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ノーベル賞・福井謙一博士(馬場 錬成)2011年6月

間に合った二つの忘れもの

1981年10月19日午後9時過ぎ、AP通信から送られてきたテレックスの第一報は「ノーベル化学賞受賞者にケンイチ・フクイ」というたった1行だった。初めて聞く名前に在外の日本人研究者かと思った。ほどなく京都大学の理論化学研究者、福井謙一教授と分かる。受賞業績の「フロンティア電子理論」などと聞いても、何がなんだかさっぱり分からない。筆者はそのとき、日本人のノーベル賞受賞者発表にそなえて、読売新聞科学部の夜勤勤務だった。


福井博士の自宅には、発表直後から多数のジャーナリストが押しかけ、テレビ中継も始まった。そのころは今と違って、ノーベル賞受賞候補者を多数予想して予定稿を書いて準備するなどということはしていなかったので、不意打ちを食って大いにあわてふためいた。受賞対象となったフロンティア電子理論とは何かという解説記事を書かなければならない。しかし何も知らない筆者が、発表直後にまともな解説記事など書けるわけがない。早版原稿は業績までは書けないので、福井博士の経歴や人となりを紹介する内容でごまかすよりなかった。この時の不意打ちに懲りて、その後メディアは受賞者を予想して多くの予定稿をストックするようになる。


●受賞は意外ではなかった?


テレビで受賞インタビューを受けている福井博士に、インタビュアーはしきりに「受賞は意外でしたか」と問いかけている。「意外でした」と言わせたいのである。しかし福井博士は、まるで意外ではなかったような口ぶりで応じている。これが非常に印象に残った。


読売新聞社は、88年から「ノーベル賞受賞者日本フォーラム」をNHKと共催で始めた。これはいまなお続いている長寿イベントである。ノーベル財団に何度か訪問して趣旨を説明し、財団が公認するイベントというお墨付きをもらった。財団本部に知人がいた故矢野暢京大教授の働きかけも役立った。このフォーラム担当になった筆者は、当時の日本人受賞者の江崎玲於奈、福井謙一、利根川進の3博士とはよくお付き合いする機会があった。とりわけ福井博士とは講演のお供をしたり、博士が京都から上京された折には食事のお相伴を仰せつかり内外の話題について話を聞く機会が多かった。


福井博士は質実剛健、謹厳実直という言葉がぴったりする学者であり、一種近寄りがたい威厳を漂わせていた。最初にノーベル賞フォーラムへの出席をお願いに行ったとき、用意していったお願いの趣旨の文面を黙読し「このような内容は私の性に合わない」と言って断られた。改めて文面をよく読むと、謝礼、交通費、宿泊費などお金の話ばかりが書かれているような文面だった。帝国ホテルでフォーラムを開催したとき、外国人の受賞者と同じようにとスイートルームを用意したときにも、「私の性に合わない」と言ってさっさと自分がいつも利用されている普通の部屋に変えてしまった。


●推薦はプリコジン博士か?


最初、とっつきにくい博士だったが、信頼関係が生まれると非常に味わいの深い人柄を垣間見せた。お酒を飲みながら博士の話を伺うことが楽しくなった。『ファーブル昆虫記』を愛読されて育った少年時代、剣道に打ち込んだ中学・高校時代、量子力学を独学した大学時代から、友栄夫人と結婚前にデートしたとき、食事の支払いを忘れて夫人に支払わせた失敗話など、非常に楽しそうに聞かせてくれた。博士は巨人の隠れたファンだった。家族には内緒で東京ドームに巨人戦を観に行ったこともあった。あるとき、上野公園を散歩したとき、公園に茂る木々の名とそのいわれをよどみなく解説されたのにはびっくりした。このときほど博士の教養の深さに感心したことはなかった。


そんな折、ノーベル賞を受賞したあの日、受賞は意外ではなかったというニュアンスで対応した本音を聞いてみた。すると受賞する数年前から、受賞するのではないかと強く予感していたという。国際的な学会に招かれて基調講演をしたり、スウェーデンのノーベル・シンポジウムに招待されて講演するような機会が増え、外国での評価が高まっているのを肌で感じていた。決定的だったのはある受賞者が「受賞候補者としてノーベル財団に推薦した」と言って、その推薦状をわざわざファクスしてきたという。受賞者は、推薦された人から選ぶ決まりになっており、ノーベル賞受賞者からの推薦が最も有力な候補者になる。


誰が推薦したのか博士は言わなかったが、言葉の端々から「散逸構造の理論」で77年にノーベル化学賞を受賞したベルギーのイリヤ・プリコジン博士だったように思う。


91年12月、スウェーデンのストックホルムのホテルの一室で、福井博士と私は向かい合って深刻な話をしていた。博士はベッドの端に腰を掛け、私には備え付けの椅子に座らせた。私が恐縮して席を変えようとしても博士は応じない。一度言い出したら言動を変えない博士のことを知っていたので、そのまま話をするしかなかった。


●90周年式典に勲章を忘れる


そのとき電話が鳴った。一瞬の間を置いて博士は言った。「家内からです。私は出ません」。仕方なく私が電話に出た。果たせるかな電話は京都の友栄夫人からであり、「先生はいま、席を外されています」と言い訳をして用件を伺った。


「忘れていった勲章は、知人に託してストックホルムまで届けます。受け取ってください。万事うまくいきますようお願いします」というような内容だった。


ノーベル財団はノーベル賞創設90周年を記念する式典を開催することになり、アルフレッド・ノーベルの命日である12月10日に式典を行うため世界中からノーベル賞受賞者がストックホルムに集まってきた。式典に列席する受賞者は、勲章を装着するのがしきたりになっている。福井博士は文化勲章と勲一等旭日大綬章を授与されているので、両方を装着しなければならない。その勲章を忘れてきたので、わざわざ届けるという電話だった。


●明治の元勲のようだった


ホテルの一室で博士と私が相談したのは、忘れた勲章についてどうするか善後策を考えるものであった。福井博士はそのとき、勲章を忘れたために友栄夫人から電話でひどく叱られたと子どものように困った顔をされた。翌日に迫った式典では手の打ちようがない。


それを知った夫人が、知人に持たせて届けさせるという。国際線を乗り継いで来ればぎりぎり間に合う。電話が鳴ったとき、家内からですと博士が言ったのは、「ひらめき」が働いたのである。研究者にはひらめきが非常に大事だと博士は日ごろから説いていた。


式典の直前、博士の部屋で届いたばかりの勲章の装着のお手伝いをした。赤と白の太い帯を右肩からタスキ掛けして腰の部分に勲章をつけ、首から胸に文化勲章を装着すると、絵で見る明治の元勲のようなあたりを払う威厳を感じた。しばし見惚れていると、ノーベル財団の「御用聞き」が部屋にやってきた。勲章がうまく装着されているかどうか、健康状態がいいかどうかチェックに来たのだという。


財団の手筈の良さに感心したが、年配の御用聞きは福井博士の勲章装着を一目見て「グッド」とつぶやいた。こうして博士は二つの勲章を装着して、記念式典の壇上へのぼって行った。


ばば・れんせい会員 1940年生まれ 65年読売新聞入社 編集局社会部 科学部 解説部を経て論説委員 2000年退社 東京理科大学知財専門職大学院客員教授 主な著書に『大丈夫か 日本のもの作り』(プレジデント社)『ノーベル賞の100年』(中公新書) 『大丈夫か 日本の産業競争力』(プレジデント社) 『物理学校』(中公新書ラクレ) など

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