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虚構の真意を問い続けて(尾崎 真理子)2026年1月

 時代の最前線に立つ作家に、完成した小説について真っ先にインタビューする。それは文芸担当の記者ならば、最も心躍る取材だろう。

 作品の価値はもちろん、話題性や社会的意義というニュース性を見込んで話を聞く。作家もまずは友好的に向き合ってくれるが、準備が足りないといい話は引き出せないし、宣伝に傾く。

 書斎まで出かけて苦心談をまとめる、いわゆる「訪問記」は新聞の草創期から続く定番の読み物で、それが続いてきたのは、虚構を通じて人間の真実を書くのが文学であり、どのように発想し、どんな意図が込められているか、作家の言葉に偽りはないと了解されてきたからだろう。だが、みずから築いた虚構について、どこまでその土台にある「本当のこと」を明かすのか。記者はどこまで的確に、作品を報道し得るものなのか。小説という虚構=フィクションの創作をめぐって真意を問うという、なかなか危うい足場に立って新聞記事を書くわけである。場数を踏むほど怖くなった。

 

小説家は時代の本質を体現

 念願の文化部に3人目の女性として配属されたのは、バブル景気も終わった1992年。文壇も出版界もすでに昭和の精彩を欠いていたものの、村上春樹の読者は海外でみるみる膨らみ、小川洋子、多和田葉子らも頭角を現し始めていた。自国の小説しか読まない英語圏と違い、明治以来、日本ほど海外の翻訳作品が豊富に読める国はめずらしく、それが何語に翻訳されても価値を発揮する「世界文学」級の作家が輩出する土壌となっていることが、この頃、明らかになりつつあった。

 94年には大江健三郎がノーベル文学賞を受賞した。東洋のエキゾティズムではなく、現代人の普遍的な苦悩を描いたとの評価だった。受賞の余韻の中で行われた講演で氏は定義した。

 「小説家はある時代を生きる際に、時代をいかにも個人的に生きて、その個人として自分のことを書いて、それでいてしかも、どうも時代そのものを書くものではないか? そしてついには時代の本質を表現するものではないか?」 

 まずは大江、人気筆頭の瀬戸内寂聴、次のノーベル賞候補と目された村上春樹の動向を追うのが、ずっと優先事項であり続けた。オウム事件、国際的テロ、2度の大震災等に際して発言し、行動を起こすのもたいていこの三人だった。水村美苗、松浦寿輝、堀江敏幸らの仕事からも目が離せなかった。西欧文学を専門とし、海外で長く暮らしたこれらの作家は、日本文化を再発見する優れた評論も書き、平成を代表する知識人となっていった。

 

生きた現代史 残すために

 「第三の新人」は次々にこの世を去り、続く「内向の世代」の読者は格段に少数だった。それでも戦後の文化を築いてきた重要人物は多く健在していた。菊池寛の薫陶を受け、子どもの本に100年の生涯を惜しみなく注いだ石井桃子。宇宙と日常社会の詩情ポエジーを全身で受け止め、自由詩として解放した谷川俊太郎。私小説を批判し、英国流モダニズムと書評の価値を強調した丸谷才一。セゾングループを率いながら消費社会を詩で批判した辻井喬(堤清二)。これらの人々の仕事も来歴もそのまま生きた現代史であり、聞き取る者がいなければ永久に失われてしまいかねなかったから、余力のある限り話を聞き、ついには追悼記事を書くに至った。石井、谷川については評伝のような本も出来上がった。

 長い文章を試みるよう背を押したのは、ソウル特派員を務め、ベトナム戦争後に芥川賞作家となった読売新聞編集委員、日野啓三だった。筆者の未熟な文章について、電話でしばしば苦言が飛んできたが、励まされもした。「原稿用紙で7枚、しっかり論旨のつながる文章の塊りが書けるようになれ。それが一つの単位で、積み上げれば本ができる」

 30年ほど前、文化面トップの記事は400字詰めで6枚から7枚分あった。今、それだけの長尺記事に臨む機会が、どれほど与えられているだろう。

 

大江健三郎のわずかな動揺

 なぜ、その作家は時代の本質を書く個人となったのか。創作の核心にあるものは……。それを捉えた記事を書きたくても、どれほども果たせなかった。作家は肝心な部分は明かさない。自分にもよくわからない、無意識のうちだと口ごもる。批評家は本文の中から探り当てることもあるが、文芸記者にとってはやはり、インタビューほど示唆を得られる有効な手段はない――これが取材にも読解にも最も労力を費やした、大江健三郎に学んだ結論になる。

 拙著『大江健三郎の「義」』でも触れたが、氏はどうして世田谷区成城に住まいを定めたのか。また、初期から繰り返し名前に「ギー」と付く作中人物が登場するのはなぜか。これらを問うた時の、わずかに動揺や拒絶を含んだ表情は、傷跡のように長く残った。踏み込んではならない、創作の柔らかな核心部分に及んでしまった、ゆえに弾かれたという感触があった。それを手掛かりに定年後、じっくり小説群を再検討して初めて、「ギー」とは同じく成城を第二の故郷として生涯を終えた民俗学者、柳田国男に由来するのではないかとの仮説にたどりついた。

 仏、英の文学からの影響を主に論じられてきた大江作品、しかしその根幹には、柳田国男、島崎藤村、さらには平田篤胤の国学の影響もありありと見えてきた。『万延元年のフットボール』『同時代ゲーム』から30作目の最後の長編まで、次々にその証左が見つかった。大江は古今東西の思想を融け合わせながら自身の文学を、現代人の普遍的な苦悩を、創作し続けてきたのだった。

 作品が書かれた頃の新聞記事や、当時を知る人の証言も読解の重要な根拠となる。昨夏、被爆者を取材した約60年前のルポルタージュ『ヒロシマ・ノート』に登場する「中国新聞」の金井利博記者について調べるうち、別の短編に出てくる金井らしき「K」という人物には、同じ広島出身で早世した無頼の流行作家、梶山季之の姿も重ねて書いてあることがわかった。梶山はその短編の舞台であるハワイで移民として育った母を持ち、ハワイ大学へ何千冊もの蔵書を寄贈していた。金井と梶山を知る同紙の元編集局長、平岡敬・元広島市長の協力を得られなければ、この伏線は掘り出せなかった。

 

インタビューは面白い

 いずれは誰かが指摘するだろうと作家も想定していただろう。空想と想像は違う、想像には根拠があると柳田は述べたが、大江も「根も葉もないと思う空想はひとつもありませんよ!」と息子の書いた小説を抗弁する母親を、晩年の長編『水死』の中に描いた。筆者はここを「自分の小説はすみずみまで現実と現代史に根差している」という宣言だと解釈する。所詮は小説という虚構の中の話だといえばそれまでだが。

 文学のみならず、文化にかかわる真実や真価が判明し、定着するまでにはかなり時差がある。学者の知見にも助けられるが、研究は没後に本格化するので、作家本人を知らぬまま大方の論文は書かれる。欧米ではその時差を埋めるように、年長のジャーナリストがさまざまな分野の人物評伝を、一線を退いた後も周辺の調査や考察を重ねて書く。筆者の仕事もそうした一例だろう。

 組織を離れると資料集めも取材も大変になるが、インタビューはいくつになっても面白い。同時代を生き、影響を与えられてきた作家たちのことを、もうしばらく書いてみようと思う。

(敬称略)

 

おざき・まりこ▼1959年宮崎県出身 82年読売新聞社入社 静岡支局などを経て 92年から文化部 編集委員 文化部長に就き 2019年に定年退職 20年度から3年間、早稲田大学文化構想学部教授 文芸評論家

 2014年著書『ひみつの王国 評伝 石井桃子』で芸術選奨文部科学大臣賞 新田次郎文学賞 22年『大江健三郎の「義」』で読売文学賞評論・伝記部門を受賞 16年度日本記者クラブ賞 著書に『大江健三郎全小説 全解説』 谷川俊太郎との共著『詩人なんて呼ばれて』 池澤夏樹との共著『一九四五年に生まれて』など

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