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領域の拡大求めて科学記者40年 横串突き通す取材活動を(小岩井 忠道)2014年12月

「メディアはどこも一切知らないはずだったが、共同通信の記者から駿河湾地震説を取材したいという電話があった。浅田先生に相談したところ、信用できる記者だから丁寧に説明してあげなさいといわれ、2人の記者と大学で会った」

 

石橋克彦神戸大学名誉教授の著書『原発震災 警鐘の軌跡』にそんな記述がある。氏は東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(国会事故調)の委員も務めた地震学者だ。

 

浅田先生というのは当時、石橋氏が助手として所属していた東京大学理学部教授の浅田敏氏。「信用できる記者」とは筆者の先輩で、その後科学部長になる田村和子さんだ。2人の記者のもう1人が筆者である。

 

石橋氏の唱えた駿河湾地震説は、その後の日本の地震対策に決定的な影響を与えた。大規模地震対策特別措置法ができ、東海地震対策に膨大な資金が投入されたほか、防災関係者、地球科学者などに多くの雇用機会も与えたのではないだろうか。気象庁の地震業務は庁内では傍流だったはずだが、当時の地震課長は気象庁長官まで上り詰めた。

 

ところが、石橋説を最初に報じた共同通信の特ダネ「駿河湾地震を予測 地震予知連で若手研究者報告」(1976年3月23日配信)は、日経、産経、東京という共同通信加盟新聞も、NHKなどテレビ局も使用しなかった。3大都市東京、大阪、名古屋の人々の目には全く触れなかった、ということだ。

 

◆競争社の〝特ダネ〟にも

 

福島原発事故で露呈された制度的欠陥の1つに「防災対策を重点的に充実すべき地域」が原発から半径8~10キロの範囲に限定されていたことがある。これを定めた防災指針は、79年の米スリーマイルアイランド(TMI)原発事故がきっかけで翌80年にできた。

 

34年前、8~10キロに決まった、と最初に報じたのは筆者である。取材源は、防災指針を検討していた原子力安全委員会専門部会委員の川崎義彦・東海村村長(当時)。取材の場は報告の中身がそろそろ煮詰まるとにらんだ日、専門部会を終えて東海村に戻る常磐線の車中だった。

 

川崎さんは筆者の高校(旧制中学)の先輩、それもバスケット部の大先輩だったから冷たくもできなかったのだろう。実はそれまで言葉を交わしたことはない。「1963年にインターハイに出場した時、5千円の寄付を頂きました」。自己紹介し、17年前のお礼を言ったものだ。

 

「避難訓練やって年寄りがけがでもしたら誰が責任とるのか」。防災指針にはご不満の様子だった。

 

そこそこ労力をかけたつもりのこの記事も、東京の加盟紙、テレビ局は使わず、逆に加盟社ではない全国紙1紙だけが同じ内容の記事を載せていた。共同の配信をどこかで察知し、朝刊に間に合わせたらしい。

 

◆通産省取材拠点づくりに失敗

 

マージャンにたとえると、新聞社、テレビ局の記者より常に一飜(イーハン)どころか二飜、三飜高い手を狙わないと勝負にならない。特に東京、大阪の人たちの目にも留まる記事にするためには…。

 

徐々に気付く。中身が濃くても個々の学者の研究成果や、審議会の報告を他社より早く書いた程度では迫力不足。日本の社会は三権分立と言いながら行政の力が圧倒的に強い。府省庁の名前が入っているというだけで安心して扱う傾向がある。ところが科学部は取材拠点を持つ役所が非常に少ない。科学技術庁(当時)を3年取材した後、考えた。原発規制官庁でもある通産省(当時)に取材の足場をつくれないか、と。

 

詳しい経緯、工作は省くが、通産省の研究機関である工業技術院(現産業技術総合研究所)と掛け合い、院長や各研究所長の科学記者向け定例記者会見を省内で開いてもらうところまでこぎ着けた。

 

ところが、思いもかけないことが起きる。2回目だったか3回目だったか、予定の記者会見を始めようとしたら、どやどやと大勢の人たちが入ってきた。通産省記者クラブの面々である。科学記者向け記者会見をつぶすのが目的だった。結局、その通りになってしまう。

 

◆初のワシントン駐在科学記者に

 

科学記者の取材の場を広げたい、と考えたのは筆者だけではない。「ワシントンに科学記者を常駐させるべきだ」。アポロ計画やTMI原発事故の取材で何度も米国に出張した科学部の先輩が、まず社内文書で主張した。さらに強力な助っ人が現れる。ワシントン支局員としてTMI原発事故の取材にも当たった外信部の先輩が、帰国後、同じことを強く社内で主張してくれた。

 

通産省にも取材拠点を、というささやかな筆者のもくろみなどとは、ニュートン力学と量子力学くらい違う。TMI原発事故から6年後、科学記者のワシントン支局駐在が実現する。外信部の先輩が支局長として再びワシントンに赴任中の85年のことだった。

 

科学記者として初の海外支局勤務を命じられたのが、筆者である。持って行った英和辞書が、連日頻繁に使い続けたせいでボロボロになったくらいだから、英語が苦手な人間には大変な日々だった。紹介できる話は次のようなものくらいだろうか。

 

「旧型沸騰水型炉に格納容器破壊の恐れ 米改善策を検討」という記事を86年12月3日にワシントンから送った。米原子力規制委員会(NRC)の原子炉規制部長にインタビューして確認した話である。旧型沸騰水型炉とは、25年後に大事故を起こすことになる福島第一原発1~4号機と同じGE社製のマークⅠ型と呼ばれる原子炉だ。

 

福島原発事故で不幸中の幸いだった1つに、ベント設備がとにかく取り付けられていたことがある。NRCの原子炉規制部長が検討中と認めた改善策というのは、まさにマークⅠ型炉の格納容器にベントの設置を義務づけるというものだった。

 

炉心溶融事故が起きると格納容器に大量に使われているコンクリートと溶けた燃料が反応し、大量の二酸化炭素や一酸化炭素が発生し得る。格納容器が小さいマークⅠ型炉は、特に格納容器破壊の危険が大きい。事故時に大量のガスをいち早く大気中に逃がす設備が必要との理由だ。

 

ところが、この記事も東京で読める新聞には載らなかった。記事配信の3年後にNRCはマークⅠ型炉にベント設備の設置を義務づける。だが日本の規制当局は追随しなかった。「日本の原発には必要ない」。筆者の記事が配信された日に通産省は記者クラブで説明したそうだ。

 

義務づけられていないベント設備を東京電力が取り付けていたのは、なぜか。福島原発事故後、親しい東電OBに聞いて驚く。社内で技術陣の意見が真っ二つに分かれ、結局、担当役員が設置を決断したという。もしその役員が逆の判断をしていたらどうだったか。福島原発事故で格納容器の破壊という、さらに悲惨な事態が起きた可能性もあった、ということではないだろうか。

 

◆空軍的取材に加え地上戦も

 

空爆だけではイスラム国に勝てない、といわれる。昔、同世代のある全国紙科学部長の話に感心したことがあった。「科学部も空軍的取材だけでなく、これからは地上戦のような取材も、もっとやらないと」

 

科学部長時代のささやかな行為として、厚生省(当時)の記者クラブに部員を常駐させたことがある。共同だけに机を1つ増やすことを認めてもらうには、記者クラブ総会の承認が必要だ。記者クラブに常駐していた共同の社会部員には特に大変お世話になった。無論、既に記者を常駐させていた共同社内3部の部長に事前にクラブ常駐の狙いを説明し、了承を得たのは言うまでもない。通産省での失敗に懲りていたので。

 

「省庁間に横串を通す施策を」。先日、あるシンポジウムで企業のパネリストが行政に注文を付けていた。新聞社や通信社の科学記者にも、幅広い対象に横串を突き通すような取材活動を期待したいものだ。

 

こいわい・ただみち

1945年生まれ 68年共同通信入社 科学部長 電波・電子メディア本部事務局長 ラジオ・テレビ局長 メディア局長 独立行政法人科学技術振興機構サイエンスポータル編集長(2006~12年)

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