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バルトで遭遇したクーデター(高山 智)2008年7月

モスクワの外も戦場だった
驚天動地。そういっても大げさではない事件にぶつかることが、記者人生、ままある。忘れられない出来事のひとつは17年前の夏、旅先のラトビアで巻き込まれたクーデター騒ぎだ。強まる逆風とたたかいながら、何とかソ連邦の枠組みを守ろうとしていたゴルバチョフ大統領への、とどめの一撃ともなった、あの保守勢力最後の大反乱である。

●ラジオから非常事態宣言が

そのころ朝日新聞の論説委員室にいて、主にソ連東欧地域を担当していた。分離、独立への動きを強めるバルト地方を2年ぶりに見ようと、1991年8月15日東京を発ち、モスクワ経由で18日夜、ラトビア共和国の首都リガに着いた。泊まるホテル「ラトビア」の26階展望レストランで遅い夕食をすませ、ベッドに就いたのが深夜。翌19日朝5時半ごろ目が覚め、枕もとの携帯ラジオのスイッチを入れた。

すると、重々しい口調のロシア語で、妙な予告が流れていた。「朝6時に重要な発表がある。注意するよう」。それが何度となく繰り返される。いやな予感がした。

そして6時。流れ始めた布告を聞いて、それこそ飛び上がらんばかりに驚いた。

「ゴルバチョフ氏の健康状態が任務の遂行に耐えられなくなったため、ヤナーエフ副大統領が大統領を代行する」「きょうから6カ月、非常事態を実施する」。

その瞬間、ゴルバチョフは追い落とされたな、と思った。非常事態とは、全土に実力部隊を繰り出す、ということだろう。世界中が騒ぎになるぞ──。

すぐにモスクワ支局と東京本社に電話を申し込んだ。クーデターなら、通信の切断は時間の問題、と考えたからだ。モスクワへは5分ほどでつながった。早朝にもかかわらず島田博支局員がいて、すでにタス通信の速報で「異変」を知っていた。これでひと安心。

東京へも40分後に何とかつながった。論説委員室に回してもらう。きょう組の社説は、間違いなくこの事件一本に絞られるだろう。本来なら私が書かねばならぬテーマだ。しかし、事態のカギをにぎるモスクワの動向も、米欧などの反応もここではつかめない。社説の当番デスク(三露久男副主幹)には、「国際担当のみなさんで書いてほしい。小生も参考意見を送るから」とお願いした。

1時間後に、東京から電話を入れなおしてもらい、それまでに考えた社説の構想めいたものを吹きこんだ。電話は外報部に回って、村上吉男部長から、むずかしい注文をいただいた。「モスクワに飛んでほしい。支局への応援を頼みたい」「でも、せっかくバルトにいるのだから、そちらのルポもいただけないか」。

さあどうするか。なにはともあれホテルの部屋に30分おきに定時電話をいれてほしい、と頼んで街に出た。もう昼近くになっていた。日本時間では夕刻である。

●リガから勧進帳で第一報

ホテルに近い旧市街は騒然としていた。バルト海のリガ湾に注ぐダウガワ川の右岸に広がるのが旧市街だ。13世紀以来この地を支配したドイツ、スウェーデンなどの名残をとどめる、由緒ある建築物が多い。そこの石畳を揺るがせながら、戦車が、装甲車が走り回っていた。空には武装ヘリが旋回し、時折急降下しては、市民を威嚇していた。

出動した部隊を遠巻きにしている人たちに声をかけた。ロシア人だという老婦人は、なんとクーデター支持組だった。「こういうこと(クーデター)はもっと早くやるべきだった。私たちロシア人は占領者とののしられ、ひどい仕打ちを受けている。18歳になる孫娘は大学にも入れなかった。ラトビア語がわからないからなの。ゴルバチョフは口先ばかりでなにもやってくれない」。

軍人だった夫とともにウクライナから移って46年。二人の娘も嫁いで、一家はここに根を下ろした。どこにも移る気はない、という。バルト3国のなかでも工業化の進むラトビアには、とりわけ多くのロシア人が流入し、リガに限ればラトビア人のほうが少数派なのだ。独立などもってのほか、と思う人が少なからずいて当然だ。

タクシーを拾って、小雨のぱらつきだした午後の市内を回った。運転手もロシア人だった。川向こうの新市街も見たかったが、ゴーリキー大橋は兵士らに封鎖されていた。旧市街に戻り、独立派が優勢の最高会議に向かった。

最高会議ビルのプレス担当室は地元記者らでごったかえしていた。飛び込んできた日本人記者を仲間と思ってくれたのだろう。アルメニア人のソ連紙記者が、朝からの動きを教えてくれた。こんな情況だった。

筋金入りの保守派とされるラトビア共産党第一書記が早朝、突然記者会見を開き、「ゴルバチョフ辞任」を告げるとともに、「非常事態に協力しないマスコミには相応の措置をとる」と警告した。ラトビア非常事態国家委員会の議長に任ぜられた将軍も「以後全権をにぎる」と最高会議議長に通告した。これに対し最高会議は「ラトビアは平静で、非常事態を宣言する根拠は何もない」と反論。非暴力の抵抗に立ち上がるよう市民に呼びかけた──。

これだけわかれば第一報は書ける。待たせてあったタクシーでホテルに戻り、6階の部屋にかけこんだとき、東京からの定時電話が鳴っていた。勧進帳で送った原稿は、ささやかながら国際面に段もので入った。

●強硬派の士気も急低下

翌20日未明、パラパラパラと、銃声のような音がホテルまで聞こえてきた。朝になって旧市街を歩く。市民広場に2、3百人の人々が集まって、低空で旋回する武装ヘリに向け、抗議のこぶしを突き上げていた。その場で知り合ったドイツ紙のリガ駐在記者によると、未明に降下部隊がラジオ局に乱入し、抵抗するディレクターを射殺、4人に負傷させた、という。

この日クーデター部隊の動きは一段と露骨になって、モスクワに飛ぶどころではなくなった。外国人客の多いホテル「ラトビア」の前にも装甲車が進出してきた。ホテルには数人の警官が現れ、フロントに保管されている宿泊者のパスポートを調べだした。「お前の身元も洗われるぞ。もぐりで記者活動をしているのだから」と先のドイツ紙記者。外部との交信は断たれて送稿も連絡もできなくなった。

ところが21日になると、部隊の動きが急に鈍くなった。ホテル前の装甲車はなお居座っていたが、市内をフルスピードで走りまわる動きはまれになった。エリツィン・ロシア大統領らの不屈の抵抗もあって、軍は分裂しクーデターは挫折しつつあった。そうしたモスクワの情況が伝わって、バルト強硬派の士気も衰えたのだろう。

●日本語の採点を頼まれる

それにしても、ラトビア人はしたたかだった。モスクワに行かなければ、とホテルのロビーに降りたところ、どこで知ったのか、中年のラトビア女性が私を訪ねてきていた。彼女は装甲車を見やりながらこう言い放ったのだ。「彼らに何ができるものですか。戦車やヘリコプターがやたらに動き回るのは、もともと参加部隊が少なく、少しでも多く見せたいからなのよ」。

彼女は日本語を独習して1年前から自宅で夜、日本語教室を開いているとか。40人近い生徒たちに書き取りをさせた、正しく書けているか採点してほしい、というのが用件だった。こちらが肝をつぶした武力政変のさなかも、市民生活はさして変わることなく、営まれていたらしい。バルト3国の独立回復が実現したのは、それから半月後、ソ連邦の解体は4カ月後のことだった。

リガは美しい都市だ。初めて訪れた1977年、大聖堂で聴いた、古いパイプオルガンによるバッハ演奏と、街のいたるところに咲くライラックの見事さに心を奪われた。クーデター騒ぎの日々から時を経て、中世ヨーロッパの香をとどめるあの街は、かつての輝きを取り戻しているにちがいない。




たかやま・さとし会員 1937年生まれ 61年朝日新聞入社 ユーゴスラビア ブルガリア語学留学 モスクワ支局長 調査研究室主任研究員 論説委員など 97年退社 以後2007年まで中部大学国際関係学部教授
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