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金正日ウォッチング(菱木 一美)2009年7月

◆辺見(庸)記者の後継確定スクープ
  1977年2月下旬、ナショナルプレス・ビル4階の共同通信ワシントン支局。特派員だった私は東京から航空便で届いたばかりの読売新聞の一面トップ記事に吸いつけられていた。2月24日付朝刊だ。「北朝鮮後継者に金正一氏」とヨコ6段組みの主見出しが躍っている。「金日成主席の子息36歳」、「党政治委が推挙」―タテ5段の二本見出しが記事の確実性を主張していた。金正日氏による金日成主席の後継確定を初めて伝える世界的なスクープだ。(当時は、朝鮮語で「金正日」と同じ発音の「金正一」が使われていた)
 
 長文の記事を読みながら、「そうだったか」と私は何度もうなずいた。約一か月前に平壌からワシントンの私宛てに届いた金正日氏の顔写真付きパンフレットの謎が何を意味するのか、これで解けたと合点したからだ。

 記事のリード部分の末尾に「共同」のクレジット。東京発の共同通信外信電だと分かる。このスクープ記事を放ったのは横浜支局から外信部に配属されてまもない新人の辺見秀逸記者だった。後に芥川賞作家に変身する辺見庸である。北京支局への赴任を前に都内の遊軍取材で早くも特ダネ記者の本領を発揮したのだ。

  朝鮮労働党は76年末、金正日氏の唯一後継・指導体制を決定し、その旨を明記した党幹部用の秘密文書を作成した。その2ヶ月後の77年2月2日、平壌の指令を受けた朝鮮総連中央は特別幹部会議を開き、本国の秘密文書に基づく「幹部学習提綱」(全3章)を配布したうえ、李珍圭副議長(当時)が金正日後継体制の確立を報告した。辺見記者はこの学習提綱全文の入手に成功したのだ。

◆金正日ウォッチングの開始
 一方、判じもののようなパンフレットが私に送られてきたのは辺見スクープに先立つ77年1月ころである。ワシントン支局に転任前のニューヨーク特派員当時、私は北朝鮮の国連オブザーバー代表部との間に緊密なチャンネルを保っていた。このため転任後も同代表部や平壌から出版物がひんぱんに送られてきた。問題のパンフはその一つだった。

 一頁目の全面に金正日氏のカラーの顔写真が説明抜きで載っている。本文は金日成主席の偉業継承を強調する内容だった。しかしその写真が金正日後継披露を暗示するものとはついぞ思い至らず、「おかしなパンフだ」といぶかりながらも放っておいたのだ。
 
 辺見記者のスクープでパンフレットの謎は解け、これを機に私の北朝鮮データ・ファイルに「金正日ウォッチング」の項目が加わる。あれから32年間、金正日時代の終焉が取りざたされるに至る現在まで、私流の金正日ウォッチングは細々ながら続いている。

◆表舞台へ長い助走期間
 金正日氏の後継決定過程は70年代初めから、党内部だけで極秘裡に進められていた。ずっと後で判明するが、金日成主席は73年9月、32歳の長男正日氏を党書記の要職に付け、後継プロジェクトをスタートさせた。翌74年2月には党政治局員に昇格させ、「党中央」の呼称で息子の存在を国民に認知させ始める。75年ころから国内では父子の顔写真が並んで飾られ出した。76年末には辺見スクープの根拠となった金正日後継の内部決定をうたう党幹部用秘密文書が作成された。

 そして80年10月の朝鮮労働党第6回大会。金正日氏は政治局常務委員、書記局書記に
加え軍事委員会委員のトリプル・ステータスを獲得し、39歳でついにNO2の後継指導者として公式に政治の表舞台に踊り出る。党書記就任から7年もの長い助走の後だった。

◆奔放な「唯一後継者」を目撃
 その金正日氏を直接、目撃するチャンスがやってきた。82年4月15日午前、平壌市内の2・8文化会館。金日成主席の満70歳の誕生日を祝賀する式典が始まろうとしていた。党、軍幹部らが並ぶひな檀から正面約20メートルの報道席で私は、入場してきた後継指導者の一挙手一投足に目をこらした。呉振宇・人民武力相が軍服姿で付き添っている。

 「なんというでかい態度だ!」と私は目をむいた。ひな壇最前列中央の席に陣取った金正日氏は、いすにふんぞり返り、「お守り役」の呉振宇将軍に大きな身振りで話しかけている。金日成主席を待つほかの党、軍幹部らが身じろぎもせずかしこまっているのと対照的だ。その間、金正日氏にひっきりなしに決済を求めるメモが届けられる。横柄に、しかし思い切りよく次々にメモにサインをしていく奔放無比のパフォーマンス。唯一後継指導者としての鮮烈な存在感を会場の参集者にみせつける光景だった。
 
 やがて姿を現した金日成主席に長い熱烈な歓呼と拍手がわき起こった。後継者は冷めた表情でそのようすを眺めている。「オレが式典の仕切り役」という自負がその姿からはっきりうかがわれた。
その後、何度か平壌取材の機会があったが、金正日氏に接触できることはついぞなかった。姿をめったに現さず、背後でにらみをきかす「陰のカリスマ」。岩戸のわずかな隙間からのぞき込むような次期最高指導者の正体探しに、私は興味を募らせていった。

◆仰天サービスの演出―川勝訪朝
 金正日氏の見えざる存在をとりわけ強く実感したのは、85年9月半ば、日中経済協会副会長の川勝伝南海電鉄会長(故人、元同盟通信記者)の訪朝に同行したときだった。平壌郊外の順安空港に着くと、ナンバープレートに赤星マークを付けたベンツが出迎えたのでびっくり。赤星マークは党最高幹部用の専用車であり、「3」と記されたプレート番号は高位ランキング3位を意味していた。金日成、金正日父子の専用車を除いておそらく最高位の車なのだろう。   

 滞在の宿舎はマラム招待所。国家元首級の外国要人をもてなす超豪華な迎賓館だ。平壌側の懇請にこたえ日本の有力財界人として初の平壌訪問を決意してくれた川勝会長に対する金父子の熱い感謝と期待の表れだった。

 金日成主席との会談を柱とする川勝訪朝の間、やはり金正日氏が顔を見せることはなかった。しかし「親愛なる指導者」が父親の大切な客人のために裏で総指揮を執っているのだと、付き添いの朴南基書記(経済担当)が懇切に解説してくれた。外国元首用の専用車や迎賓館だけでなく、平壌から人民軍の大型ヘリに一行を乗せての板門店ツアー、党高級幹部を動員しての豪勢な歓迎宴など相次ぐ仰天サービスの演出は、たしかに金正日氏ならではのドラマチックな手法だった。

◆日朝正常化交渉でも総指揮
  秘密のベールに包まれている分、金正日氏については海外マスコミの間で憶測報道が飛び交い、「カーキチ、女好き、酒乱の放蕩息子」などのマイナス・イメージがつきまとった。だが金正日ウォッチャーたらんとすれば、彼の性格、知力、体力、権力掌握術などに関する事実情報にアクセスする努力が不可欠である。90年代に入ると、私なりの金正日像がわずかながら形をとりだしたように思えた。

 91年6月1日、金日成主席は私を含む共同通信代表団との会見で、金正日氏が「朝鮮労働党だけでなくすべての部門の事業を指導している」と明言した。大収穫の発言だった。

 この金日成会見の直前、北京で91年5月20-23日に日朝国交正常化交渉の第3回会談が開かれた。日本側が初めて「李恩恵」問題を提起して紛糾した会談である。当時、北朝鮮代表団のスタッフだった人物が後に私に述懐した。「田仁徹首席代表が平壌の金正日書記に会談経過を電話で報告すると、受話器からご本人の大声の指示ががんがん漏れ響いてきたので実に驚いた」。

 日朝交渉まで総指揮を執っている彼は既に実力NO1の指導者ではないか。金日成・正日親子の権力関係はどうなっているのだろうか。私のウォッチングはまだ、霞の中で彼方の鳥影を追うようなものだった。

◆「権力を父親からもぎ取った!」―黄長燁氏の激白
  金日成主席は94年7月8日に死去する。しかし外部世界の予測に反して国家権力の空白も揺らぎも起きなかった。金正日氏はゆっくり時間をとり、98年7月末、名実ともに最高指導者の地位に就く。しかし盤石のはずの体制内部から大物の脱落者が出た。97年2月に劇的な韓国亡命を果たした黄長燁氏(当時、党書記、党中央委員会国際部長)である。亡命から2年半近く経った99年7月2日、私はソウル市内某所で、黄長燁氏から差しで半日間、じっくり話を聞く機会を得た。

  「金日成が父子継承制を強引に敷いたというより、息子が自らの努力を父親に認めさせて権力をもぎとった、というほうが近い」と黄氏は語り出した。黄氏によれば、80年代には早くも「金正日を通さなければ金日成に報告も情報も上がらず、金日成の意向も金正日を通さなくては下部に伝わらない」ようになった。80年代後半からは「金正日がすべての決定権を握っていた」という。 「いくら息子を後継者に選んだとはいえ、そんな状態に金日成は我慢できたのか」と私は問うた。

 黄氏は答えた。「他者に権力を渡すよりは、息子の自在なやり方を認めるほうが得策だと金日成は考えていた。彼は息子との権力関係でもきわめて老練な政治家だったのだ」。
 
◆外れた健康予測
 冷戦終結に伴う90年代初の激動期、金日成主席が再び前面に出て全権指揮を執ったかに見える局面もあった。だが、「それは事実ではない」と黄氏は強く否定する。「緊迫の対米核交渉を含め、背後ではすべて金正日が操作していた」というのだ。

  「天才的な権謀術数の指導者」にして「政治外交手腕のしたたかな独裁者」―金正日氏の「非人間性」を激しく批判する一方で、その優れた政治能力を客観的に評価する黄氏の分析を私は信頼性ありと受け止めた。

  多岐にわたった黄氏の見解の中で、現時点からみれば一つだけ外れた点がある。金正日氏の健康に関する予測だ。あのとき黄氏は断言した。「彼は健康だ。糖尿病でもない。酒もやらない。だれの言うことも聞かないが、医師の忠告はしっかり守っている。金正日時代の終焉は近いと考えて自然死を待つなら見当違いだ。80歳以上生きるだろう」。

◆後継ウォッチングは濃霧の中で
  金正日氏の健康不安が表面化した昨夏以降、3代目の後継候補をめぐりさまざまな情報が飛び交っている。後継体制を急ぐ必要に迫られていることは確かだろうし、3男の金正雲氏に跡目を継がせるとの情報も、もっともらしい。それが事実なら金正日氏にとって最大の不安は、3代目をしたたかな政治指導者に育て上げる時間が足りないことだろう。党書記就任から7年間の長い助走を経てNO2の座を「もぎとった」自らの実績を振り返れば、息子の経験不足は歴然である。

  妹婿の張成沢氏を後見役として国防委員会に送り込んでも不安は解消しまい。金日成・正日父子が自ら証明したように、最高指導者のみに権力が集中しなければ北朝鮮の独裁構造は成り立たないのだ。これから何が起こるか、濃霧状態の視界の中で私は後継ウォッチングを続ける。(元共同通信2009年7月記)
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