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赤道直下、密林と原野の南スマトラを歩く 熱帯農業開発に挑んだ日本人たちのたたかい(柴崎 信三)2016年7月

高度経済成長で瀰漫した「豊かな社会」が石油ショックでいささか陰りを帯びはじめたころ、田中角栄首相の金脈問題やロッキード裁判に追われていた遊軍記者は、いきなりデスクから「スマトラで日本の経済協力の現場を取材してルポを書け」という指示をもらって慌てた。

 

スマトラといえば、かつて日本軍がパレンバン空挺作戦で油田を抑えた「空の神兵」が脳裏をかすめたが、いま振り返ればこの取材は、外交や戦争や国際テロなどとは違った意味で、辺境の現場から戦後の日本経済の陰画を見いだす旅であった。

 

インドネシア・スマトラ島南部のランポン州スリバオノ村。首都のジャカルタから頼りない双発機でおよそ30分、スンダ海峡に近いタンジュンカランに降りると、そこから四輪駆動車で舗装されていない赤土の悪路をおよそ半日走った。

 

1976年秋のことで、めざしたのは三井物産を中心に日本とインドネシアの官民が協力して8年ほど前に発足させた大規模農場「ミツゴロ」である。

 

◆思惑一致で事業スタート だがその現実は

 

ニッパヤシの生い茂る密林を切り開いた開拓地に4つの広大な農場があり、日本の商社とJICA(国際協力事業団=当時、現・国際協力機構)から派遣されたスタッフの下で、周辺の農村から集まる現地の若い男女がトウモロコシやキャッサバ(タピオカ)を育てている。

 

四季のない炎暑で焦がされた大地に突然、激しいスコールがやってくる。それが目の前の川を瞬く間に濁流に染めたかと思うと、にわかに晴れわたった草原から一陣の涼風が渡る。褐色の川面を野生のワニが悠然と泳いでいる。ゲストハウスと呼ばれる自家発電の宿舎の小屋の片隅には、近くの原生林で開墾中に仕留められたというトラの剥製があった。

 

60年に吉田茂元首相がインドネシアを訪問した際、戦後賠償をからめて農業開発を通した日本の経済協力を求められ、三井物産が民間の受け皿となって、オランダ統治時代の独立義勇軍を母体としたコスゴロと合弁で、スマトラに「ミツゴロ農場」の開設が具体化する。開所式にはスハルト大統領夫妻も出席して華々しいスタートを切った。

 

人口の膨張に悩むジャワから不毛の荒野だったこの地域への国民の移住を促し、その労働力で食糧生産を増進したいインドネシア側と、米国穀物メジャーの動向に支配される国内の食糧供給の改善へ向けて、飼料用穀物の供給多角化をもくろむ日本の思惑が、この事業に結ばれた。

 

とはいえ、その8年後の現場で目の当たりにしたのは、ODA(政府開発援助)と商社プロジェクトという官民の枠組みの下で、熱帯の大地に「緑の革命」を進める日本人に立ちはだかった途方もない壁である。

 

風土を生かしてトウモロコシを年3回収穫し、輸出用の飼料穀物として世界の市場に出すという戦略は、雨不足とベト病といわれる熱帯の風土病で大きく目算を狂わせていた。

 

やむなく農場はキャッサバやロゼラ(麻)との輪作を余儀なくされた。

 

「品種を熱帯用に改良して肥料も風土に合うように開発したが、収穫量は目算を大幅に割り込み続けている」とJICAから派遣された山口文吉さん(当時64)は嘆息した。

 

三井物産からの出向でミツゴロの経営にあたる社長の木村幹さん(同46)は、創業8年でなお赤字経営が続くこの事業の先行きに不安を隠さなかった。もちろん、熱帯の過酷な環境に加えて政府ベースのODAと総合商社の収益事業という、矛盾をはらんだ条件を抱える経営についての迷いがそこにはあった。

 

肝心の作物の収穫が思うにまかせないことに加えて、日本のODAで建設が期待されていた積出港までの道路が実現せず、インフラの悪さが作物の商品価値を低下させた。

 

一方、人口爆発が続いて貧困の根が深いこの熱帯の途上国にあって、トウモロコシは国内の食糧に充てることが優先され、飼料穀物として輸出に振り向ける余力は乏しかった。

 

当初、日本側が描いたシナリオが次々と頓挫するなかで、過酷な生活環境は日本から派遣されたスタッフたちにも困難を強いた。

 

妻子を伴って赴任している若い農業技術者は、幼子が発熱して医師の診療が必要となり、都会まで車で半日の道のりの悪路を飛ばさなくてはならなかった。マラリアの危険が常態化した風土であり、感染して命を落とした日本人社員もあった。

 

◆広がる「消費の目覚め」 地域社会に大きな刺激

 

こうしたなかで、現地人のスタッフや働きに来る近隣の地域住民たちは、この農場の開発とそれに伴う村落の生活の大きな変化を、おおむね歓迎していたことが印象深い。

 

「ゴトン・ロヨン」と呼ばれる相互扶助の文化が根強くあって、集落の請負労働になじんできた人々が農場の賃金労働で個人として収入を得るようになると、次第に地域社会に消費への目覚めが広がった。若者たちは街へ出て流行のファッションを身に着けはじめた。

 

スリバオノ村の若い村長、シスワントローさんは「ミツゴロの農業技術は村全体への刺激となって、多くの農家がまねるようになった。大豆など村の産品をミツゴロが相場より高い価格で買い入れてくれたことも地域を豊かにした。道路や学校、水道など社会資本への援助を含めて、ミツゴロが地域へもたらしたものは大きい」と、その地域社会への影響を高く評価していた。

 

「ミツゴロ」に続いてランポン州には三菱商事が「パゴ」、伊藤忠商事が「ダヤイトー」という同様の農業開発法人を立ち上げて穀物などの開発輸出へ向けた農場を展開した。しかし、いずれも積み重なる累損に耐え切れず、「ミツゴロ」と「ダヤイトー」は83年、「パゴ」は84年に業務をインドネシア政府に全面移管して撤退した。

 

◆〝商社の時代〟に切り開いた地 豊かな農業生産拠点に

 

70年代から80年代にかけての日本は「商社の時代」であった。「ラーメンからミサイルまで」といわれる貪欲な市場へのアプローチは「日本株式会社」の牽引力であり、資源・エネルギーや食糧をめぐって展開する海外の大型開発プロジェクトは内外から大きな関心が注がれた。

 

同じ三井物産が中心となって手掛けたイラン・ジャパン石油化学(IJPC)は、日本のエネルギー資源確保をめざしてイランの油田廃ガスを利用した石油化学事業だったが、中東戦争やイラン革命で破綻して「壮大な失敗」と呼ばれた。

 

「ミツゴロ」が切り開いたランポン州はその後、積出港への輸送路が整備され、移管後にその農法を引き継いだハイブリッド種のトウモロコシの産地として大きな発展を遂げた。いまではスマトラでも豊かな農業生産で知られる地域となった。

 

「森をひたした大きな湖水がある。人間をしらない原始林にすべてがつづいている」と、戦前にこの地を放浪した詩人の金子光晴は書いた。

 

3週間に及ぶ取材は国際面で7回の連載記事になった。当時、三井物産の社内で「無謀」とも「愚行」ともささやかれた南の島の「夢」の軌跡をたどると、40年前に熱帯の大自然とたたかったスタッフたちの深い溜息が聞こえてくる。

 

それこそが、この取材の「書かなかった話」である。

 

しばさき・しんぞう
1946年生まれ 69年日本経済新聞社入社 文化部長 論説委員などを経て2007年退社 現在は獨協大 白百合女子大 早稲田大などで教える
主な著書に『〈日本的なもの〉とは何か』(筑摩書房)、『絵筆のナショナリズム』(幻戯書房)など

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