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アメリカ取材を支えてくれた人々─その触れ合いの記録─(松尾 文夫)2008年3月

1964年末、ニューヨークに赴任して以来の私の長いアメリカ取材を支えてくれたアメリカの友人たち、つまり「書いた話、書かなかった話」の取材源であった人たちとの触れ合いを報告させてもらう。行数の関係で、5人だけとなる。最初の2人はすでに鬼籍に入られている。

●調査報道には懐疑的

やはり一番感慨深いのは、66年5月、最初のワシントン特派員時代、恩師であり、大先輩でもある松本重治さんに自ら紹介していただいた、あのジェームス・レストン大記者との出会いである。

ジョンソン大統領がベトナム戦争エスカレーションのペダルを踏み続けていたころで、ワシントンに立ち寄られていた松本さんから、ある朝「レストン君のところに行くから、君もついてきなさい」と声がかかり、松本さんの後についてニューヨーク・タイムズ紙ワシントン支局長室に入った。その時の高揚感はいまも生々しく残る。レストン記者は、使い古したアンダーウッドのタイプライターの上に黄色い縦長のメモ用箋を載せ、松本さんがベトナム戦争拡大のおろかさを諄々と説かれるのを、丁寧にメモしていた。

直接話ができるようになったのは、81年、支局長として2度目のワシントン勤務を始めてからで、サラ夫人とともに拙宅での夕食会にも2度来ていただき、家内の手料理を楽しまれた。レーガン政権の分析ではいろいろな教示を得た。意外なことに、ウォーターゲートで名を上げた調査報道については懐疑的で、「新聞の責任とはただ暴くことだけではない」とのことだった。

84年7月に私が帰国することになったときには、いきなり「東京で何をやるのか、ライターか管理職か」と聞かれ、まだわからないと答えると、「その選択は難しい。私にもライター一本で行くと決めるまでいろいろなオファーがあった」と生臭い話もされた。

振り出しがAP通信のスポーツ記者だったこともあって、通信社の経営問題には関心があり、帰国後共同通信とAP、ダウジョーンズ社との提携ビジネスを担当することになった私は何度も再会を果たし、ずいぶん励まされた。90年11月、お気に入りのメイフラワーホテル内のフランス料理屋「ニコラス」で昼食をご一緒したのが最後となった。

●ニクソン当選の予言

1966年、ニューヨークからワシントンに移る際、当時コロンビア大学教授に納まっていたケネディ政権時代のヒルズマン国務次官補から紹介されたマンスフィールド上院議員の長年の補佐官、フランシス・バレオ氏には05年逝去される直前まで、ワシントン政治の「読み方」で指導を受けた。特に68年のニューハンプシャー州予備選挙で、ジョンソンがマッカーシー反戦候補に7%差まで追い上げられた直後、「これで共和党のニクソンが当選する」と誰よりも早くささやいてくれた。

事実、その直後からジョンソン民主党政権は自壊現象を起こし、このニクソンがホワイトハウス入りを果たした68年大統領選挙は、現在に続くアメリカ政治保守化のサイクルへの分水嶺として歴史に記録される。バレオ氏の予言は、私にとっていまだに貴重な財産である。

太平洋戦争中は、中国戦線に従軍していたアジア通で、私のその後のバンコク勤務時代には、彼の紹介でフィリピンのマルコス大統領との会見があっという間に実現した。最後は議会職員としては最高位の上院事務総長まで上りつめた。57年、マンスフィールド議員の意を受けて、議会スタッフとしては初めて沖縄を現地調査し、沖縄施政権の早期返還を進言するリポートをまとめた人で、日本にとっては隠れた恩人だった。

●「レーガンを馬鹿にするな」

今では、イラク戦争突入の責任を問われ、厳しい立場におかれているチェイニー副大統領、ラムズフェルド前国防長官のコンビとの出会いも触れておかねばならない。

きっかけは、1969年9月、当時ニクソン政権の誕生を見届けて帰国したばかりの私が、国際交流センター理事長の山本正氏が肝いりとなって下田で開かれた第2回日米民間人会議に参加した際、下院議員からニクソンホワイトハウスに入ったばかりのラムズフェルド氏と出会った。議事終了後、山本氏らと下田市内のすし屋に出かけ、ニクソン政権談義に花を咲かせた。

再会したのは12年後の81年5月、私がワシントン支局長として2度目の赴任に向かう途中、わざわざシカゴ郊外の製薬会社の社長をしていたラムズフェルド氏を訪ね、発足したばかりのレーガン政権の全体像をワシントンでレクチャーしてくれる人物を紹介してもらえないか、と頼み込んだときだ。

快諾してくれた彼が即座に電話で呼び出したのが、当時のチェイニー下院議員。「ニクソンについての本を書き、ニクソン回顧録も訳した男だ」と丁寧に紹介してくれ、下院議員会館の電話番号と秘書の名前まで書いてくれた。ワシントンに戻ってこないのか、と聞くと「いつかはね」と片目をつぶってみせたのを覚えている。

チェイニー議員は、すぐ会ってくれた。当時40歳。打てば響くという表現がぴったりで、これは大変なやり手だと思った。「ラムズフェルドは私をホワイトハウスに雇ってくれた恩人だ。どんどん質問してくれ」とおどけてみせた。

84年までの勤務中、4回会った。一番印象に残っているのが、チェイニー氏が「レーガンを馬鹿にしてはいけない。反共思想、保守主義の原点に忠実で、ソ連を“悪の帝国”などと厳しいことばで決め付けるが、実際の行動は現実的で、最後のところでは安心していられる」と繰り返し語ってくれたことである。

テレビで見る最近の顔はめっきりふけて険しい。90年代半ば、AEI理事長だったころ、再会する予定が彼の体調不良でキャンセルになって以来会えていない。このエピソードは拙著『銃を持つ民主主義』でも紹介しており、出版されたばかりの英訳版を近く2人に贈ろうと思っている。

●黒人の指南番

マルコムXの元部下で、65年2月のハーレムでのマルコムX暗殺直後、国連本部の記者クラブでアンタラ通信社の特派員から紹介されて、知り合った黒人の友人、レズ・エドモンド氏とは今も付き合いが続いている。私と同年で、黒人問題のみならず、アメリカ社会全体の複眼的な勉強の指南番といったところである。

明石康氏(後の国連事務次長)の依頼で、ニューヨークに来ていた故有吉佐和子さんと3人、有吉さんの『非色』の舞台となったハーレムを、彼の案内のおかげで楽しく訪れた思い出もある。67年には、当時ピークにあった白人に対する黒人の優位を主張するブラックパワー運動の指導者、ストーキー・カーマイケル氏とのインタビューも取りもってくれた。その後、博士号をとり、今はニューヨークの郊外にある上智大学の姉妹校、セント・ジョン大学のマルチカルチャセンターの所長として教壇に立っている。

私の本の英訳版出版を大変喜んでくれた一人で、ワシントンでの私の講演には、仲間を連れて駆けつけてくれた。オバマ候補については、2月中旬電話で話したときも、もうすこし様子をみたいと慎重だった。






まつお・ふみお会員 1933年生まれ 56年共同通信入社 ニューヨーク ワシントン特派員 バンコク支局長 ワシントン支局長 論説委員を経て ㈱共同通信社常務 共同通信マーケッツ社長などを務めた後 02年からジャーナリスト復帰 著書『銃を持つ民主主義』で第52回日本エッセイスト・クラブ賞受賞 昨年末 米国で英訳版が出版された

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