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ポーズをとったタリバーン/戦時下アフガン 写真送れず(真田 正明)2023年11月

 行き当たりばったりで紛争地に入る。みっともない話を、反省を込めて書く。

 2001年9月11日の米国同時多発テロ事件のあと、ブッシュ米政権は、タリバーンが支配するアフガニスタンに侵攻した。アルカイダの指導者、オサマ・ビンラディンをかくまっているという理由だ。11月13日、米軍の大規模な支援を受けた北部同盟は首都カブールを陥落させた。敗走したタリバーンは、本拠地の南部を中心になお勢力を保っていた。そんなころの話である。

 ジャカルタ支局長だった私が任されたのは、南部カンダハル州に通じるパキスタン西部の要衝クエッタである。ナディールという地元紙の若い記者を通訳に雇っていた。

 ある日、ナディールの携帯電話が鳴り、ちょっと困った顔をした。英紙ガーディアンのベテラン記者ジョナサン・スティールからだった。以前に使ったことがあるナディールに通訳を頼んできたのだ。私はジョナサンとなるべく一緒に行動することにした。この地域が初めての私には、その方が好都合だった。

 

タリバーン総領事からビザ

 2、3日後、ジョナサンから電話があった。クエッタのアフガン総領事館が取材ビザを出すという。まだタリバーンの総領事がいたのだった。3人で総領事館に急いだ。鉄製の通用口を叩くと、中から「今日の執務は終わった」と声がする。細目に開いたところを3人で無理やりこじ開け、ビザをもらった。

 明るいうちに国境を越えたかった。ホテルに戻り、ナップザックにパソコンや着替えと米ドルを詰め込む。タクシーのなかから外報部デスクに電話を入れた。「これからアフガニスタンに入る」と事情を説明しているうちに、電波の圏外になった。

 黄土色の土漠を抜け、国境のチャマンまで2時間ほどだった。検問所の前で、それまで「一緒に行く」と言っていたナディールが「行かない」と引き返してしまった。「ぼくはハザラだから、いじめられる」と言う。ハザラ人はアフガンで迫害を受けてきた少数民族である。

 検問所には係官が一人だけいた。ここで思い出した。パキスタンのビザが翌日までしかない。そうっと知らないふりをして旅券を差し出す。係官は「ビザの日にちがない」と、手で追い払う仕草をした。

 他の出国者の手続きが終わるのを待った。スペイン人の記者が「シングルビザだから、だめだと言われた」と、帰っていった。私のはともかくマルチだ。誰もいなくなったところで、もう一度係官の前に行った。意外にも彼は、スタンプを押してくれた。

 しかし、通訳がいない。思案していたところに、髭面で小太りの男が現れた。地元紙の記者で、タヤバガと名乗った。「少数民族だから国境は自由に行き来できる」という。1日200㌦くれと言う。クエッタの相場は数十㌦だ。値切ろうとしたが、言い値で雇うしかなかった。

 

幼稚園ほどの広さの施設

 二人で国境を歩いて渡った。道の両側に露店があり、野菜や果物、ドライフルーツなどが並んでいる。カンダハル州のスピンボルダックだ。

 そのとき背中に衝撃を受けた。振り返ると男の子が数人、石を持って「ハザラ」「ハザラ」と叫んでいる。日本人の風貌はハザラ人に似ている。タヤバガが拳骨を見せて追い払った。

 アフガン側の検問所に行くと、車が待っていた。10数分走って、着いたのは塀に囲まれた施設だった。大きな幼稚園ぐらいの広さ。平屋が2棟と中庭がある。カーペット敷きの部屋に、英国のテレビ局ⅠTVの3、4人と欧米系の記者が2人いた。

 

タリバーンの電話で勧進帳

 アフガンに入ったのだから、原稿を送りたい。しかし通信手段がない。隣の部屋で、タリバーンのリーダー格が無線電話を掛けていた。それを見て、「貸してくれ」と頼み込んだ。 イスラマバードにいた宇佐波雄策・アジア総局長につながった。国境付近の様子を描写した記事は翌日、朝刊1面の下の方に載った。

 部屋ではⅠTVのクルーが、編集作業をしていた。するとタリバーンの若者が珍しそうに集まってきた。偶像崇拝を否定しているタリバーンはふだんテレビも見ない。英国に密入国しようとするアフガン難民の映像が映った。「これはどこだ」などとやかましい。

 彼らにカメラを向けてみた。怒るかと思ったら、ポーズをとる。撮れた写真を見せろ、とせがむ。片言英語同士でいろいろ質問をしてみた。 パキスタンの神学校に通っている者、カブール大学で工学を学んでいる者。多くは20歳過ぎだ。私が日本人だと言うと、「ヒロシマ、ナガサキ、ウイ・アー・フレンド」と返ってきた。

 翌日、ジョナサンをはじめ後続のメディアが入ってきた。私は、彼らに頭を下げて衛星電話を借りることにした。ただ、時間がかかるので申し訳なく、写真は送らなかった。

 驚いたのはCNNである。小型トラックに機材を満載して乗り込んできた。施設の庭の一画を占拠して、カメラやライトを設置し、移動スタジオをつくってしまった。

 外国人が珍しいのだろう。近所の男たちが施設の中を覗き込む。そのうち塀の上に座り込み、ぐるりと取り囲むようになった。動物園である。

 タリバーンは、わたしたちを国境近くの避難民キャンプに連れていった。澄みきった空と砂漠のなかに、見渡す限りのテントが並ぶ。いくつかの家族から空爆の恐ろしさを聞いた。タリバーンの一人が空を指さした。高いところを米軍機が飛んでいくのが見えた。

 その日、私はタヤバガに「外で晩飯を食いたい」と頼んだ。タリバーンは、施設を出ることを禁じていた。

 このあたりの男はみな、大判のショールのようなものを身につけている。タヤバガは自分のそれを私に渡し、顔を隠せと言う。日が暮れたころ、こっそり玄関をすり抜けた。

 街灯もなく、足元も見えない闇のなかを数分歩くと、アセチレンガスの灯がついた一軒の食堂があった。客はあぐらをかいて座っている。羊肉が入った炊き込みご飯が出てきた。肉は硬いがまずくはない。

 先客の二人がぼそぼそ話している。タヤバガに聞くと、トラックの運転手らしい。街道を走るトラックは米軍機に狙われるという。特にタンクローリーは危ない。「どこで誰がやられた」などと情報を交換していた。

 

「ビンラディンとは連絡なし」

 その翌日、タリバーンの最高指導者ムラ・オマール師の報道官サイド・アガがきた。施設の庭でメディアが取り囲む。「カンダハルなど南部4州の人々はわれわれを支持し、ともに戦うことを約束している。人々の安全と生活を守る義務がある」と、支配地を死守する構えを見せた。

 オサマ・ビンラディンについては「友人だが、米国でのテロ事件以来、連絡は途切れている」。オマール師については「健在で、いまも指揮をとっている」とだけ述べた。

 私は翌朝パキスタン側に戻った。ビザの切れた旅券でどうやって再入国したのか、もはや記憶がない。

 会見は短行のベタ記事になった。難民キャンプのルポには、通信社の写真が添えられていた。施設内の様子を書いた記事は、パキスタンに出国してから写真とともに送った。

 偶然が重なってアフガンに入れた。せめて衛星電話があれば、現地から生の写真を送れたのに、と後悔した。今度こんなことがあれば、ちゃんと準備をしてと思うが、そんな機会が二度と訪れることはない。

 

さなだ・まさあき▼1956年大阪市生まれ 80年朝日新聞社入社 警視庁キャップ プノンペン ジャカルタ各支局長 アジア総局長 論説副主幹 2010年11月から18 年3月まで夕刊コラム「素粒子」を担当 21年退社 著書に『朝日新聞記者の200字文章術』『朝日新聞記者の書く力』『最高の一年』

 

 

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