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労働記者30年 労組地盤沈下のワケを読む(山路 憲夫)2013年6月

労働運動の存在感が薄れた。労働組合が登場する記事はめっきり減った。昨年の衆院選で民主党が惨敗した一因として、同党最大のスポンサーである連合系労働組合の力の低下も明らかにあるだろう。


日本の労働運動はなぜここまで地盤沈下したのだろうか。この30年、労働組合を見てきた筆者には思い当たることがいくつかある。


書いた記事でうらまれたことはあまたあったが、逆に図らずも労組から感謝された話から始めたい。


◆「借金全逓」追及記事に感謝?


1984年、社会部労働担当となって1年足らずの頃、郵便局の局員らを組織していた全逓(全逓信労働組合、当時の組合員は18万人)内で、全国各地にあった全逓会館をめぐる不祥事で密かに「調査委員会」が作られたのを知った。取材を重ねると、次のような事実がわかった。


かつて全逓は当局の差別的な人事政策に反対して、年賀状配達をボイコットする大闘争を展開、「権利の全逓」ともいわれ、国労(国鉄労働組合)や動労(国鉄動力車労働組合)とともに、総評(日本労働組合総評議会)を支えた三公社五現業の公労協の中心労組だった。当時は緊張した労使関係もあって、70年代から「組合活動の拠点づくり」「組合員の福利厚生」を目的に全逓会館を次々と各地に建設した。


ところが、組合員だけでなく一般向けの会館に次第に変質、豪華なホテル並みの会館を作ったり、ピンクサービスを売り物にする温泉地の会館まで現れた。組合役員の天下り先の確保と巨額な建設費のバックマージンという、うまみもあると言われた。北海道ニセコ町に80億円もの資金をつぎ込んだ会館は空港からのアクセスも悪く、利用客ももくろみを大きく下回った。会館の経営を担った労組幹部たちは、経営の素人で、採算を度外視した経営に陥り、総額400億円もの借金を抱えるに至った。


その全容を85年11月27日毎日新聞社会面トップで「あきれた全逓商法」「採算度外視、組合幹部が独走」との見出しで報じた。同じく全逓幹部OBと郵政省との相乗りで運営する郵政互助会で、中心となった全逓出身の幹部による乱脈経理を明るみにした記事も続報した。


関係した幹部が辞任、全逓会館の売却も決定された。当然ながら筆者は全逓から「目の敵」にされた。


ところが、である。労働担当から一時期離れ、再び編集委員に戻った頃、「全逓会館問題」当時の委員長をしていたM氏に久しぶりに出会った。うらみつらみを言われると思いきや、いきなり握手を求められた。聞くと、新聞報道後全逓会館を徐々に売却を始めたところ、バブルの最中を迎え、横浜の全逓会館などピークの高値で売却、一挙に借金を返済できたと言う。「あなたが記事にしてくれたおかげです」と言うのだ。なんとも面はゆい思いをした。


◆幹部たちの腐敗と迷走


振り返ると、日本の労働運動にとって80年代は、大きな節目の時期でもあった。


筆者が労働担当になった頃、労働組合とりわけ総評は「昔陸軍、いま総評」と言われたかつての面影はなかった。中曽根臨調(臨時行政調査会)で、公営企業体の民営化が次々と打ち出され、総評の中心を担っていた国労、動労、全逓、全電通(全国電気通信労働組合)など官公労系の労組は後退を重ねていた。


ところが、スト資金の積立金などの資金は潤沢で、金の使い方は派手だった。東京・八重洲口の国労会館にあった国労本部を訪れると、昼食でも銀座の料亭に出かけていた。国鉄の分割・民営化に直面しながら、幹部は無力だった。腐敗した幹部も少なからずいた。総評解散前の象徴的な出来事の一つが「全逓会館問題」だった。


民営化が総評の解散につながったのは紛れもないが、幹部たちの腐敗、迷走の責任も免れない。


しかし、総評や同盟(全日本労働総同盟)に代わって89年11月、「平和 幸せ 道開く」を掲げて華々しく結成された民間労組中心のナショナルセンター・連合(日本労働組合総連合会)は勤め人の期待に応えられたのだろうか。答えは明らかに否である。


右肩上がりの経済が終わりを告げ、労組の主要な役割だった賃上げの比重は低下した。代わって働く人々に共通する年金や医療保険などの社会保障、税制改革、労働時間短縮など政策制度課題の重要性が増した。増え続ける非正規社員も含めた組織化(労組の加入率)を進めることが、連合に課せられた役割だった。


ところが、社会保障制度改革について連合は言い分をほとんど通すことができなかった。組織化も一向に進められなかった。


85年に労働者派遣法ができて以来、規制が次々と緩和され、製造業の自由化まで認めてしまった。パートや派遣など非正規社員が増え続け、非正規の雇用者は4割近くに及ぶ。結果として働く人々の格差の広がりを許した労組の責任は免れない。


その原因は二つある。一つは日本特有の企業別労働組合という組織形態が時代に対応できなくなったこと、もう一つはリーダーシップの欠如である。


◆組織化には人も金もいる


2001年4月26日付毎日新聞の社説の「視点」欄に、当時の鷲尾悦也連合会長(故人)を名指しで「労組改革できぬ鷲尾会長は辞めよ」と署名入りで書いた。労組の反発は強かったが、あまりにもリーダーたちの動きは鈍すぎた。


そのせいかどうか、鷲尾会長はその年の会長選挙への立候補を断念したが、代わって登場したリーダーたちも凡庸だった。


03年11月、笹森清・会長(故人、肩書は当時)と高木剛・ゼンセン同盟会長(のちに連合五代目会長)との間で会長選挙が行われた。その最中「日本労働ペンクラブ」が日本記者クラブで二人の候補を呼び「候補者から聞く」会を催した。


その場で私は「組織化についての連合の動きをみていると、竹槍精神を鼓吹して事態を乗り切ろうとした、かつての大日本帝国参謀本部を思い出す。金も人も出さずに組織化できるわけがないではないか」と第二次大戦中の軍部まで持ち出して批判した。毎日の大先輩の故・新名丈夫氏が第二次大戦中、「竹槍では間に合わぬ」と軍部を批判して、戦地に追いやられた「竹槍事件」である。


そんな古い史実まで持ち出したのは、組織化には人も金もいると言いたかったからだ。年間7000億円を超える労働組合費の9割が企業別組合に集中、自動車総連や電機連合といった産業別組織には1割、ナショナルセンター・連合の予算は労働組合費全体の1%。企業内での労働条件の引き上げや組織化は難しい。産業別組織やナショナルセンターに金も人もシフトしないと、組織化も政策制度の前進も難しい。それがわかっているのに、加盟組織からの反発を恐れ、リーダーは手をこまぬいているだけだ。


◆求む、使命感あるリーダー


そのシンポジウムから、もう10年が過ぎた。鷲尾氏も笹森氏も故人となった。労組はますます企業内のタコツボに入り込むばかりである。


「会社人間から社会人間に」。敬愛する連合初代事務局長の山田精吾さん(故人)は早くからそう言い続けた。会社という塀の中の労働組合運動から脱しないと労組も日本の未来もない。それをよくわかっていた。


正規も非正規も、老いも若きも、男も女も差別なくワークシェアで働ける社会を実現させる。それが、人類がかつて経験したことがない、この未曽有の少子高齢社会を乗り切る突破口ではないか。


使命感を持つリーダーよ、出でよ。


やまじ・のりお 1946年生まれ 70年毎日新聞入社 84年から東京本社社会部労働担当 91年編集委員 論説委員(社会保障・労働担当) 2003年から白梅学園子ども学部教授(社会保障、社会福祉)  著書に『労働組合は死んだか』(1986年 こう書房)『医療保険がつぶれる』(2000年 法研)など
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