな爆弾を造れる可能性があるのに、実験を中止してはそれができなくなる』とね。核開発を続けるために、彼らはどんな理屈でも考えついた」

 

世界の科学者に禁止署名を

 ポーリング博士は57年に米国とソ連(現ロシア)、英国の核実験禁止を求めて、国内外の科学者に呼び掛けて反対署名を集めた。日本からも湯川秀樹博士ら千人以上が署名。最終的にその数は、49カ国、1万1千21人に達した。

 「あのころ、相次いだ大気圏核実験で大量の放射性物質がまき散らされていた。それが体内に入れば、世界中の人々の健康を損ね、遺伝的障害が増えることも分かっていた。急いで国際協定を結び、核実験を禁止する必要があった」

 63年8月、ついに米英ソ3カ国による部分的核実験停止条約が結ばれ、大気圏や水中での核実験が禁止された。科学者の署名集めに奔走した博士は、その功績が認められ、いったんは見送られていた62年の平和賞を1年遅れで受賞することに。

 「あのときはびっくりしたよ。ノーベル平和賞なんて想像もしていなかったからね」と笑顔を浮かべて言った。化学賞の受賞時より「はるかにうれしかった」とも。「平和のための活動が貴い仕事であることを多くの米国人が知る機会になったから」

 その言葉は、ポーリング博士が50年代に体験した「マッカーシズム」による厳しい弾圧と深く結びついていた。「そう、『反共』という嵐にね」。当時、ソ連と協力して核軍縮に取り組もうと主張するような米国人は「すべて共産主義者のレッテルを貼られた」という。多くの科学者が発言しなくなり、大学人も「国家への忠誠」の誓いに次々と署名した。

 

「米国人の前に人類の一員」

 「私は『学問の自由を侵す』と署名に応じなかった。私たち夫婦は戦時中、強制収容所に送られた米国の日系人差別に反対してファシスト呼ばわりされ、戦後は核兵器に反対して共産主義者にされてしまった」

 大学追放などの弾圧に屈しなかった心の支えは何だったのか? この問いに博士は、ユーモアたっぷりに言った。「10年以上前に先立った、私以上に平和主義者で活動家だった妻のエバに尊敬されたくてね。エバは婦人国際平和自由連盟のリーダーだった。エバも私も米国人だけれど、互いに『米国人である前に人類の一員でありたい』と考えた。そこに生きる価値を求めて助け合った」

 諸国家は相変わらず武力に頼り、半世紀の間に戦争も繰り返されてきた。果たしてヒロシマやナガサキの声は世界に届いているのだろうか?

 「少しずつだが届いていると思う。でも、まだ十分とは言えない。人類にとって広島・長崎の被爆体験は大きな教訓だ。原爆投下で私自身の戦争観が変わったように、戦争ではなく、道義と国際法によって紛争を解決しなければいけない。さもなければ人類は生き残れないだろう」

 最後に私は「広島や長崎、そして日本人が果たすべき役割は何でしょうか」と尋ねた。すると博士は胸に手を置き、かみしめるように言った。

 「何よりも世界の人々に核戦争が何をもたらすかを伝え、その体験から生まれた平和思想を世界に広げることだ。日本が豊かになり、戦争体験が風化しつつあると聞くが、それでは日本人が果たすべき人類への最も重要な役割を放棄するようなものだ。あなたたちの働きで、ぜひ戦争のない21世紀をつくり出してほしい。それが私の夢だ」

 博士の言葉は、その後の私の記者活動に大きな影響を与えてきた。が、取材からわずか1カ月後の8月、博士の訃報が届いた。

 あれから30年余。国際法として2021年1月に発効した核兵器禁止条約に背を向け続け、平和憲法などなきがごとき日本の政治や社会状況を、ポーリング博士はどう見ているだろうか…。

 「核兵器廃絶と世界平和」実現のために信念を貫き通した、真のヒューマニストだったポーリング博士。日本人への「遺言」のようにも思える博士の言葉を、核戦争の危機が高まり、紛争が続く今の時代にこそ、あらためて届けたい。

 

▼たしろ・あきら

1947年兵庫県生まれ 72年中国新聞社入社 販売局発送部から報道部 米タフツ大学フレッチャー法律・外交スクール大学院修士課程修了 報道部復帰 原爆・平和・国際部長 編集委員 ヒロシマ平和メディアセンター長兼特別編集委員 現在 中国新聞社客員編集委員 95年ボーン・上田記念国際記者賞受賞 2003年度日本記者クラブ賞受賞 主な著書に『知られざるヒバクシャ 劣化ウラン弾の実態』『現地ルポ 核超大国を歩く』『ヒロシマ記者が歩く 戦争格差社会アメリカ』

 

 

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