ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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2度の“国外退去”命令(有泉 一雪)2007年10月

イラン革命とイライラ戦争のころ
イラン革命の取材が一段落したころの1979年11月、テヘランのアメリカ大使館がイラン人過激派学生に占拠された。直ちにテヘランにとんだ。

アメリカ大使館は街の中心部にあって、広い敷地は四方が鉄格子で囲まれており、4階建ての大使館に忙しく出入りする過激派学生は男子がTシャツにGパン姿、女子はコーランの掟を守ってチャドルで身を包んでいた。

大使館に日参し、鉄格子越しに彼らとの接触を試みるが、ほとんどの学生は完全にわれわれを無視し、振り向いてすらくれない。しかしこっそりと対応してくれた学生は「アメリカが武力による人質奪回を計画しているという情報が流れているが」との問いに、大使館内には自動小銃や手榴弾などの武器がすでに準備されていることを教えてくれた。

■ホメイニ師不敬罪?

1980年を迎えて早々、イラン情報省から「あす10時に出頭せよ」とのメッセージを受け取った。緊急に開かれる記者会見の通知かとたかをくくっていたら、出頭命令を受けたのは、どうやら私だけのようだ。何事かと思いながら、情報省を訪れた。

担当のナハヴィー国際局長の口から「あなたの放送局は番組の中で、最高指導者ホメイニ師を大変侮辱した。イラン政府の抗議の意思として、あなたの処遇の変更を検討している。追って連絡があるまで、一切の取材活動を禁止する」と通告され、その場で記者証を取り上げられた。

思いもかけない話に驚き、詳しい内容をただすと、「動物園のサルがホメイニ師に似ているとアナウンサーがコメントしたこと」「処遇の変更には私の国外退去が含まれること」などの点が伝えられた。

本社と連絡をとったところ案の定、新年恒例の干支に関する話題が問題の発端ではないかとのこと、こじれないようにと願いながら、当面は相手の出方を待つこととした。

数日後、呼び出しに応じてナハヴィー氏に会うと、「革命にともなう情報省内部の混乱のため強硬派の意見に振り回され、迷惑をかけた。慎重に検討した結果、ホメイニ師への侮辱問題はなかったことで処理することとした」との決定が明らかにされた。

多少むっとしながらも、情報省が常識的な結論を出したことに安堵し、国外退去という処分が消滅したことにほっとした。

別れ際にナハヴィー氏は「天皇陛下を侮辱すると重罪が課せられる時代が日本にあったと思う。ホメイニ師を絶対者とみる情報省内部の強硬な連中の気持ちも分かってほしい」と付け加えた。

この発言には率直に言ってビックリした。不敬罪という亡霊がこともあろうに、革命の地イランで突然姿を現した格好だ。ナハヴィー氏の博識に感銘したが、と同時に、日本の歴史に対する認識を共有しいることが一瞬にして2人の間隔を縮めたことを意識した。それから話が弾み、シーア派の聖地コムのモスクでパーレヴィ国王軍と戦った体験談を聞かせてもらった。有意義で楽しいひとときであった。

■アンマンからタクシー1千キロ

この年の9月、国境問題の解決を大義名分にイラクはイランに攻め入った。8年に及んだイランイラク戦争の勃発だ。本社から電話があり、速やかにバグダッドに行くよう指示された。

イラクへの空路はすでに、すべて閉鎖されていたので安全な陸路を探した結果、中東地域での政治的な立場や地理的利便さを考え、ヨルダンのアンマンを出発地とすることとした。アンマンからバグダッドまでは真東におよそ1千キロ、乗客1人1万円相当の片道運賃でタクシーの運転手と話をつけ、明けやらぬうちにアンマンを出た。

砂漠の中の一本道を、遠くに蜃気楼を眺め、冷房装置がないのに窓を閉めたまま、行きかう車もない道路をひたすら東に向かった。運転手に「窓は閉めているほうが暑さをしのげる」と言われ、素直に従った。

夜遅く着いたバグダッドの街は灯火管制で真っ暗だ。太平洋戦争中の経験を思い出し、戦地に近づいたという緊張感がじわりと迫ってきた。

開戦間もないバグダッドではほぼ毎夜、対空砲火が街の隅々に響き渡り、機関砲の弾が花火のように夜空を飛び交った。その先には当然イランの戦闘機が見えるものと思って目を凝らしたが、意外なことに機影は全く見えず、また耳を澄ましても一向に爆音は聞こえなかった。空襲で飛来する戦闘機が1万メートル近い上空を飛行することはありえず、狐につままれた思いにとらわれた。

あくる日のバグダッドブレティンには「イラン空軍機36機撃墜」の見出しがおどっている。その日によって多少数字は違うものの同じようなニュースが毎朝伝えられるようになった。

敵機の見えない空襲や多数のイラン戦闘機が撃ち落とされていることについて、イラク政府はわれわれの疑問に全く応えようとしなかった。

ある朝、スペインの新聞「エルムンド」の記者が警官によって強引にバスで連れ去られる場面に出くわした。彼の同僚に理由を聞いたところ、「バグダッドからの嘘」という記事を書いたために、事情を聞きたいと言って連行されたのだと教えてくれた。

またこの記事は「撃墜された戦闘機の数をすべてまとめると、イランにはF4ファントムが一機も残っていないことになる」と書いていると話してくれた。当初は、マスコミに協力的であったフセイン政権が広報活動については舵を大きくきったことをこの出来事は示唆していた。

■大使夫人から梅干しのおにぎり

案の定、その2日後バグダッドに駐在する全外国人特派員に招集がかかり、ホテルの広間に集められた。席上スポークスマンはイラク政府の決定として「タイムズ、ニューヨークタイムズ、BBC、CBS、AP、ロイター以外の特派員は速やかにイラクを出ること」と命令口調で述べた。会場は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。

理由を明確にせよとの私たちの要望に対する答えは、「日本のジャーナリズムは国際的な影響力を持たない」の一点張り、執拗な抗議に対しスポークスマンは「イラク政府の決定に従わないものは逮捕する」との最後通牒を突きつけてきた。

納得できる妥協点が見つかればとの思いでイラク駐在の加賀美大使にお願いし、イラク外務省と話しあってもらったが、この件は箸にも棒にもかからないということだった。

バグダッド滞在ちょうど1週間、取材の本番はこれからという矢先の国外退去、反撃できない暴力に一方的に叩きのめされたような不愉快な気分を腹に収め、バグダッドを後にした。

別れ際に大使夫人からいただいたお土産、それは梅干しのおにぎりだった。砂漠の真ん中で皆でいただいたおにぎりが鬱憤を晴らしてくれた。




ありいずみ・もとゆき会員 1936年生まれ 59年文化放送 63年フジテレビジョン移籍 ニューヨーク特派員 解説委員 ロンドン支局長など ポニーキャニオン(出向)取締役 ポニーキャニオンエンタープライズ専務取締役など 2001年退社

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