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“死”を体感する(黒岩 徹)2011年10月

読者の心とらえたエピソード

「あの男はできる」。そう思ったのはイラク・イラン戦争の戦場だった。1980年9月、イラク軍がイランに侵攻したとのニュースをロンドンで聞き、ヨルダンのアンマンから車を借り切ってバグダッド、さらにバスラに到着した。イラクから逃げ出す日本人たちに何人にも会ったが、戦場に行くと告げるとあきれた顔をされた。


ロンドンからフジテレビ、ロンドン特派員の有泉一雪氏と一緒だった。もし戦場で命を落とすことになれば互いに骨を拾い合おうと半ば本気で半ば冗談に誓い合った。バスラでもう一人の日本人テレビ記者と3人でタクシーを借り上げて、イラク軍トラックを横目に見ながら前線に向かった。


突然、爆発音が聞こえ、車がストップした。イラク人運転手はものも言わずに車から飛び出し、近くの側溝に身をひそめた。われわれも危険を察知して、それにならった。イラン空軍機が爆撃してきたのだ。


すぐさま、イラク軍が機関砲でイラン軍機に向け、砲弾を発射した。激しい連続音が聞こえたと思ったら、有泉氏は、やにわにカバンからテープレコーダーを取り出し、砲撃の音を録音した。死と隣り合わせながら、戦場の音をレポートに使おうととっさに考えたのだ。その冷静さに「あの男はできる」と心の中でうなった。もう一人のテレビ記者がそれを見て、あわててカバンの中から何かを取り出した。巻き紙のトイレット・ペーパーだった。砂漠に近い戦場では必需品だ。彼は後で「おれは負けたと思った」と述懐した。


戦場では常に死を意識する。革命や騒乱でも同じだった。20年以上独裁体制を敷いたルーマニアのチャウシェスク政権が倒れたと聞いて、ロンドンからブカレストに飛んだ。小雨そぼふるどんよりとした空の下、広場の一隅に11本のローソクがなぜか寂しげに火を灯していた。チャウシェスク政権打倒の原動力となった救国戦線のソリン・ブッシェに、揺れるローソクの灯の意味を尋ねたときである。突然彼の目から涙があふれ出た。感情を抑えるのにやや時間が必要だったが、彼は語り始めた。


●新聞記事が人生を変えることも


「私はなんと若者を誤解していたことでしょう。チャウシェスクの教育政策によって、大学では生産に役立つ技術論とチャウシェスク礼賛の経済・哲学が大半となり、文学や芸術のコースがほとんどなくなってしまいました。そんな教育を受けた若者は私にとって異星人であり、とても意思疎通ができないと思っていました。ところが、彼らがチャウシェスク打倒を叫ぶデモを始めたのです。ブカレストの広場で彼らを鎮圧しようとセクリタテア(秘密警察部隊)が銃を向けたとき、何人かの若者はジャケットを両手で広げて『われわれには失うものはなにもない、撃て』と叫んだのです。セクリタテアは無情にも発砲し、11人の若者の命が奪われました。自由のない環境で育った彼らが自由を求めて命を賭したのです。若者にまったく期待していなかった私は、彼らを完全に誤解していたのです」


そう言って再び涙をぬぐった。聞いていた私も涙を抑えられなかった。


この心に迫る話を毎日新聞の「記者の目」に書き「これは若者が本来的に自由を求め、より高みに登ろうとする存在であることを証明するのではないか。人間の持つ本質的な資質は恐怖や脅迫によっては奪いえないことを若者は自らの身で証明した」とコメントした。1カ月後、日本から送られてきた手紙に驚がくした。送り主は女性の高校3年生だった。手紙は語る──。


「ルーマニア秘密警察部隊の銃に倒れた若者の話は、遠く離れた日本の若者へのメッセージに思えます。自由に溢れた日本の若者がなにを志向すべきか、示唆的です。私は今、日本で最も有名な大学と国際交流に強い小さな大学の入試に合格しました。あなたの記事を読んでいて、世界のこうした若者と意思を通じ合いたいと願って、国際交流を目指す小さな大学を選ぶことにしました」


何度かこの女子高校生と手紙のやり取りをした結果、彼女は、東大と国際基督教大の入学通知をもらったが、後者を選んだ、ということが判明した。生死に関する記事がいかに人の心をとらえるものか、新聞記事が人の人生を変えることがあるのか。襟を正す思いだった。


●反響をよんだ愛犬の死の話


死にまつわるストーリーでひどく読者の反響をよんだことがある。わが愛犬の死に関するこんな文だった─


「ブッシュ大統領(パパ・ブッシュ)がテレビに現れると、いつも後ろの光景を見ようとする。スプリンガー・スパニエル種の彼の愛犬が映っていないかと目で追う。『デリー』という名のわが家の犬も同種のスプリンガー・スパニエルだからだ。


14年前英国の友人がクリスマス・プレゼントとして贈ってくれた。『お留守番』という言葉が嫌いだったし、息子たちがデリーのその日の悪さを私に報告するとき、身を縮めて机の下に隠れた。日本語、英語を理解する『バイリンガル(2カ国語を操る)』だった。『シット(お座り)』とのかけ声に発音が悪いと理解しないほど言葉に敏感だった。


彼が来て以来、世界観、人生観が変わった。動物がこれほどまで繊細な感受性をもつことを初めて知った。目がこれほどまで多様な表現をすることも分かった。海外取材で言葉の通じぬ相手を前にしたとき目を読むべきと悟ったのは彼のおかげだ。『私の人生に最も影響をあたえた人』である。


デリーは2週間前永遠の旅に出た。涙が止まらなかった。人生の師、息子を失った思いだった。


不運なブッシュ大統領の退場を惜しむのはデリーに続き彼の愛犬も見られなくなるためである。これでは客観性を求められる特派員として失格だ。だがやはり寂しい」


何週間も経って東京から手紙の束がごっそりロンドンに送られてきた。「私も飼っていたハムスターに死なれたとき、嘆き悲しみました。あなたの気持ちがよく分かります」「あなたは決して特派員失格ではありません。温かい心をもった特派員です。これからもいい記事を書いてください」といった同情や励ましの手紙ばかりだった。私が今まで書いた記事で最も多くの手紙をもらったのは皮肉だった。死そのものがテーマだったためだろうか。


●他者へのいたわりが人を高みへ


死の意味を考えさせられたのは、末期がんの患者を集めたロンドンのセント・ジョセフ・ホスピスで医師リチャード・ラマートン博士の話を聞いたときである。この医師はすべての患者に死期が近いことを告知する。その時の患者の反応はかなり共通している。


第1段階として死を避けることが出来ない状況を知って驚がくし、それを否定する。第2段階は、この状況を救えない医者に怒りをぶつける。


第3段階では、死が真近かであることを認めるが、医者にいかなる薬を実験的に使ってもいいから自分を救うよう懇願する。あるいは神に向かってもう少し生をあたえてくださるよう祈るのだ。第4段階で、こうした願いが効果ないと知って絶望する。打ち沈み、悲嘆にくれ、目は輝きを失う。


しかし最後の第5段階で自分の人生を振り返って意義を見出そうとする。その意義とは、家族のために働いた、仲間と楽しく生きたがそれは仲間にとってよかったはず、社会のために役立つことをした、すなわち「人のために何かをした」ということが多い。その段階で人の顔は輝きを見せる。老いも若きも年に関係なく、美しくなるのだ。人生の最後の段階で、自分の成功でなく、他者への愛を心の支えにするということは、やはり人間は他者との関係でしか存在できないことを証明しているのかもしれない。


今、東日本大震災でボランティアたちが被災者のために、と働いている。彼らの多くは「被災者から逆にエネルギーをもらった」といっている。おそらく他者に尽くすという精神が、被災者に跳ね返ってエネルギーをもらったに違いない。そのときボランティアも被災者も顔に輝きを見せたはずだ。他者へのいたわりは、人をより高みにいざなうのだろう。


くろいわ・とおる 1940年生まれ 64年毎日新聞入社 ワシントン特派員 ロンドン支局長 欧州総局長などを務める 99年度日本記者クラブ賞受賞 01年大英名誉勲章受章 現在 東洋英和女学院大学名誉教授

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